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トゥーキュディデース『戦史』(中)、久保正彰訳、岩波文庫、1966年

  • 3月10日
  • 読了時間: 23分

 

 かつてオックスフォード大学で古代史を教えていたアーノルド・トインビーは、「大戦争」(The Great War)と称される第一次大戦中に、トゥーキュディデース『戦史』をテキストに学生に教えていたそうですが、教えながらトゥーキュディデースがこの歴史書で使っている表現とまさに同じ実感を戦時下の英国人として抱くことがあったと振り返ります(トインビー『歴史の教訓』109頁)。今、世界ではウクライナとパレスチナで二つの戦争が続き、先日はアメリカとイスラエルが恐らく差し迫った理由もなくイランを攻撃するという国際法を無視した犯罪的暴挙を犯しました。イラン国民に向かって体制転換を迫る無知で愚かな言葉を聞くと嫌悪感を催しますが、トゥーキュディデース『戦史』中巻の歴史叙述を想起させられる出来事でもありました。この巻でトゥーキュディデースは、ペロポネソス戦争がギリシャ諸都市内部の対立や紛争と連動していたことを詳しく描いています。ポリスを超えた戦争は、各ポリス内部の平和と秩序を乱す作用もあったのでした。現代の国際戦争が各国に与える影響を考える上でも『戦史』は我々に示唆を与えてくれるように思います。


 先月に引き続きトゥーキュディデース『戦史』の中巻を紹介します。上巻ではペロポネソス戦争開戦の経緯から最初の三年間の歴史が記されていました。中巻では紀元前428年から416年までの戦争の経過が叙述されます。


 中巻は第三巻から始まりますが、第三巻は書き出しからアテーナイにとって戦況が徐々に不利となる出来事が綴られています。それまでアテーナイ側であったレスボス島の諸都市がアテーナイとの同盟から離反したからです。レスボス島の都市ミュティレーネーは、ラケダイモーン(スパルタ)の招きに応じて、オリュンピア祭に使節を送り、そこでアテーナイ側のデロス同盟から離反し、ペロポネソス同盟側に付く決断をするに至った経緯を説明します。使節の説明によれば、ミュティレーネーがアテーナイとの同盟を維持していたのは「友誼ではなく脅威に縛られていた」からでした(32頁)。そしてアテーナイが疫病に見舞われ、戦費が窮迫するタイミングでペロポネソス同盟軍によるアッティカ侵攻を促します。そのようにミュティレーネーの使節はペロポネソス同盟側への参加を受け入れるように嘆願するのでした。ペロポネソス同盟側は、ミュティレーネーを受け入れ、使節の提案通り、アッティカ侵攻の準備を始めます。ところがこれに対してアテーナイは、海軍をコリント沖に派遣し、ミュティレーネー使節が主張した程、アテーナイは疲弊してはいないことをペロポネソス同盟側に示し、またレスボスのミュティレーネーに対しても攻撃を加えました。


 次いで、プラタイアに話題が移ります。第二巻において、プラタイアはペロポネソス同盟軍に包囲されている状況が記述されていましたが、プラタイア城内は食料不足のため、包囲網の突破を目指す脱出隊が組織され、包囲をかい潜って212名の脱出隊が何とかアテーナイに到着することが出来ました(43頁)。他方、ミュティレーネーに対しては、ペロポネソス同盟軍が救援部隊を船で派遣します。このようにして『戦史』の記すペロポネソス戦争の4年目が終わります。


 第五年目の夏、アテーナイはレスボス島のミュティレーネーを降伏させることに成功し、都市内のペロポネソス同盟派を捕虜としました。一方アルキダースの指揮するペロポネソス同盟艦隊の救援部隊は、ミュティレーネーへの到着が遅れ、結局ミュティレーネーの救援は果たされずに終わります。ミュティレーネーを攻略したアテーナイ軍の指揮官は、ミュティレーネーにおいてアテーナイ離反を画策した人々を捕虜としてアテーナイに送りますが、アテーナイは彼らが到着すると即座に処刑してしまいました。さらに民会においてミュティレーネーの成年男子全員の処刑と、女性と子供を奴隷とするという決議を行ってしまいます(51頁)。このような残虐な決定がなされた理由は、アルキダースの指揮した艦隊が、ミュティレーネー救援には間に合わないことがわかると、アテーナイの有力な同盟諸都市のあるイオニア植民地を攻撃する構えを見せたと言う情報がアテーナイに伝わり、市民の怒りが増大したためだとされます。しかしながら、一度民会での決定はなされたものの、さすがにこのような情け容赦のない処置は行き過ぎであるとの反省が一部の市民の間に広がり、結局この決議は覆されることになります(52頁)。


