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大澤真幸『アメリカというなぞ』講談社、2025年

  • ign117antjust165ma
  • 7月8日
  • 読了時間: 11分

更新日:7月8日

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 社会学者の大澤真幸の名前は、橋爪大三郎との対談に基づく『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、2012年)という本を通して知りました。この共著の内容には不正確な箇所が多くあったものの、当時注目を集めた一冊でした。キリスト教という宗教に関して日本人は、近代社会の世界標準を形成したとも言える西欧社会の宗教ということで、これまでその信仰を受け入れることはなくても、一定のリスペクトをもって遇するというのが、比較的多くの知識人の姿勢であったように思いますが、上記の書物は、日本人から見たキリスト教の「不思議さ」をかなり率直に指摘していました。大澤真幸は、このコーナーでも取り上げたことのある社会学者見田宗介の弟子の一人で、京都大学大学院教授を辞任した後、現在は早稲田大学で教える傍ら研究・著作に専念しておられる方です。


 この本は、アメリカに関する二つの疑問に取り組んだとされる書物です。第一の疑問は、アメリカ合衆国が先進国の中でもキリスト教徒の多い国であるにもかかわらず、なぜ多くのアメリカ国民の生き方が世俗的で利己的であるのか。第二の疑問は、アメリカで、なぜ深刻な人種差別が解消されないのか。(あるいはなぜキリスト教徒が多いのに人種差別が無くならないのか。)これら二つの疑問に答えを出そうとしています。読後の感想としては、第二の疑問に取り組んでいる部分は、実は全体のごくわずかです。とはいえ二つの疑問はいずれも、アメリカにおけるキリスト教の問題と深く関連しています。これら二つの疑問を総合的に言い直すなら、つまりアメリカのキリスト教神学はなぜ欧州や英国には認められるようなキリスト教社会倫理思想を普及させることができなかったのか、と言う疑問であるように思われます。ただ大澤真幸がこの本で試みたことは、結果的には、アメリカ資本主義の歴史とその背後にあるキリスト教信仰やアメリカ固有の思想・哲学との相関関係をウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』やマルクスの『資本論』などを手がかりに解明することになっていると思います。それでもキリスト教史を学んで来た者としては、著名な日本の社会学者がアメリカのキリスト教についてどういう分析をなさっているか興味がありました。ここでは大澤真幸によるアメリカのキリスト教に関わる議論の内、特に千年王国論に関する部分について応答を書きたいと思います。


 大澤真幸は明確に無神論の立場からアメリカのキリスト教を分析されています。著者の思想的前提は、ハンナ・アーレントが『革命について』という著作の中で、アメリカ史の「始まり」(principium)が同時に「原理」(principle)と互いに関連しているだけではなく、同時的なものだと解説している箇所に、大澤真幸が批判を加える中で明示されています。アーレントが「始まり」と「原理」を同一視している理由は、ギリシャ哲学やキリスト教神学における「アルケー」という単語が、「始まり」と「(超越的)原理」の両方を意味しているからであり、「アルケー」の西洋思想的・神学的意味をアーレントが受け入れ、その両義性を利用して、アメリカ史の「始まり」と「原理」の関連性・同時性を指摘しているのですが、大澤真幸はこのようなアーレントの議論の思想的前提を有神論的であるとして次のように批判しています。

 

「もし『始まり』が時間を超えて実在する神や絶対者を前提として要請しているのであれば、われわれは結局こう結論せざるをえない。『始まり』については修辞として語る以上のことはできない、と。なぜなら『始まり』を有意味化する神、絶対者的原理、超時間的イデアなどは存在しないからだ。われわれはそうしたものの存在を前提とする理論を拒否しなければならない。」(131頁)

 

これを読めば、大澤真幸が、有神論や超越論的前提に基づく(哲学的・社会学的)理論に対しては批判的な立場を取る方であるだろうということが予想できます。このような有神論や超越論に対する極めて否定的な見解を読めば、本書において著者がアメリカのキリスト教に対しても、かなり厳しい見方をされる方なのだろうということは容易に予期される面がありました。


