トゥーキュディデース『戦史』(下)、久保正彰訳、岩波文庫、1966年
- 4月10日
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更新日:4月10日

大学卒業後の2年間、私立高校で社会科の非常勤講師をしていました。当時は教えるための基本的なスキルさえも身についていない新米の教員で、働かせて頂いた高校には大変ご迷惑をおかけしたと申し訳なく感じています。ただわずか2年とは言え社会科の教員として日本史と政治経済を教える機会が与えられたことはとても貴重な経験でした。
その程度の経験で何かを書くというのは大変おこがましいことではありますが、日本の歴史教育に関して常々感じていることがあります。それは日本の高校歴史教科書が、世界史にしろ日本史にしろ、その分量が圧倒的に少ないということです。私の手元にはアメリカの高校で使用されていたアメリカ史の教科書があります。その歴史叙述は主に植民地時代以降の400年程度の歴史に限定されているものの、大判のサイズで847頁もの分量があります。日本の歴史教科書は、そのような米国の高校の歴史教科書と比較するなら極端に軽薄短小です。だからと言ってアメリカ人の方が歴史に詳しいかと問われれば、全体としては必ずしもそうではありません。日本人の方が全般的にはアメリカ人よりははるかに正確な歴史的知識を持ってはいると思います。
それでも日本の歴史教科書はやはり不十分だと思います。事実に関する膨大な記録の中からごく僅かの教科書的歴史叙述に限定することによって、事実の詳細な全体像や多面的な解釈の余地は削ぎ落とされ、権力者にとって都合の悪い事実も省略されてしまう危険性が多分にあります。本来歴史あるいは歴史学の営みは、単純で断片的に見える諸事実の背後にある複雑な相互連関を明らかにすることにより、事実をより正確に伝える努力であるはずです。トゥーキュディデースの『戦史』が書かれた目的も、ペロポネソス戦争について、多くのアテーナイ人が誤解していた歴史の真実を読者に伝えることにあったのではないでしょうか。それは恐らく彼自身の名誉回復を目的とする努力でもあったはずです。また彼の政敵の愚行を暴く目的もあったことでしょう。それゆえに原著では全8巻にも及ぶ膨大な記述をトゥーキュディデースは行うことになったのだと思います。
今回もトゥーキュディデース『戦史』の下巻を紹介します。下巻の第六巻から第八巻は、紀元前416年から411年までのペロポネソス戦争後半の記録です。
第六巻は、スパルタとの平和条約がもはや有名無実化していた時期の出来事から説き起こされます。アテーナイは、シケーリア(シチリア)のイオニア系同盟都市の要請を受けて、シケーリアに大規模な軍隊の派遣を決定します。トゥーキュディデースによれば、アテーナイ市民は、シケーリアへの軍事的介入が、ペロポネソス戦争に費やされる軍隊及び軍事費と同等の規模になることに気付かずに、この派遣の決定をしてしまったのでした。このシケーリアへの大規模な軍事介入が、ペロポネソス戦争におけるアテーナイの敗北の決定的な要因となったということです。この派兵は、アテーナイからは遠く離れた地域に対してなされたもので、先住民たちにとっては、祖国防衛という明確な大義がある戦いであったのに対して、アテーナイにとってこれは単に勢力拡大と覇権維持のための戦争に過ぎませんでした。しかもシケーリアを支配下に収めることが、アテーナイにとって具体的にどのような利益を生み出すのかということについて、またそれが失敗した場合のリスクについて、おそらく当時のアテーナイの指導者たちも市民たちも熟考していた訳ではなかったように思われます。
アテーナイは、以前からシケーリア全島を支配下に置こうとする野心を持っていたようですが、反アテーナイの中心であったシュラクーサイと対立関係にあったエゲスタからの使節がアテーナイに救援を求めたのを理由にして、シケーリア派兵は決定されたのでした。ペロポネソス戦争において、かつてない規模で編成された大船団は、大規模な陸戦部隊とともに多くの補助的要員や物資や資金を搭載してアテーナイを勇躍出発するのですが、シケーリア到着早々に躓きます。派遣された陸戦部隊は、アテーナイと関係の深かったメッセーナに拠点を構築しようとしますが、これは拒否され、代わりにカタネーに上陸し、そこに最初の宿営地を設営します。
