top of page

鈴木秀子『幸せは、1ミリずつ花開く』PHP研究所、2024年

  • 5月8日
  • 読了時間: 10分

更新日:5月9日


 今年の棕櫚の主日(3月29日)のバチカンでのミサ(礼拝)で、教皇レオ14世はアメリカのイラン攻撃を糾弾するメッセージを語られ、「神は戦争を始める人々の祈りを聞かれない」という言葉が各国の主要メディアに取り上げられました。このローマ・カトリック教会の最高指導者の言葉への共感を表す意味も込めて、今回はカトリック・シスターの鈴木秀子さんによる、さらっと読めるエッセイ集『幸せは、1ミリずつ花開く』を紹介します。


 取手キリスト教会はドイツ敬虔派の流れを汲むリーベンゼラ・ミッションの宣教師夫妻によって開拓されました。ドイツ敬虔派とは、17世紀末以降、欧州(主にドイツ)のルター派領邦諸教会内において広がりを見せていたPietismus(敬虔主義)という信仰刷新運動によって形成されたグループです。ですから私たちの教会は、ルター派の流れを汲む生粋のプロテスタント教会ということになりますし、カトリック信仰の伝統の影響はほとんどありません。ただ私が赴任する以前から毎年のようにカトリック教会のオルガニストの方を招いてチャペル・コンサートを開催しています。私たちの教会の小さなパイプ・オルガンを演奏して頂くには全く不釣り合いな素晴らしいオルガニストの方で、今年も明日コンサートを開催させて頂くことになっています。


 しかし日本全体に目を転じるなら、言うまでもなく日本におけるキリスト教の伝統は、最初カトリック教会のイエズス会宣教師たちによって据えられました。現在信徒数では日本のカトリック人口とプロテスタント人口は五分五分かもしれませんが、単独の教派としてはカトリック教会が最大かもしれません。社会的な影響力という意味でもカトリック教会の方が日本では大きいように思われます。カトリックの著名人と言えば、作家の遠藤周作、曽野綾子、加賀乙彦などの名前がすぐに挙げられます。今年1月に亡くなられた「ひふみん」こと加藤一二三棋士もそうでした。メディアにも登場する社会学者の宮代真司もそうですし、政治家では自民党の麻生太郎がカトリックです。祖父吉田茂の最初の妻であった牧野伸顕の娘雪子がカトリックであったので、吉田茂も最終的にはカトリック教徒となったようです。上皇様と上皇后様の結婚を支持したことで知られる慶應大学経済学部教授小泉信三もカトリックでした。東宝映画の特撮を担当しゴジラの生みの親である円谷英二も、ウルトラマン・シリーズを手がけた息子の円谷一もカトリックでした。ウルトラマンのスペシウム光線のポーズは十字架に由来すると言われますし、ウルトラ兄弟が何度か十字架にかけられる場面もありました。同時期に放映されていた東映系の仮面ライダー・シリーズと比較して、ウルトラマン・シリーズの方がキリスト教的ヒューマニズムを感じさせるメッセージを多く含んでいたと思いますが、それは製作者の中にカトリック信仰を持つ方がおられたこととも関係があったのかもしれません。日本人として初めて国連難民高等弁務官を務められた緒方貞子もカトリックでした。しばらく前にベストセラーとなったエッセイ『置かれた場所で咲きなさい』を書かれた渡辺和子もカトリックのシスターでした。この方のお父様は二二六事件で暗殺された渡辺錠太郎陸軍大将でした。


 今回紹介するこの本を購入したのは2年前ですが、読み返してみて、改めて優れたエッセイ集だと思わされました。この本の中で恐らく実名で紹介されている方々のエピソードはどれも印象的です。鈴木秀子さんが、女性聖職者として歩む中で、多くの困難な経験をされていた方々と交流を持ち、時間を共有され、そうした方々の人間としての成長や命の素晴らしい輝きを身近で見て来られたのだということがよくわかります。


