A. E. マクグラス『キリスト教の信じ方・伝え方: 弁証学入門』田中従子訳、教文館、2024年
- ign117antjust165ma
- 6月8日
- 読了時間: 10分

現代英国を代表する神学者アリスター・マクグラスの著作は数多く日本語に翻訳されて来ました。私もこれまで『キリスト教の将来と福音主義』『宗教改革の思想』『ジャン・カルヴァンの生涯』『ルターの十字架の神学』『C. S. ルイスの生涯』『キリスト教思想史入門』『歴史のイエス、信仰のキリスト』などを読みました。そして最近新たにMere Apologeticsの翻訳である本書『キリスト教の信じ方・伝え方: 弁証学入門』が出されましたので購入して読んでみました。今回はこの本を紹介します。
Mere Apologeticsという原著のタイトルからも分かるように、この本はC. S. ルイスのMere Christianity(邦題『キリスト教の精髄』)に触発されて書かれた書物であるように思います。C. S. ルイスは20世紀を代表する英国のキリスト教弁証家でもありました。ルイスのMere Christianityの優れていた点は、信仰者がなぜキリスト教を信じるのかということについて、非キリスト教徒にも納得と理解が得られるような言葉で平易に説明している点にあったと思いますが、マクグラスは、そのようなルイスの築き上げた英国における弁証学的伝統を、21世紀にも継承したいと願っておられるのではないでしょうか。
キリスト教弁証学には私も以前から興味がありました。なぜなら私の出身教会の米国人の宣教師であった方が、日本の神学校でキリスト教弁証学を教えておられたからです。ただこの先生の書かれた弁証学の本は、20世紀前半のアメリカの保守的プロテスタントにとってのキリスト教弁証学の課題がまとめられていたに過ぎません。思想的・宗教的背景の異なる日本という国の文脈で、この先生の書かれた弁証学の内容の中で役に立っていた部分はかなり限られていたように思います。(キリスト教弁証学が知的・思想的背景に即してなされることの重要性について、マクグラスはこの本の中で正しく指摘しておられます。)
これまで日本のキリスト教会では、伝道において、キリスト教弁証学的なアプローチはあまり重視されて来なかったように思います。それは私のお世話になった宣教師の先生のように、日本の思想的・宗教的文脈を無視した弁証学が日本の神学校などで教えられてしまっていたために、弁証学の有効性が理解されず、弁証学そのものが伝道の実践の場で敬遠されてきた面があったのかもしれません。ただそれ以上に、本来日本人の神学者に課せられている最も重要な課題の一つである、日本の知的・思想的文脈に即したキリスト教の理性的・神学的弁明を行うと言う努力が、日本人の神学者たちによって本格的になされるようになったのが、比較的最近のことであったからではないかと思われます。
もちろん本書も、現代の英国を始めとする英語圏の思想的状況を背景に書かれているのですから、本書の内容を全てそのまま日本の文脈に当てはめるということはできないのでしょう。それでもマクグラスのこの本は、英語圏の個別的な弁証学的課題について各論を論じると言うよりは、弁証学の基本的な方法論を平易に解説している本でもあるので、日本人のキリスト者が、現代日本におけるキリスト教の弁明について考える手がかりを与えてくれる面があるように思います。そう言う意味でも、この本は日本語で読む価値のある本です。
この本の良い点は、弁証学の果たすべき役割を過大評価せずに、慎み深く捉えている点にあるのではないでしょうか。マクグラスはこう書いています。
「弁証学は誰かを改宗させるためのものではありませんし、改宗させることもできません。ただ弁証学は、神との出会いを阻む障害を取り除けたり、キリストを見ることができるための窓を開いたりして、人々を正しい方向へと差し向けることはできます。弁証学は人々を福音の重要さに気づかせるためのものなのです。 . . . 人々を改宗させるのは、弁証学そのものではなく神と復活のキリストの偉大なリアリティなのです。」(55-56頁)
人がキリスト教を信じる理由の多くは、キリスト者から論理的に説得されたからではなく、キリスト教について関心を持ち、聖書を読んだり、聖書についてのメッセージを聞いたりする中で、今もなお生きておられるイエス・キリストが、霊的な形で自分に語りかけておられるのではないかという手応えを感じることによるケースが多いと思います。けれどもそのような経験に導かれる以前の状態にある人々に弁証学は一定の役割を果たしうるのだと言うことだと思います。
このように書いているマクグラスが、本書の執筆に当たって恐らく意識していたのは、主に現代の無神論であったと思います。2006年に進化生物学者リチャード・ドーキンスがThe God Delusion (邦題『神は妄想である』)を出版し、英国では大変話題となりました。これを受けて、マクグラスはドーキンスの著作を検証し、キリスト教信仰を弁明する書物をも既に書いています。そのような弁明書は、無神論者たちの立場に変更を迫るほどの力はありませんが、無神論者のキリスト教批判によって迷いを感じる一般の人々に対して、それでもキリスト教を信じる意味はあることを弁明する効果はあったのだと思います。
この現代の無神論に対する反論の内容は、そのエッセンスが本書でも紹介されています。現代の無神論者たちは、キリスト教の教える神の存在や世界の創造、人間の堕落とキリストによる救いなどのメタナラティブ(大きな物語)が全くの幻想であり、根拠を欠いた空論であると批判します。しかしマクグラスは、キリスト教のメタナラティブの全てが論理的に立証されるものではないことを認めながら、実はキリスト教のメタナラティブを批判する無神論者たちにも、彼らの思想の背後に彼らが暗黙の内に承認しているメタナラティブと言えるものが存在することを指摘し、そのような無神論者のメタナラティブも実は必ずしも科学的・合理的に立証されるわけではないと反論します。同じような議論を、マクグラスはマルクス主義の歴史観やポストモダン思想のメタナラティブに対しても適用可能であると述べており、そのような意味で、マクグラスのこの著作はUp-to-dateな内容になっていると言えます。