ところが上陸して間も無く、アテーナイ軍の指揮官の一人であったアルキビアデースに対する召喚状が高速艇でアテーナイから届けられたのでした。アテーナイ内部で、アルキビアデースを陥れようとする人々の策略によって彼は告発されます。アルキビアデースは一応召喚に応じる構えを見せて、高速艇に乗り込むのですが、高速艇がアテーナイに戻る途中で脱出し、スパルタに亡命してしまいます。アテーナイでは欠席裁判が行われ、アルキビアデースは有罪・死刑とされてしまうのでした。このようにシケーリア遠征はその初めから、混乱した状態で行われていた訳です。
シケーリアに派遣されたアテーナイ軍の目的は、シケーリアにおいてアテーナイに最も敵対していたシュラクーサイを攻略することでした。一方シュラクーサイ側は、アテーナイが宿営する場所のカタネーにいた親シュラクーサイ派から情報を得て、アテーナイ軍の行動の観察結果に基づいて、カタネー付近の宿営地に攻撃を仕掛けます。そこでアテーナイ勢とシュラクーサイ軍による最初戦闘が行われ、この時はアテーナイ側の勝利に終わります。
このような情勢の中で、シュラクーサイは最初にコリントスに、次いでスパルタに使節を訪問させ、シケーリアにペロポネソス同盟の援軍を派遣するように要請します(119-20頁)。この問題を討議するスパルタの集会において、なんと逃亡していたアルキビアデースが登壇して演説を行い、シュラクーサイに援軍を送ることをスパルタ市民に訴えるのでした。それはもしシケーリアがアテーナイの軍門に降れば、イタリアもアテーナイの支配下に置かれ、アテーナイ海軍のために今後も良好な木材資源を提供し続けることになり、ペロポネソス同盟は西側からの脅威にも晒されることになるからだというものでした。このようにアテーナイ内部の政治的混乱によって、アルキビアデースの祖国に対する背信的演説がペロポネソス戦争の帰趨を決する決定的な場面でなされたわけです。トゥーキュディデースは、この記述によって、ペロポネソス戦争におけるアテーナイの敗戦の原因は、アルキビアデースの裏切りにあったと物語っているのでしょう。いずれにせよ、この演説を受けてスパルタはコリントスと共に現状許される限りの援軍をシケーリアに派遣することを決定するのでした(127-28頁)。ペロポネソス戦争17年目はこのようにして終わることになります。翌年(紀元前414年)もシケーリアでシュラクーサイとアテーナイとの戦闘が続きますが、この時期はまだアテーナイ軍がシュラクーサイ軍を圧倒し続けます。またアルゴスでもアテーナイ軍とペロポネソス同盟軍との戦争が続いていました。このような記述をもって第六巻は閉じられます。
第七巻は、シケーリアにおける状況の説明から始められます。ギュリッポス率いるスパルタ軍とゴンギュロス率いるコリントス軍が、紀元前414年の夏にシュラクーサイに到着します。この時シュラクーサイで開かれていた集会では、ちょうどアテーナイ軍との休戦の協議がなされている最中であったのですが、ペロポネソス同盟からの援軍はシュラクーサイ人を強く勇気づけることになりました。援軍を得るとシュラクーサイは直ちに反撃に撃って出ます。アテーナイ軍は、シュラクーサイを包囲する陣地を構築していましたが、これを阻止するためにシュラクーサイ軍がギュリッポス率いるコリントス軍と共に攻撃を仕掛け、アテーナイ軍による包囲陣地の構築を阻止しようとするのでした。
ペロポネソス同盟軍の援軍派兵は、シケーリアにおける戦況を大きく変えるだけの影響がありました。アテーナイ軍の指揮官ニーキアースはアテーナイ本国に書簡を送り、アテーナイ軍が劣勢に立たされつつある状況を伝達し、撤退の許可か増援部隊の派遣を要請します。これを受けてアテーナイはさらなる増援部隊の派遣を決議しました。一方ペロポネソス同盟軍は、平和条約がすでにアテーナイによって破棄されたと判断し、アテーナイによるさらなるシケーリア増援を阻止するために、アッティカ侵攻を企てます(158頁)。紀元前413年の春にこの攻撃は実施されました。