 冒頭の「惨めさが光に逆転するとき」というエッセイでは、福士さんという女性のエピソードが綴られます。見栄っ張りであったこの方は、亡くなるその日に、所持金の全てであったと思われる一万円を使って皆に焼き芋を振る舞ったとのことです。ところが、その夜心臓発作で召されてしまいました。なけなしの一万円で焼き芋を買って皆に振る舞った姿を見て、その時は鈴木秀子さんもそこまで見栄を張らなくても良いのではと感じていたそうです。けれどもこの出来事によって、この福士さんという女性は、同じ病院におられた方々に印象を残すことになったのでした。自分の抱えている弱さは、実は自分という存在の意味や存在の喜びと不可分であって、そのような弱さを否定する、あるいは自分の弱さから目を背ける生き方は、却って人生の豊かさを見失わせる可能性があるということを、鈴木秀子さんは語っておられるのでしょう。こういう瞬間の持つ意味を洞察する鈴木秀子さんの慧眼には感心させられます。何より、短文の中に、これだけ深みのあるメッセージの込められた文章を綴るというのは簡単なことではないと思います。


「嵐のあとの恵み」というエッセイでは漁師さんの言葉が紹介されていました。漁業に携わる方々にとっては、毎年のようにやってくる台風は、それによって様々な被害に見舞われために、後片付けなどが大変なのだそうですが、台風が来ない方が良い、ということではないのだそうです。台風が来ることによって海が攪拌され、海底にも酸素が行き渡り、結果的にそれが豊漁をもたらします。この漁師さんの言葉は、私たちが日常的に経験する面倒な事柄にどう向き合うべきか、ヒントを与えてくれるのではないでしょうか。毎日のようにしなければならない多くの煩雑な作業も、それらがなければ生活が成り立たない面があります。忍耐を持ってそのような事柄に向き合うための知恵が、この漁師さんの言葉には示されているのではないでしょうか。


 この本にはプロテスタントのキリスト者でもあった詩人八木重吉の言葉も紹介されていました。

 

「空のようにきれいになれるなら、花のようにしずかになれるなら、価なきものとして、あれも捨てよう、これも捨てよう。」

 

この言葉を鈴木秀子さんが紹介しているのは、恐らく修道士としての生き方の要約を、この詩人の言葉の中に見出したからなのでしょう。修道的生活の起源は、クムラン宗団のような古代のセクト的宗教運動に求めることもできるのかもしれませんが、普通は古代ローマ帝国による迫害の終結により、殉教の死を受け入れつつ信仰を証しする生き方への道が閉ざされた事がきっかけであったとされます。殉教者のように、この世の生に固執せず、来世の永遠の生命への確固たる信仰を持ったキリスト者たちの証しは、その後のキリスト教会に強い影響を与え続けました。迫害時代の殉教者のような強い信仰によって生きようとする古代末期の熱心な信仰者たちの中から、使徒的・修道的生活を志す人々が生まれたと考えられます。修道的生活が使徒的生活であると理解されているのは、使徒言行録4章に描かれている初代教会の財産共有の生活を実践するのが修道院であるとされているからです。全ての財産を放棄し、生計を立てる手段を全て修道会に委ねて生活する生き方は誰もが実践できることではありません。しかしそのように財産を放棄する群れこそが本来初代教会が目指した真のキリスト教共同体のあり方であるとする信仰は、古代以来東方正教会や西方カトリック教会において継承されてきました。鈴木秀子さんも、そのような信仰に立つ生き方を求めて修道の誓願をなさったのでしょう。そのような実践の基盤となる信仰を、プロテスタントの詩人が表明していることに共感を覚えられたのではないでしょうか。


 またヘレン・ケラーの言葉に基づいて、キリスト教的な回心についての興味深い説明を行っているエッセイもあります。そのヘレン・ケラーの言葉とは次の言葉です。

 

「私は与えられた障害ゆえに神に感謝します。これらの障害を通して、私は自分を、仕事を、そして神を見出したからです。」

 