 ところがこの民会で、強硬論を唱えていたクレアイネトスの子クレオーンは、前日の全員処刑の決議を覆されたことを批判するために、登壇して演説を行うのでした。ミュティレーネーの離反は看過し得ない重大な反逆であり、反逆者にはその罪にふさわしい報いを与えるべきであって、最初の決議がふさわしいと言うのがクレオーンの主張でした(52-59頁)。しかしこれに続いてエウクラテースの子ディオドトスが登壇して、クレオーンの強硬論に反論します。ディオドトスは、良い判断の大敵は性急さと怒気であるとして最初の議決を批判します。アテーナイは、別の都市ミュティレーネーの行為の裁判官ではなく、むしろアテーナイとしては、今後ミュティレーネーの市民たちがアテーナイのために有益な行動を選択するような施策をミュティレーネーに対して講じるべきであると冷静に主張します。ディオドトスは、追い込まれて常軌を逸した行動をしかねない人々を、恐怖や威嚇によってその行動を抑制することはできず、むしろ離反しようとした都市が失敗した場合、悔い改めの余地を残す方が賢明であると論じます。なぜなら一度離反した場合、アテーナイが徹底的に離反した都市に制裁を加えると分かっていれば、離反しようとする都市は万端の準備を整えて、一端離反した後は、最後の一兵が倒れるまでアテーナイに抵抗することになる。同盟諸都市がアテーナイにそのような形で離反するようになった場合、それはアテーナイにとって非常に重い負担となる(60-68頁)。ディオドトスはこのように強硬論に反論したのでした。二人の演説の後、民会で投票が行われ、結果は拮抗していたものの、最終的にはディオドトスの演説が支持され、行き過ぎた処置を是正する決議が支持されることになったのでした。トゥーキュディデースは、ミュティレーネーに対する処置に関する民会の決議や議論を詳細に報告することによって、まだこの時点ではアテーナイの民主政が機能していたことを読者に伝えようとしているのではないでしょうか。またディオドトスの演説には、時代を超えて、個人の人間関係にせよ、国家の外交関係にせよ、人との関係をより良く保つための優れた知恵が示されていると言えます。


 同年の夏、ペロポネソス同盟軍の包囲攻撃を受けていたプラタイアも、ついに籠城戦を続けることが困難となり、ペロポネソス側に講和を申し入れます。場内に送られたスパルタ側の使節は、プラタイアが降伏すれば、ペロポネソス同盟に抵抗することを主導した責任者たちの処罰にとどめ、寛大に処置すると伝えます。しかしプラタイアと対立していたテーバイ人の強い反対意見を受け入れて、実際にプラタイアが降伏すると、籠城していた200名以上の兵士は処刑され、婦女子は全て奴隷として売られ、都市も破壊されてしまうのでした(89-90頁)。ペルシャ戦争の際には、全ギリシャが協力してペルシャ軍を打破したゆかりの場所が、このようにペロポネソス戦争において破壊されてしまったという悲劇的な出来事をトゥーキュディデースは抑制された筆致で淡々と記してはいますが、内心は沈痛な想いであったのかもしれません。


 プラタイアを巡る情勢の記述の後、トゥーキュディデースは『戦史』第一巻で触れられていたケリュキューラ島の内乱に関する叙述に移ります。ケルキューラ島は、ペロポネソス戦争の発端となった係争の地でしたが、この時期、ケルキューラ島内の貴族派と民衆派の対立が内乱に発展し、貴族派にはペロポネソス同盟の海軍が加勢し、民衆派にはアテーナイ海軍が協力することになり、内乱とギリシャ全土の戦争とが結びついてしまうことになったのでした。その結果、ケルキューラ島内では凄惨な殺戮が繰り広げられます。ギリシャ全土に広がった戦争の影響は、それぞれのポリス内部対立にも波及し、その秩序をも崩してしまうことになったわけです。このような戦時下の混乱した状況についてトゥーキュディデースは次のように描写します。