もう一つこの本の優れた点があります。それは伝統的なキリスト教弁証学があまり取り扱って来なかったけれども、特にポストモダンの思想の影響を受けている21世紀の知的・思想的状況において有効な弁証学的アプローチを紹介している点にあります。本書6章「信仰を指し示すもの」では、伝統的には「神の存在証明」と称されてきた事柄が扱われています。伝統的な弁証学は、プラトンのいう哲学の主要3テーマ(真、善、美)のうち、「真」に関わるテーマに集中してきた偏りがあると指摘した上で、宇宙論的証明、道徳論的証明とともに、人間のうちにある神・信仰に対する渇仰・憧れの感情(yearning)と、被造物に認められる美なども弁証学に取り入れるべきことを説得的に論じていると思います。この憧れの感情と美を手がかりとするアプローチは、特にポストモダン的思想の広がっている21世紀の状況にはふさわしいアプローチだと言えるのではないでしょうか。
この章の議論の中では、個人的には「ファインチューニング」に基づく神の存在証明が説得力のあるものではないかと感じました。最近の物理学者や天文学者たちが驚きを持って明らかにしていることの一つに、例えばこの宇宙に存在する重力のようなパラメーターが、僅かでもその値がずれてしまっていた場合、地球のような惑星に人間のような生命体の存在すること自体が不可能であったという事実があるそうです。この宇宙に存在する多くのパラメーターは全て絶妙な数値に定められており、地球に生物や人間が存在できるようにするために最適にチューニングされているのだそうです。そのような事実は、この世界の背後に、この世界を創造した知的で力ある何かが存在することを強く示唆します。
さらに7章「弁証学の入り口」でも、前章と同様に伝統的な弁証学の偏りを補正する論述を展開しています。弁証学とは、すでに上記の引用でも語られていたように、信仰への入り口を提供するものに過ぎませんが、その方法は「説明」「議論」「物語」「イメージ」と言う四つの方法を取りうるとされます。伝統的な弁証学は「説明」や「議論」に偏っていたのですが、ポストモダンの思想状況においては「物語」や「イメージ」がその有効性を増しているとマクグラスは指摘します。
そして8章の「信仰についての疑問」を読むと、マクグラスがこの本で目指しているものが何であるかが明らかにされます。マクグラスは、つまりこの本の読者も、ルイスやマクグラスのように、キリスト教の弁証家の一人になることを願ってこれを書いているのではないでしょうか。だからキリスト教に疑問をぶつける人に対して、優しく接するように、また表面的な疑問の背後にある本当の疑問が何であるかを見極めるようにと勧めます。そのように書いている理由はつまり、読者にも弁証学的課題についての理解を広げ深めるようになって欲しいと願っているからなのでしょう。そしてキリスト教に対する疑問に適切に答えることのできるキリスト者が一人でも多く増えていくようになることを期待しているからなのだと思います。
ですから私も本書を読みながら、日本におけるキリスト教弁証学の課題について少し考えました。日本の神学者たちが取り組むべき課題として切実なのは、伝統的には、神道・仏教・儒教などの信仰が渾然として存在している日本の宗教思想的状況において、キリスト教の福音が、神の愛を強調しながら、それと矛盾するかのように非常に狭量な教えであるとみなされるケースが多いと言う問題であるように思います。大乗仏教の流れに属する日本的仏教の伝統においては、全ての人が死後に、近親者たちによって正しい宗教儀礼を行ってもらえば、皆等しく成仏する、つまり仏となるという信仰を持っています。これは本来の原始仏教の信仰とは異質なものではあると思いますが、しかしそのようなことを訴えても、すでに根付いている日本的仏教の信仰の伝統はやはり根強いものがあると思います。そういう宗教的背景を持っている日本人に、福音を効果的に伝えるためには、どのような面での神学的理解が必要なのか、またどのような神学的説明が可能なのか、考える必要があるのでしょう。
また最近ではスタジオ・ジブリの生み出してきたアニメーション映画の世界観の影響を受けて、西欧キリスト教的な世界観や自然観ではなく、日本文化固有の伝統的な世界観や自然観、さらには宗教観などを保全することの方が、21世紀に生きる日本人にとっても、場合によっては世界の人々にとっても幸福なことであるとするような考え方も広がっているように感じます。実際ジブリ・アニメが世界の人々に支持されていることによって、伝統的日本的自然観や世界観の復興を助けている面があることは否定できないでしょう。同時に、日本人の中には、西欧現代思想の影響を受けて、はっきりと無神論に立つと言う人も決して少なくないのかもしれません。そのような現代日本における弁証学的課題を果たす使命は、当然日本のキリスト者、日本でキリスト教神学に取り組む者たちに委ねられているわけです。自分も自分自身の得意とする分野で、現代日本における弁証学的課題に僅かでも貢献できればと願わされました。
本書を翻訳された田中従子さんとは、東京神学大学大学院の研究会などで数回お会いしたことがありました。スティドの『古代哲学とキリスト教』の共訳者でもあられますが、最近ギリシャ教父ナジアンゾスのグレゴリウスの研究を出版された新進気鋭の教父学者です。今後の活躍が楽しみな研究者ですが、この翻訳もとても読み易く感じました。
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