宮平望『ユーモア入門: 人生を楽しむ7法則』新教出版社、2025年
- ign117antjust165ma
- 5月8日
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更新日:5月8日

今回は宮平望『ユーモア入門』を紹介します。もう随分昔のことになりますが、神学生時代に大阪の友人宅に泊めてもらったことがありました。そこで昼食を頂いていた時のことです。友人の知り合いの方もそこに同席されて一緒に食事をしていました。その席で友人から関西の女性についてどう思うかと問われました。振り返ってみると、その友人としては牧師になる人との交際を望んでいる女性を私に紹介して下さるつもりでそう尋ねたようでした。ただその時は友人の意図など知る由もありませんから、そこにおられた方々が皆関西人であったこともあって、お付き合いする機会があったらしてみたいですねえ、と答えました。すると友人の知り合いの方が間髪入れずに「ボケとツッコミ覚えなあかん」と言われたのでした。お恥ずかしいことに、当時の私はそもそもボケとツッコミとは何であるのかさえも知らない、お笑いとは縁遠い若造でした。またその意味を理解するようになった後で、この方の言葉を思い起こしながら、関西のカップルは日常的にボケとツッコミでやり取りする洗練された会話の習慣を身につけているのかと感心させられたりしたものです。
とは言うものの、私もお笑いと全く無縁な環境で育ったという訳ではありません。小中学生の頃、私の両親は子供が観るテレビをかなり制限していました。小学生時代に許されたのはカルピスこども劇場の「アルプスの少女ハイジ」のようなアニメや、子供にはあまり面白くないNHKの「連想ゲーム」くらいでした。しかしラジオは自由に聴くことができたので、小学3年生頃からラジオ寄席を聞いたり、落語をカセットテープで録音したりするようになりました。録音した演目のうち、気に入った一席を暗記して、下手な落語を知り合いの前で演ったこともあります。ですから小学生位まではボケ役を買って出るようなことも少しはあったと思うのですが、中学生頃からそういうことはなくなりました。一つの理由は、成長期の遅れのために、他の人と比べて引け目を感じるようになったからだと思います。自分を曝け出すことを恐れるようになってしまいました。そういう傾向はその後も高校・大学時代を通じて変化はありませんでした。大学時代の演習のクラスでは、発表を担当した後、教授から遠回しに「君の発表はつまらない」と言われたこともあります。
神学校時代には、先輩の一人に、東京出身でありながら年中ボケをかましている方がおられて、面白い人だなと思っていたのですが、その方の才能を自分も真似ようとは考えませんでした。人を笑わせるのがうまい人は、年中笑いを取ることを考えているのかもしれませんが、私の場合、そういう風に思考回路を働かせるということはほとんどなかったわけです。テレビのお笑い番組を好んで観るということもありませんでした。今も基本的にはそういうクソ真面目なところは変わりません。
しかし牧師のような仕事を続けていると、決して良いこととは思いませんが自分の醜い本性と不釣り合いに振る舞ってしまうことが多いものですから、一人になるとラジオでお笑いを聴いてリラックスしたくなります。毎週日曜日の礼拝の奉仕などが終わった後、以前は車を運転して、教会のある取手市から国道6号線と青山通り(246号線)を走り、実家のある横浜に向けて移動していました。その運転中は大概いつもTBSラジオの「爆笑問題の日曜サンデー」を聴いていたものです。この番組のヘビー・リスナーになったおかげで私のトークも多少は進歩したかもしれません。
何を隠そう私は一応爆笑問題のファンです。と言っても彼らのライブに行くほどではなく、彼らのラジオ番組を聴く程度です。同世代だからということもありますし、彼らの漫才が好きだからということもありますが、若い日の彼らの冒険心に共感したからでもあります。彼らはお笑いコンテストで実力が認められて芸能プロダクションにスカウトされながら、途中で大手プロダクションを飛び出して、太田の奥さんが社長となり、自分たちで新しい芸能プロダクションを設立してしまったという異色の経歴の持ち主です。そういう破天荒なことをしてテレビ・ラジオの世界で生き延びてきた彼らのサバイバル能力は尊敬に値すると思います。爆笑問題の場合は太田光がボケで田中裕二がツッコミです。太田のボケはしばしば棘や毒があるので好きではない方も多いことでしょう。田中のツッコミの切れ味も漫才師としては物足りないと思います。それでも関西弁を話すことのできない関東出身の私にはフリートークを学習する教材として彼らの話芸が参考になる面はありました。そして確かに、太田のボケなどを分析するなら、宮平望先生が本書で解説している笑いの七つの法則(普遍・逆転・誇張・類似・転移・破綻)のいずれかに当てはまると思います。