 

「無思慮な暴勇が愛党的な勇気と呼ばれるようになり、これに対して先を見通して躊躇うことは臆病者の隠れ蓑と思われた。沈着とは卑怯者の口実、万事を解するとは万事につけて無為無策に他ならず、逆に気まぐれな智謀こそ男らしさを増すものとされ、安全を期して策を巡らすと言えば、これは耳障りの良い断り文句だと思われた。」(101頁)「そして殆ど一般の場合、善行をなして馬鹿と呼ばれるよりも、悪行をなして利口と呼ばれやすい世情となり、人々は善人たることを恥じ、悪人たることを自慢した。」(102頁)

 

つまり戦争によって各ポリスに生じた政情不安の根底には、ギリシャ各都市の市民たちの道徳的な退廃が存在していたと言うことだったのでしょう。


 紀元前427年の冬、アテーナイを二回目の疫病が襲います。またこの時期、アテーナイはシケーリア(シチリア)島に海軍を送り、攻撃を加えますが、シケーリアを征服するには至りませんでした。元来シチリア島はギリシャ諸都市と密接な関係にありましたし、アテーナイが戦線をシケーリアにまで拡大したことは、結果的にはこの戦争におけるアテーナイの敗戦の要因ともなったようでした。そのような情勢の中でペロポネソス戦争の五年目が終結したとされます。


 翌年の紀元前426年の夏、ペロポネソス同盟軍は、またしてもアッティカに陸軍部隊を侵攻させるべくコリントス陸峡に兵を進めますが、この時期エウボイアのオロビアイなど各地で地震と共に津波が発生したことにより、この侵攻計画は頓挫してしまいます。一方、この夏、アテーナイは、メーロス島とペロポネソス半島にそれぞれ艦隊を送りますが、メーロス島を服属させることに失敗し、デーモステネースの指揮した重装歩兵隊もペロポネソス半島で壊滅的な打撃を受けて敗走することになりました(116頁)。しかしその後、デーモステーネスはアカルナーニアでの戦闘において勝利を収め、一度は地に堕ちかけた名誉を回復してアテーナイに凱旋することはできました。この時期、各地での戦闘は一進一退を繰り返す情勢であったと言えます。そのようにして戦争六年目が終わり、第三巻も結ばれます。


 第四巻は、冒頭からシケーリア(シチリア)におけるアテーナイとシケーリア島諸都市との抗争の叙述から始まります。アテーナイの同盟都市であり、アテーナイがその拠点を構築しようとしていたメッセーナを、シケーリアのシュラクサイとロクリスの艦隊が占領し、メッセーナはアテーナイから離反しました。これは紀元前425年夏のことだったようです。さらにこの年の春から、ペロポネソス同盟軍はまたしてもアッティカに侵攻し、麦の収穫前の農地に破壊行為を行ったのでした。


 一方アテーナイは、シケーリアに40艘の艦隊を派遣しますが、その途中ケルキューラに立ち寄ります。同時期にペロポネソス同盟海軍もケルキューラに60艘の船団を派遣し、この機会にケルキューラを完全に支配下に収めようと試みるのでした。この動きを察知して、アテーナイ艦隊は、ペロポネソス半島のピュロスという場所に一時待機し、機会を窺おうとしていました。この地に城塞を築いてから、艦隊は、一度はケルキューラ経由でシケーリアに向かいます。ところがピュロスがアテーナイに奪取されたとの知らせを聞くと、アッティカに侵攻していたスパルタを中心とするペロポネソス同盟軍は結局わずか15日間で退却し、ピュロス奪還に向かうことにします。またケルキューラに派遣されていたペロポネソス同盟側の艦隊もピュロス奪還に参加します。この動きを知ってアテーナイ艦隊も、ケルキューラには向かわず、再びピュロスに戻るのでした。ピュロスの砦を守備するアテーナイ軍は数の上ではペロポネソス同盟軍に劣っていましたが、ここで指揮をとっていたデーモステネスは守備部隊を鼓舞して抵抗し、ペロポネソス同盟軍の陸軍と海軍を共に跳ね返すことに成功するのでした。