 アメリカのキリスト教のユニークさについて大澤真幸が最初に取り上げているのが千年王国論です。アメリカのキリスト教徒の間に、千年王国(millennium)を信じている人々が多いという指摘はまさにその通りであると思います。千年王国とは聖書の中ではほぼ黙示録20章にのみ語られているもので、それが将来どのような形で実現するのか、あるいは既にどのような形で実現しているのか、ということに関しては様々な解釈がなされてきました。千年王国は黙示録の終末預言のクライマックスに近い箇所に記されている謎めいた預言の中に登場します。これは新天新地の到来前に地上に実現するとされるキリスト教の王国のことです。黙示録20:1-3では、竜とも古い蛇とも呼ばれる悪魔(サタン)を神が地底深くに千年間封印し、地上の人々を惑わすことがないようにされると予告されます。そしてこの一千年の間、迫害による殉教者たちが王座について王国を支配するようになるとされるのです。この預言は、本来は迫害のリスクに晒されていたキリスト教徒に希望を与えるための預言でした。


 大澤真幸は6章で主に新大陸に渡ったピューリタンの信仰における千年王国論について論じており、7章ではキリスト教の神義論と予定説を扱っています。その議論を受けて、8章で大澤真幸はこう記します。

 

「アメリカにおける千年王国論、特に後千年王国論(=千年期後再臨説)の受容という事実を主に参照しながら、苦難の神義論(の極限)から幸福の神義論(の極限)への反転が生じているということを示して来た。」(180頁)

 

これは前の2章の要約なので、わかりにくいかもしれませんが、つまり大澤真幸は、予定説を信じ、千年期後再臨説を信じた新大陸のピューリタンたちは、その予定説と千年期後再臨説に基づいて、正しい人が苦しむことを許す神と、正当な理由なく地上で幸福であり地上の支配権を享受する者の存在を認める神を信じていたのだということを訴えようとしているのでしょう。それによって、アメリカ・プロテスタント・キリスト教の二つの特徴的教理と大澤真幸がみなす千年期後再臨説と予定説が、アメリカにキリスト教徒の多いにもかかわらず世俗的・利己的な人々を多く生み出している神学的根拠であると考えているのではないでしょうか。


 しかし大澤真幸は、アメリカのキリスト教史における千年期後再臨説が果たした役割を誤解しているように思われます。なぜなら歴史的に見て、千年期後再臨説を受け入れる人々の多くが、社会的公正を実現することに熱心であった人々が多かったからです。


 アメリカのキリスト教においては、大澤真幸も指摘するように、第一次覚醒の指導者ジョナサン・エドワーズも千年期後再臨説であり、第二次信仰復興運動の指導者であったチャールズ・フィニーも千年期後再臨説でした。千年期後再臨説(post-millennial)は「千年間の殉教者/聖徒の支配」の後にキリストが再臨され、新天新地が実現すると信じるので、地上の政治や社会にキリスト教信仰の影響が浸透することを目指して社会的な努力をする傾向があります。18-19世紀の英国のメソジスト・福音主義の信仰復興が奴隷制廃止運動や社会改良運動と並行して展開していたのも、終末論に関するそのような神学的立場とある程度関係していたのではないでしょうか。南北戦争までのアメリカにおける終末論も、基本的には英国の教会の終末論とそれほど大きな違いはなかったと思います。だから千年王国論が、アメリカからイングランドに逆輸入されたという説明(151頁)は正確ではないと思います。


 ところが19世紀の後半以降になると、アメリカの保守的プロテスタント教会に終末論に関して変化が生じます。実はこの新しい終末論の起源はイングランドのプリマス・ブレザレンの指導者であったジョン・ネルソン・ダービーという人物の提唱したディスペンセーション主義でした。これは聖書における救いの歴史を七つに区分し、それぞれの時代に異なる救いの方法を神はお定めになっていたとする風変わりな救済史的神学の立場です。そしてこの七つの時代の中に千年王国が含まれます。ディスペンセーション主義は、これまでプロテスタント・キリスト教の主流であった無千年期説、あるいは千年期後再臨説とは異なり、千年期前再臨説(pre-millennial)というユニークな千年王国論を展開するようになったのでした。ディスペンセーション主義の終末論に関しては、確かに異端的と表現することもできるかも知れません。