それでもデモーステネースの指揮する増援部隊はアテーナイからシケーリアに派遣されます。増援部隊が到着するとすぐにアテーナイ海軍はシュラークサイ・ペロポネソス同盟連合軍との海戦に臨みますが、アテーナイ海軍はここで大敗を喫してしまいます。アテーナイ海軍は撤退路確保のためにも最後の決戦をシュラクーサイ湾内で試みますが、このシケーリアにおける最後の海戦でアテーナイ海軍は全滅し、アテーナイの陸上部隊が海路撤退する道は絶たれてしまうのでした。アテーナイの陸上部隊は包囲網の突破を試みたものの、シュラークーサイ・ペロポネソス同盟軍は、まずアテーナイ同盟諸都市の兵士たちに投降を呼びかけ、最後にはアテーナイ陸軍を完全に撃破し、ニーキアースとデモーステネースを処刑し、生き残った兵士を全て捕虜・奴隷としたのでした。このシケーリアにおけるアテーナイ軍の全滅の記述によって第七巻は閉じられます。
第八巻は、シケーリア派遣部隊が全滅したという驚くべき知らせがアテーナイに届けられたところから始まります。当初アテーナイ市民はこの知らせを信じることができませんでした。辛うじて帰還することのできた兵士の言葉さえも彼らは信じることができなかったそうです。ところがそれが事実であると認識した後も、アテーナイは不利な形での敗戦を受け入れることを回避するために、残された軍備と資金の全てを投じて覇権の維持に努めようとしたのでした(246頁)。ただシケーリアにおけるアテーナイ派遣軍の全滅の知らせはアテーナイの同盟諸都市に伝えられ、アテーナイ側のデロス同盟の結束をさらに弱体化させます。一方のペロポネソス同盟側は、さらに軍備を増強し、海軍力を強化し、アテーナイの覇権を打破することを目指すようになりました。そしてアテーナイと同盟関係にあった諸都市が次々とペロポネソス同盟側に寝返って行くことになります。
最初の重大な離反はキオスから始まりました(259頁)。キオスは小アジアの西側沖合に浮かぶ島です。さらにペロポネソス同盟側は、小アジア南部のミーレートスにも艦隊を派遣し、アテーナイから離反させることに成功します。小アジアのイオニア植民都市さえもがアテーナイから離反したことは、アテーナイをさらに窮地に陥れることになりました。アテーナイから離反したキオスも、自らの艦隊を各地のアテーナイ同盟諸都市に派遣して離反を促し、味方陣営の引き入れようとします(264-65頁)。このような旧同盟諸都市の裏切りに対してアテーナイは報復を試み、キオスやミーレートスに艦隊を送り、これらを攻撃しました。しかしペロポネソス同盟側からの増援部隊により、アテーナイ側の形成は徐々に不利なものとなって行きます。デロス同盟に加わっていた、優れた陸海軍を有するロードス島もペロポネソス同盟に加わります(287頁)。さらにペロポネソス同盟側はペルシャ帝国とも数度にわたる条約を結び、小アジアにおけるアテーナイの同盟諸都市をさらに離反させるように仕向けるのでした。このようにペロポネソス戦争末期のアテーナイの戦いは絶望的な様相を呈するようになって行きます。
一方アテーナイ市内は、民主政が一時解体され、混乱をきたすようにもなっていました。それはつまりアテーナイ市自体が戦争を継続する政治的決定能力を喪失しつつあったということでもありました(309頁)。市民全員による民議会は廃止され、400人議会という限られた市民による貴族政的な制度が始められます。このように体制を変革することによって、アテーナイはスパルタとの和議を模索しようとするものの、それは失敗に終わりました。またこの時期、以前スパルタに亡命して売国的な演説を行い、シケーリアにおけるアテーナイ軍を全滅させることに責任のあったアルキビアデースが再び表舞台に登場し、アテーナイの同盟都市サモスのアテーナイ軍の指揮官に就任するという出来事も記されています。この雄弁ではありながら、無節操で売国的な人物の戦時下における行動を白日の下に晒すことも『戦史』第六巻から第八巻の叙述の主要テーマの一つであるように思われます。