 このタイミングでスパルタはアテーナイ側に使節を送り、和平を提案しました。アテーナイ軍によるピュロスの占拠は、それ位にスパルタやペロポネソス同盟にとっては、戦況を不利にさせる出来事と感じられたのでしょう。ところがアテーナイ側は、この和平の提案を拒絶します。ペロポネソス同盟との和議に反対したのはクレオーンという指揮官でした。クレオーンはデーモステネスを重用し、再度スパルタ軍への攻勢を仕掛け、大きな戦果を上げます。ピュロスにはアテーナイ側の駐留軍が止まりますが、この敗北の後、スパルタ軍は、ピュロス攻撃を諦めて撤退することになったのでした。


 同年夏、アテーナイは大規模な艦隊と重装歩兵二千名、騎兵二百名をコリントス領に送ります。上陸地点となったソリュゲイア村近傍の海岸では、上陸したアテーナイ軍と防戦に駆けつけたコリントス軍との間で激しい白兵戦が繰り広げられますが、騎兵の存在によってアテーナイは優勢となり、コリントス軍を撃退します。しかしコリントスの増援部隊が接近すると、アテーナイ軍は艦隊に戻るのでした。その後アテーナイ軍は、コリントスから20キロ程の地点に再上陸し、耕地に破壊活動を行ってから退却します(176-77頁)。一方ケルキューラを巡る戦いは、結局ケルキューラの民衆派の勝利に終わりました。


 この年の夏、アテーナイは、今度は艦隊60艘、重装歩兵隊2000名、及び少数の騎兵を、ペロポネソス半島南端に浮かぶキュテーラ島に派遣します。キュテーラ島の都市はスパルタとの関係が深かったのですが、アテーナイによって占領されることになりました。


 次いで舞台は再びシケーリア(シチリア)に移ります。アテーナイはシケーリア島内の対立を利用して、アテーナイに与する諸都市をシケーリアに広げ、この島にも覇権を広げようとしていました。しかしシケーリアの諸都市はゲラという場所に集まり、そこでアテーナイに敵対するシュラクサイの代表ヘルモクラテースが反アテーナイの演説を行います。シチリア島にはもともとギリシャ人が多く居住していました。そこを自己の勢力下に置こうとするアテーナイの策謀に、ヘルモクラテースは注意を喚起します。シケーリアにはドーリス系諸都市とイオニア系諸都市があり、アテーナイはイオニア系諸都市と連携しながら、シケリアを掌中に収めようとしていました。しかしヘルモクラテースは、シチリア人全体が和解し、平和を保てばアテーナイの介入の口実を排することができるし、その方がシチリア人の利益に適うことを力説します。シケーリア諸都市はヘルモクラテースの提案を受け入れました。介入の機会を窺っていたアテーナイの艦隊はなすすべもなくアテーナイに帰投するのですが、アテーナイに戻ると、シケリアに派遣した艦隊などの指揮官たちは、賄賂によって懐柔され、シケリア征服の絶好の機会を見過ごしにしたとの事実無根の理由によって追放刑や罰金刑を課せられたのでした(193頁)。トゥーキュディデースは事実を淡々と記述していますが、このシケリアを巡る情勢に関して、当時のアテーナイの市民や指導者は冷静に事実を判断する能力を失っていたことを描写しているのでしょう。


 シケーリア島を巡る情勢を記述した後、トゥーキュディデースの叙述は、メガラの攻防に移ります。メガラはアッティカにありながらコリントス地峡に近い位置にあり、元来コリントス人によって建てられた都市でした。かつてはアテーナイとの同盟関係にあった時期もありましたが、ペロポネソス戦争の時点ではペロポネソス同盟に参加していました。アテーナイは、メガラをすぐに攻め落とすことは難しいと判断すると、ニーサイアの周囲に攻城壁を築き、これによってニーサイアを陥れることに成功します。ここからさらにメガラ攻撃の準備を始めるのでした。これを知ったスパルタの指揮官プラーシダースはニーサイア救援に向かい、メガラへの入城を希望します。ところが当時メガラも貴族派と民衆派との間で内乱の危機を孕んでおり、結局プラーシダースの要請を一度は拒否するのでした。ところがアテーナイが、プラーシダースの指揮する部隊と交戦する意思がないことが分かると、一転プラーシダースの部隊を受け入れます。そして貴族派が権力を掌握し、アテーナイ側と通じていた民衆派の人々を裁判にかけて処刑してしまうのでした。メガラのアテーナイ派が粛清されると、結局アテーナイ軍もメガラ攻撃を諦めて撤退します。このようにメガラにおいても、ペロポネソス戦争の影響によるギリシャ諸都市の政治的不安定が露呈されることになりました。この戦争が、ギリシャ諸都市の内部対立を激化させ、諸都市の全般的な衰退を招いた事情を、トゥーキュディデースは克明に描き出している訳です。またペルシャ戦争後にアテーナイにおいて確立した全ての自由人による民主政の影響は、他のギリシャ諸都市にも及び、ギリシャの各都市内部に貴族派と民衆派の内部対立を刺激することになった事情も、メガラの動向から伺うことができます。