宮平先生は西南学院大学で教鞭をとられている大学の先生ですが、恐らく講義の準備のために、自分の専門分野の研究だけではなく、学生を笑わせるための努力も続けて来られたのでしょう。この本の参考文献にあげられているユーモアに関する膨大な書籍のリストを見ると、その努力が並々ならぬものであったことがわかります。というか、大学の先生がユーモアの研究ために読まれた文献を、邦語のみならず欧文も含めて28ページにもわたってリストアップしているのを見ると、内心フフッと笑ってしまいますし、この文献表自体が、宮平先生の言われる七つの法則の「誇張」にあたる例を示しているような気がします。あるいはユーモアに関してこれ程まで熱心に研究し文献を渉猟されてきた先生の「真面目」な努力は、お笑いという「不真面目」なテーマとはおよそアンバランスに感じられるものですから、七つの法則の「破綻」にも該当するかもしれません。
この本を読んで驚かされるのは、高名な哲学者や学者たちが、笑いやユーモアについての文章を数多く書き残していたということです。ベルグソンの『笑い』という本が岩波文庫から出されているということ位は知っていましたが、しかしスピノザも、ホッブスも、カントも、フロイトも、果てはお笑いとは縁遠いと思われるショーペンハウアーやキルケゴールでさえも、笑いの哲学的分析を試みているのです。そのようなことはこの本を通して初めて知りました。それはつまり、本書でも指摘されていますが、人間以外の動物は笑わないと思われるからですし(15頁)、笑いというのは人間に固有の営みなのでしょう。だからこそ哲学者の分析の対象となるのではないでしょうか。
そして地上の動物の中で、唯一神の似姿に創造されたとされる人間にのみ笑いが存在するということは、類推するなら、神ご自身もまたユーモアを解するお方、ユーモアを実践されるお方であると考えられることになります。そのような神のユーモラスなご性質は、地上に存在する生物のユーモラスな生態に示されているとも言えますが、何より私たちの信仰生活の中で教えられることなのでしょう。神は時折私たちにユーモラスとしか言えないような人との出会いを与えてくださるお方であると思います。苦しくて必死にもがいているような状態にあった時期が、後で振り返るなら笑い話に変わるということも少なくないことでしょう。信仰者がしばしばそのような人生を歩むという事実にも、神の似姿として創造された人間の生の一つの特徴が示されていると言えるのではないでしょうか。本書で宮平先生が笑いと神学を行き来するように論じることができるのも、そのような神のご性質のゆえであると言えます。
この本では聖書の中のユーモアも紹介されています。神の言葉である聖書にユーモアが散りばめられているという事実も、神のご性質の一端を垣間見せるものであると思います。最近礼拝メッセージの準備をしていて気づいたのですが、新約聖書ヨハネによる福音書21章には、シモン・ペテロがガリラヤ湖の舟の上で素っ裸で漁をしているとき、復活されたイエスが岸辺に立たれているのを見て、急いで服を着て湖に飛び込んだというエピソードが描かれています。初代教会の優れた伝道者となるペテロの名誉を貶めるエピソードとも解釈されかねませんが、この福音書の著者は、それをユーモアとして記したのでしょう。イエスはそのようにリラックスした雰囲気の中で、シモン・ペテロら七名の弟子たちとガリラヤ湖畔で一緒に朝食を召し上がられました。その和やかな交流の中で、ペテロにもう一度宣教の使命を果たすように促されたのでした。そのように聖書の中にもユーモアが含まれていて、それらが聖書の使信を伝える上で一定の役割を果たしていると思います。
ただ聖書のユーモアは、新約聖書にも多くありますが、書物の分量から言っても、頻度から言っても、旧約聖書の方がはるかに豊穣な世界を醸し出していると思います。私もヘブライ語聖書やアラム語訳旧約聖書に関わる研究に取り組んだことがありますが、旧約聖書に関連するセム語のテキストに少しでも触れれば、日本語のダジャレにあたるような言葉遊びがふんだんに盛り込まれていることは一目瞭然です。旧約聖書の言葉遊びの世界については、本書40-45頁をご覧頂ければ、その実例が数多く列挙されています。
この本を読んで、いまだにクソ真面目な人間ではありますが、自分ももっとユーモアやジョークを学びたいと思うようになりました。そしてもし全ての人が神の似姿としての性質を宿しているのであるとすれば、全ての人にユーモアの賜物が与えられているはずだということにも気付かされ、その事実にもっと自信を持とうと思うようになりました。そんな訳で宮平先生の長年の努力の結晶である文献表を道標にして、これから少しずつ読書の幅を広げて行こうかと考えています。
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