 ジョン・ネルソン・ダービーのディスペンセーション主義の終末論は、英国ではほとんど受け入れられなかったのですが、このキワモノ的な終末論・千年王国論は、どういうわけかC. I. スコフィールドという人物などを通して、アメリカの南部やその他の地域の保守的なプロテスタントに広く受け入れられるようになったのでした。スコフィールド自身はミシガン州の出身でしたが、南北戦争時には南軍の兵士として従軍したようです。南北戦争後、カンザス州に住み、その時期に回心を経験したとされます。そして1870年台の終わり頃に、ジェームズ・ブルックス(James H. Brookes)というセントルイスの長老教会の牧師を通して、ディスペンセーション主義の終末論と出会い、これを受け入れるようになりました。彼は当時リバイバル運動の指導者であったD. L. ムーディーの集会にも頻繁に参加しており、アメリカの第三次信仰復興運動、あるいは広義のホーリネス運動の指導者たちと交流を持つようになります。そして自身のディスペンセーション主義の救済史的神学や終末論に基づく『スコフィールド・スタディ・バイブル』を1909年に出版しました。このスタディ・バイブルには、ディスペンセーション神学の立場に基づく聖書解釈が詳しく記された脚注が付けられていました。このスコフィールドによる聖書が普及したことや、ディスペンセーション神学に基づくバイブル・キャンプ運動が全米各地に広がったことによって、ディスペンセーション主義の終末論は、アメリカ南部やバイブル・ベルトと呼ばれる地域を中心に、保守的プロテスタントたちの間に驚くべきほどの浸透と広がりを見せるようになりました。ですから千年期前再臨説に関して言えば、アメリカはこれを英国のブレザレンのキリスト教徒から輸入したということになります。


 このディスペンセーション主義に基づく千年期前再臨説の特徴は、キリスト再臨前に、世界は患難時代を経験するとされているので、将来キリスト教徒にとって悪い時代が到来するとの悲観的な見通しを持っている点にあります。このような終末論は、アメリカの保守的なプロテスタントのクリスチャンたちによる政治改革への取り組みや社会改革への努力を減退させることにつながった面があることは否定できません。さらに言えば「この世」の体制は、キリストの再臨まで悪化の一途を辿り、最後にはキリストの再臨によって全て無に帰するとされてしまうので、「この世」にキリスト教的な倫理の影響を広める努力をすることは虚しく、また滅びゆく世界において富を得たなら、その富を、キリスト教会の福音宣教の働きのため、再臨後に永遠に生き続ける魂を少しでも多く獲得する努力のために捧げるべきだというような発想が受け入れられるようになるのです。その場合、キリスト教会に属する人々は、巨額の富を献金してくれる人々が、そのような富をどのような方法で獲得したかについてはほとんど関心を払いません。ですからディスペンセーション主義の神学に基づくキリスト教社会倫理は、本来の西方キリスト教の神学的伝統の中で形成されてきた社会倫理思想からは逸脱してしまう面があったわけです。


 このようなアメリカにおけるディスペンセーション神学に基づく千年期前再臨説のことについて、大澤真幸が『アメリカというなぞ』の中で沈黙していることは、正直なところ不思議に感じられます。なぜならこのテーマに関する著作は数多く出版されているからです。このディスペンセーション神学の千年王国論を正しく理解するなら、大澤真幸が本書で提起した質問に対して、大澤真幸とは違う形で、説得力のある説明をすることが可能だと思います。


 この本は、アメリカのキリスト教や文学・哲学について興味深い問題提起や分析をおこなっているという意味で、読む価値のある本だとは思います。でも読んでいて物足りなさを感じる面もありました。それは本書が植民地時代以来のアメリカの(宗教)思想の系譜を、どちらかというとアメリカにおけるリベラル派の伝統の流れに属する文書に基づいて分析しているからです。アメリカ建国の父たちの古代ローマへの憧憬、アメリカ・ルネッサンスを支えた文学者たちのトランセンデンタリズム、さらにプラグマティズムの哲学など、日本の研究者たちの関心の対象となりやすいテーマに関わるアメリカ人たちの著作の比較的多くは、どちらかというとキリスト教信仰に関してはリベラルで、場合によっては非正統的な信仰を持つ人々、あるいは無信仰な人々によるものです。けれども大澤真幸が本書で提起した疑問に答えるためには、アメリカの宗教思想のもう一つの系譜(それはリバイバル運動の系譜とも重なると思います)をも辿る必要があるのではないかと感じたのでした。


 この本から感じることがもう一つあります。それは日本においては、社会学を含む人文学・社会科学とキリスト教神学・キリスト教学との間の学問的な対話が、まだまだ十分になされていないのではないかと言うことです。そういう意味でキリスト教神学・キリスト教学に取り組んでいる者たちは、キリスト教神学思想の基本的な知識をより広く共有するために、もっと積極的に著作を通して発信していく必要があることを改めて感じさせられました。

 


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