 メガラをペロポネソス同盟側に繋ぎ止めることに成功したのち、プラーシダースは1700名の重装歩兵と共にトラーキア遠征に向かいます。スパルタは、アテーナイによるペロポネソス半島への攻撃が熾烈を極める中で、ギリシャ周辺地域のアテーナイ側の同盟諸都市に攻撃を加えれば、アテーナイのペロポネソス半島への攻撃をかわすことができると考えたのでした(209頁)。このトラーキア遠征軍を指揮したプラーシダースは、トゥーキュディデースにとっては因縁の好敵手であったはずですが、ここでもトゥーキュディデースは、私情を交えず、プラーシダースの指揮官としての有能さを記述します(210-11頁)。トゥーキュディデースの歴史家としての誠実さが示されている箇所と言えるのではないでしょうか。


 プラーシダースは、まずアンドロスの植民都市アカントスを攻撃する構えを見せます。アカントスの市民もやはり二派に分裂していましたが、プラーシダースを城内に受け入れ、彼の演説を聞くことにします。プラーシダースは、今般の戦争が、アテーナイの圧政に対して、ギリシャ諸都市の自由を守るために始められたと主張し、アカントスもペロポネソス同盟側に立って、アテーナイと戦うようにと訴えます。この演説を受けてアカントス市民は投票を行い、プラーシダースの説得を受け入れて、アテーナイ陣営から離反し、ペロポネソス同盟側に加わることを決議するのでした。


 ついでトゥーキュディデースは、アッティカ北西に位置するボイオーティアでの攻防に話題を転換します。ボイオーティアの中心都市テーバイは、かつてペルシャ戦争の際、ペルシャ側に加担したこともあって、アテーナイとは常に敵対的な関係にありました。424年の冬、アテーナイまずシーバイを攻略しようと試みますが作戦は失敗に終わります。ついでヒッポクラテースの率いる部隊がデーリオンに陣地・防壁を築きました。一方のボイオーティア勢はタナグラという場所に部隊を集結させます。ここで指揮官たちは、デーリオンに陣取るアテーナイ軍と一戦を交えるか否かに関して、議論が交わしました。この時、テーバイ管区の執政官でアイオラダースの子バゴンダースは、アテーナイ軍が越境してボイオーティア領内に陣地を築いているのだから当然戦闘を開始するべきであると主張します。このパゴンダースの提案は受け入れられ、ボイオーティア勢は、デーリオンに陣取るアテーナイ軍を攻撃しました。アテーナイ軍の左翼はある程度持ち堪えますが、右翼はボイオーティアの歩兵と騎兵の挟撃に遭い無惨にも敗走してしまいます。戦闘終結後、アテーナイは、戦死者の遺体収容をすることを求めますが、戦いに勝利したボイオーティア側は、アテーナイが不法侵入した領土から撤退しない限り、戦死者の遺体収容を認めないと強硬な姿勢を取ります。さらにボイオーティア勢は、投槍兵・弩弓兵やコリントスの重装歩兵2000人などの加勢を得て、デーリオンの砦にとどまり続けるアテーナイ軍を攻略し、デーリオンの砦の奪回に成功しました。アテーナイはもう一度使節を送り、戦死者の遺体収容を求めたところ、今回はボイオーティア側もこれを認めます。この戦いで指揮官ヒッポクラテースを含む1000名以上のアテーナイ兵が倒れました。