トゥーキュディデースの『戦史』第八巻は、アテーナイ市政において一時復活した貴族政が混乱のうちに瓦解し、5000人議会というどちらかというと民主政的な機関が実権を掌握した出来事が綴られる中で、紀元前411年の叙述を持って突然中断されます。ペロポネソス戦争末期のアテーナイの政治的混乱は、現在のアメリカ合衆国の政治的混乱を想起させるものがあります。アテーナイはその後6年余り戦闘を継続したものの、結局紀元前404年に降伏します。内政の混乱の先にあったものが降伏であったと暗示されているのかもしれませんが、敗戦の直接の経緯についてトゥーキュディデースは記録を残してはいません。ですから『戦史』は、ペロポネソス戦争の終結の様子を明らかにすることなく、その幕を閉じてしまうのです。敢えていうならトゥーキュディデースが、キュノスセーマの海戦でアテーナイ海軍がペロポネソス同盟海軍に(恐らく最後の)勝利を遂げたという記述をもってこの歴史書を締めくくっているという所に、彼の揺るぎない祖国愛が示されていると解釈することもできなくはありません。それでもトゥーキュディデースが亡くなるのは紀元前395年と推定されていますから、『戦史』が未完に終わった理由は現在も謎のままです。ただ叙述を続けることができなくなったのは、あるいは真実が明らかにされることを好まない何者かによってトゥーキュディデースの執筆が妨げられたからだったのかもしれません。
ペロポネソス戦争という古代ギリシャの戦争は、戦場の中心がギリシャ南部でありながら、西はシケーリア、北はトラーキア、東は小アジアにまで及び、地中海世界中部の非常に広範囲な地域を戦場としていました。それは紀元前5世紀のギリシャ文明の広がりを示すのですが、同時にこの地理的広がりからトゥーキュディデースが執筆したこの作品の持つ意味をも考えさせられます。トゥーキュディデースは、この戦争当時、アテーナイに住み、アテーナイ近隣の事柄しか見聞きしていなかったようなアテーナイ市民たちに対して、ペロポネソス戦争において、遠く離れたシケーリアで起きた戦闘などが正確にはどのようなものであったのか、その詳しい記録を伝えようとしたのでした。それによって、アテーナイの人々が陥っていた誤解や事実誤認を改めて、真実を認識してもらうことを目指したのでしょう。それはまた彼自身の名誉のためでもありました。彼は、自身の指揮したアンピポリス救援作戦の失敗が、確かにアテーナイに不利な状況を生み出したことは認めながら、しかし祖国敗北の引き金を引いた張本人は裏切り者のアルキビアデースであったことを詳細で正確な記録に基づいて明らかにしようとしたのではないでしょうか。だからこそ彼は、シケーリアから小アジアにまで及ぶ広大な地域で展開された諸々のギリシャ人たちによる戦闘の詳細を記録し、伝承しようとしたのでしょう。
以前このコーナーで佐藤優『国家の罠』という本を紹介したことがありました。小泉政権のもとで、それまで自民党主流派であった旧橋本派に属し、活発な対ロシア外交を展開していた鈴木宗男氏の外交への影響力を排除するために行われた国策捜査を、被害者の側から克明に記録した書物です。佐藤優さんがご自身の経験を詳細に記録し、それを出版したことによって、あの国策捜査が、日本の真の国益のためというより、日本とロシアの接近を好ましく思わない(恐らくCIAを含む)内外の勢力によって企てられた陰謀であった可能性が高いことが明らかにされました。また副産物としては当時外務大臣を務めた田中真紀子という人物が、外交に携わる政治家としては全く無能であったことが『国家の罠』によって明らかにされ、恐らくこの女性の政治生命に終止符が打たれることにもつながったのでした。ともかく『国家の罠』という書物は、詳細で正確な事実の記録というものが持つ社会的価値を私たちに示している本であり、この書物の果たした役割はトゥーキュディデースの『戦史』の果たした役割と似ていたのではないかと思います。