この言葉は公に認定されるような障害の有無にかかわらず、全ての人に訴える面があります。誰しもが様々な性格上の欠点や弱さなどを抱えて生きているからです。それらも広い意味では障害と言えるかもしれません。ただそういう欠点や弱さにさえも価値を見出すのがキリスト教的回心であると鈴木秀子さんは語られているのではないでしょうか。つまりこの世の、あるいは人間の価値基準で自分を評価し、判断するのではなく、神の御覧になる仕方で自分を評価し、判断する生き方に転換するのが回心であるということでしょう。カトリック・シスターによるキリスト教的回心のそのような説明から、プロテスタントのキリスト者も教えられるはずです。プロテスタントはルターの信仰義認論やリバイバル運動の説教者たちのメッセージなどに基づいて、キリスト教的回心を、罪を悔い改めキリストの十字架の贖いを信じて生きることに限定して理解する傾向が強いと思います。けれども本来キリスト教的回心は、それだけに限定されるものではないことに鈴木秀子さんは気づいておられるのではないでしょうか。この点で、鈴木秀子さんの回心の理解は、以前このコーナーで紹介したC. S. ルイスの自伝『喜びのおとずれ』でルイスが語っていた彼の回心体験にも通じる面があると思います。


 このエッセイ集には、私がかつて学んだダラム大学の在るイングランド・ダラム市に建つ大聖堂の聖職者であったハンドレー・モール主教のエピソードも出てきます。このエッセイの冒頭には新約聖書マタイによる福音書5章4節と6節の山上の説教の言葉が紹介されていました。「悲しむ者は幸いである。その人は慰められる。義に飢え乾いている人は幸いである。その人は満たされる。」このイエス・キリストの言葉に続いて一つのエピソードが紹介されています。ダラム市のある北東イングランドは、サッチャー政権までは炭鉱業の盛んな地域でした。ある時この地域のある炭鉱で、多くの鉱夫が坑内に閉じ込められるという事故がありました。家族の安否を気遣う人々が集まっていたその前でダラム主教はこう語ったそうです。

 

「私は幼い頃、母から一枚の刺繍のしおりをもらいました。裏側から見ると、いろいろな色の糸が、めちゃめちゃにもつれ合っています。まるで間違いのようにしか見えないのですが、しかし、それをひっくり返して表を見ると、びっくりしました。見事な飾り文字が刺繍されているのです。そこには『神は愛である』と書かれていました。私たちは今日、目の前で起こった出来事を、全て裏側から見ているのです。私たちはいつの日か、今と違う観点からそれらを見て、今日起こったことの意味を理解するに違いありません。」

 

確かに今起きてしまっている出来事の意味を私たちはすぐに理解することができない、と感じることはあります。けれども無意味に思われる諸々の出来事が、実は神の計画の中で意味のある出来事、神の愛の示される出来事と認められることがあるのだとダラム主教は訴えられた訳です。カトリック教徒ではありながら、イングランド国教会の聖職者の語る言葉をエッセイの中で紹介する懐の深さも、このエッセイの魅力の一つではないでしょうか。


 最後に一言。このエッセイ集にはページが記されていません。本にあえてページを記さないということは、どこから読んでも良いということだと思います。また語られている内容を分量で測ったり、数量化したりすることを拒否しているのかもしれません。最近は「コスパ」や「タイパ」という言い方がよくなされます。以前からそういう傾向はあるものの、人々の思考や行動はとみに短絡的で性急になっていますし、物事の持つ価値を単純に数量化して捉える傾向もさらに広がっているように思われます。このエッセイはそういう流れに抗う姿勢を示すために、あえてページのない本として出版されたのではないでしょうか。そこにも修道士として生きることを選ばれた鈴木秀子さんの思想が表現されているように感じられました。

 


 
 
 

コメント


​取手キリスト教会

茨城県取手市台宿2-27-39

電話:0297-73-3377

leaf06.png

Copyright (C) Toride Christ Church All Rights Reserved.  

dove02.png
leaf06.png
bottom of page