 このボイオーティアでのアテーナイ陸軍の敗北は、ペロポネソス戦争においてアテーナイ軍が初めて喫した大敗としてトゥーキュディデースは記録しています。これは第二次世界大戦で言えば独ソ戦、アジア・太平洋戦争で言えばミッドウェー海戦やガダルカナル島の攻防と比較することができるかもしれません。


 ボイオーティアでの戦闘の後、ストリューモーン河畔のアテーナイ同盟都市アンピポリスを巡る攻防に叙述は転じられます。このアンピポリスの攻防も、ボイオーティアでのアテーナイの敗戦と共にペロポネソス戦争の転換点に位置付けられます。


 このアテーナイにとっての重要な同盟都市アンピポリスは、ペロポネソス同盟軍の優れた指揮官プラーシダース率いる軍勢が攻撃したのでした。この攻撃以前に、アンピポリスには敵側との内通者が存在しており、彼らは迫り来るプラーシダースの軍勢を受け入れるために、アンピポリスを開城させようと画策します。ちょうどこの時期、前回も書きましたが、トラーキア方面軍の指揮官であったトゥーキュディデースがアテーナイの軍船七隻を率いて急遽アンピポリス救援に向かっていました(234頁)。トゥーキュディデースの援軍がアンピポリスに急行しつつあると知って、プラーシダースは、アンピポリス市民に寛大な条件を提示して開城を迫ります。するとアンピポリス市民の多くは心変わりし、プラーシダースの入城を受け入れてしまったのでした。トゥーキュディデースの船隊の到着があと一日早ければ、プラーシダースのアンピポリス占領は回避できたかもしれない。そのようなぎりぎりのタイミングでした(236頁)。


 アンピポリスがペロポネソス同盟軍に攻略されたことは、アテーナイに不安をもたらしました。なぜならアンピポリスは、軍船建造のための材木搬出と資金調達の拠点であったからです。またプラーシダースが寛大な条件でアテーナイ側の都市を占領した知らせが各地に広がると、同様の条件でペロポネソス側に寝返ろうとする諸都市が発生するようになってしまいました。ですからボイオーティアでの敗戦と共に、アンピポリス攻略はペロポネソス戦争の重要な転機となった訳です。


 紀元前423年の冬、プラーシダースは、さらにカルキディケー地方のトローネーに兵を進め、ペロポネソス同盟側につく諸都市をさらに獲得しようとします。この冬の終わりをもって、ペロポネソス戦争は開戦から8年が経過することになりました。この後、春の到来と共に、アテーナイとペロポネソス同盟は、一年間の停戦協定を締結します。そしてさらに戦争終結に向けての交渉が始められることにもなりました。


 しかしながら、この停戦は、アッティカ周辺では厳守されていたものの、カルキディケー地方にいたプラーシダースは、停戦協定発効後も、この地域におけるペロポネソス同盟勢力の拡大のために活発に活動しました。ただこの時のプラーシダースの活動は必ずしもペロポネソス同盟の勢力拡大にはつながらず、依然としてアテーナイとの同盟に留まろうとする都市もこの地域には多くありました。このような報告をもって第四巻は結ばれます。


 第五巻は休戦協定の終了した422年から始まります。まずクレオーンという指揮官がアテーナイから軍を率いてトラキア征伐に向かいました。彼はまずトローネーを攻撃します。その後、クレオーンの部隊はアンピポリス奪還を試みますが、プラーシダースの的確な判断によって、数的に劣勢であったにもかかわらず、ペロポネソス同盟軍はアテーナイ軍を敗走させることに成功します。ただこの戦闘でプラーシダースは負傷し、やがて戦死してしまったのでした(276頁)。しかしながら、このアンピポリスにおけるアテーナイ軍の最終的な敗北は、アテーナイ側に、敵側を戦闘によって圧倒することがもはや困難であるとの不安を抱かせるようになり、停戦の声が強まるようになります。アンピポリスはそれ程アテーナイにとって戦略上重要な都市であったわけです。そして421年の3月に、アテーナイとペロポネソス同盟(スパルタ)の間で平和条約が締結されたのでした(268頁)。この平和条約によって、捕虜の返還がなされ、アンピポリスはアテーナイ側に返還され、アテーナイ側が占領したペロポネソス同盟側の諸都市も同盟側に返還されることになっていました。トゥーキュディデースは、ここでこの戦争の「第一期の戦争記録を閉じる」と書いています(290頁)。彼の視点によれば、この時の平和条約締結までが、ペロポネソス戦争の前半の歴史であったのでしょう。第一期は10年間続きました。