歴史書が果たしてきた社会的な役割は古代ギリシャの時代から基本的には変わることはないと思います。その一つの役割は可能な限り正確な事実を人々に提示することであり、それによって人々にできる限りの真実を伝えることにありました。歴史家は、知られていなかった事実が伝えられることによってもたらされる政治的・社会的インパクトを当然のことながら想定しつつ歴史書を書きます。できるだけ正確に事実を明らかにし、誰が嘘をついていたのか、或いは誰が実際には不正を行っていたのかを明示することによって、嘘つきや不正を行う者に、ふさわしい社会的評価を受けさせるという目的が歴史書にはあります。なぜ人がそのような歴史を書こうとするのか、またなぜそのような歴史を読むのかといえば、それはつまり人間が本来道徳的な存在であるからではないでしょうか。人間は皆不完全ではありながら、しかし皆正義と真実を求める存在だと思います。或いは嘘つきによって不当な評価を下された人物であれば、当然のごとく自らの正当性を弁明し、名誉を回復することを願うことでしょう。皆真実を知りたいし、嘘つきを信用したくはないはずです。歴史や歴史学が存在するのは、基本的にはそのような人間の本来の性質に基づいています。
このような歴史や歴史学の果たしてきた社会的役割は、AI革命の進行する現代においても失われることはないと思います。今後広義の歴史学は、例えばフェイク・イメージを解析するというような作業にも関与していくことになるのでしょう。それは正確な事実を把握するという作業が、恐らく人間にしかできないし、そして正確な事実を把握することの重要性も、人間にしか理解できないからだと思います。AIというものは、それがどんなに高度に発達したとしても、あくまでも仮想現実の世界においてのみ存在する知的機能に留まり続けるのではないでしょうか。そして歴史学は、その存在意義が人間の本性に根ざしている以上、仮に今後AIが発達したとしても決して無くならない学芸であり続けるのではないでしょうか。
もう一つ『戦史』から教えられる教訓を最後に付け加えたいと思います。『戦史』下巻から教えられるもう一つのことは、シンプルですが重要なことです。それは同盟と国益を両立させることの難しさです。アテーナイはシケーリアの同盟都市からの援助要請もあって、冷静な状況判断をせずに大規模な軍事的支援と介入を決定してしまいました。これがアテーナイのペロポネソス戦争における敗北の直接的な要因であったとトゥーキュディデースは考えています。そしてこのアテーナイの判断の決定的な過ちは、今私たちが目撃している出来事、つまりイスラエルの腹黒い首相の言葉に欺かれたアメリカ合衆国の愚かな大統領の決断と良く似ています。
またシケーリアでシュラクーサイに隣接していたカマリーナというアテーナイと同盟関係にあったはずの都市を巡る記述は、現在の日本の置かれている状況を考える上で示唆的です。シケーリアに上陸したアテーナイ軍はシケーリア諸都市に働きかけ、シュラクーサイとの戦いに加わり、アテーナイ軍に協力するように呼びかけます。カマリーナもそのようなアテーナイ軍の呼びかけを受けています。しかしそれを察知したシュラクーサイはカマリーナに使節を送り、アテーナイに協力しないように呼びかけるのでした。双方の使節の演説を聞いた後で、カマリーナ人たちは、シュラクーサイにもアテーナイにも曖昧な回答をします。カマリーナ人はシュラクーサイに全面的に協力することはできない対立関係を抱えてはいました。しかし仮にアテーナイが敗北し、シュラクーサイが勝利した時には、この厄介な隣国との関係を維持しなければなりません。それでカマリーナ人は両陣営のどちらかに着くということについて、明確に決断し表明することを回避した訳です(118頁)。
今、日本が直面している問題も、同盟と国益をどう両立させるかという問題です。日本は戦後復興に資金を集中するために、軍備にお金をかけず、アメリカに日本の防衛を負担してもらうという選択をし続けてきました。70年前、あるいは40年前位まではそれで良かったのかもしれませんが、もはやそのような国家の方針を維持し続けることは、明白に日本の国益に反する状況が生まれつつあります。日本は非核を堅持しつつも、真の意味で我が国の国土防衛に専念する自衛力を強化する安全保障政策をこれから取り始めなければならないのでは無いでしょうか。




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