 ただこの平和条約は、戦争に参加していた全てのポリスによって承認された訳ではありませんでした。特にコリントスはこの条約に参加しませんでした。また平和条約に明記したはずの事柄を、スパルタ側が全て忠実に履行した訳ではなかったので、アテーナイ側に猜疑心を生じさせることになります。平和条約は、一応6年間は有効であったようですが、その後破棄され、戦争は再開されてしまったのでした。


 戦争が再開された一つの要因は、アテーナイが期待していたアンピポリスの返還がスムーズに行われなかったからでした。またこの平和条約には、アテーナイとスパルタの平和条約に加盟しない国々が両国の敵であるとする規定が含まれていたにもかかわらず、この規定は事実上スパルタによって無視されました。さらには平和条約を締結した当事者たちが、次々と官職から去ってしまったことも、この条約を有名無実化させる原因の一つとなりました。その上、結局の所、スパルタはペロポネソス同盟の盟主として同盟に属する全ての諸ポリスを代表して統括するだけの影響力を持ってはいませんでした。国際政治の冷徹な現実だと思いますが、国際社会における平和というものは、覇権国家の力の大きさと比例する側面があるという事実もまた否定し難いことです。この平和条約が結局短命に終わったのは、そのような幾つもの要因によるものであった訳です。それでアテーナイも、それまで中立的立場にあったペロポネソス同盟側のアルゴスなどと平和条約と同盟条約を締結し、以前にスパルタと結んだ平和条約とは相矛盾するような姿勢に転じて行ったのでした。


 このアテーナイとアルゴスなどとの同盟が火種となって、再びペロポネソス戦争は再開されてしまうことになります。スパルタは、自国の領土の近郊に位置し、かつペロポネソス同盟から離反したアルゴスを看過することができず、アルゴスを攻撃する戦闘が始められました。この戦闘には、アルゴスと同盟を結んだアテーナイも当然参戦することになりました。トゥーキュディデースは、この時のスパルタとアルゴス・アテーナイとの間の陸戦は古代ギリシャの歴史において最大規模であったと振り返ります(342頁)。そしてこの戦闘はスパルタ側の圧勝で終わったのでした。その結果、スパルタは、アルゴスにアテーナイとの同盟条約を破棄させます。この戦闘によってアテーナイとスパルタとの平和条約は事実上無効となってしまったのでした。


 以上が中巻のあらましです。中巻は分量も多く、読むのに忍耐力を要する巻ではありました。ですがそれでも読む価値があると思います。それはペロポネソス戦争が、各地域・各ポリスの内部対立・内紛と連動しながら、各地に拡大・飛び火して行った様子を、特にケルキューラ、シケリア、メガラ、アルゴスなどを巡る戦闘を通して、トゥーキュディデースが克明に描いているからです。諸都市の内紛と国際的な紛争・戦争とは容易に連動してしまいます。抑制を欠いたポリスの政治家たちは、国内の政敵を倒すためであれば手段を選ばず、外国勢力の力をさえ利用します。だからペロポネソス戦争という戦争が続いてしまったことが、古代ギリシャ諸都市の自律的な都市国家運営を混乱させ、その秩序を失わせたのです。


 そしてトゥーキュディデースは、ギリシャ諸都市における内紛と戦争と無秩序の連鎖を招いた要因を政治家や市民のモラルの低下に見出していました。冷静な判断をしつつ自制する政治家よりも、短絡的な判断で大衆受けする選択をする政治家の方が好まれる時代になってしまったことを彼は中巻の叙述の中で示しています。古代ギリシャ諸都市は、ペルシャ戦争の際には、多くのポリスが協力して自由と独立のために戦いました。中巻の歴史叙述を行いながら、トゥーキュディデースは、その過去の栄光の崩壊を嘆き悲しんでいるかのようです。そして後世の人々にそのような古代ギリシャの栄光が失われた精神的・倫理的要因から学ぶことを願っているのではないかと思います。そのようなトゥーキュディデースのメッセージは現代の我々にも響くものがあると思います。

 

 

 
 
 

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