ポール・トゥルニエ『暴力と人間』山口實訳、ヨルダン社、1980年
- ign117antjust165ma
- 9月8日
- 読了時間: 20分

20世紀スイス・ジュネーブのキリスト者であり精神科医であったポール・トゥルニエの本をこれまで何冊か読んできました。最初に読んだのは確か『苦悩』でした。その後『人間・仮面と真実』『人生の四季』『生の冒険』『強い人、弱い人』『女性であること』『聖書と医学』を読みました。クリスチャンの作家で優れた散文を書く人物というと、C. S. ルイスやアリステア・マクグラスのことが思い起こされますが、私にとってはルイスやマクグラスと共に好んで読んで来た作家です。トゥルニエの本は以前は邦訳でかなり読むことができたのですが、最近多くが絶版となってしまっています。今回取り上げる『暴力と人間』も今は入手困難ではないでしょうか。最近この本も両親の蔵書から見つけて読み始めました。本書の原題は ‘Violence et puissance’ (暴力と力) です。攻撃性や暴力を生み出す人間の力(能力)について哲学的・心理学的・神学的分析を試みた本です。
普通、戦争による暴力などは抑制されるべきだと考えるものだと思います。ところがこの本は、歴史的に重要な出来事の多くが暴力を伴って発生しているという事実から語り始めます。カエサルによるルピコン川渡河とローマ守旧派の打倒、スイスのハプスブルグ家からの独立、アメリカの独立革命など、これらは全て人間の攻撃性・暴力性の生み出した出来事でした。いずれの場合も、暴力を効果的に用いた側が勝者となったので歴史に名前を残したのでした。人間社会の営みにおいて、攻撃や暴力は例外的な出来事なのではなく、むしろそれは頻繁に行使されてきたことをトゥルニエはまず明らかにしようとしたのでしょう。
人間にとって暴力や攻撃性が日常的な営みであるとすれば、それをより良く用いるために、良い攻撃性と悪い攻撃性を区別することはできるのでしょうか。道徳的に正当化できる暴力と正当化できない暴力というものが存在するのでしょうか。この区別を明確にしようとする心理学的・倫理学的研究もなされて来たようですが、トゥルニエ自身は、良い攻撃性と悪い攻撃性との間に明確な基準や区別を設けることは困難ではないかと考えているようです。その上で、この本は、全ての人の心の中に攻撃性が潜んでいることへの自覚を促しながら、そのような攻撃性とどのように向き合って行くべきかを、心理学的かつ神学的に論じようとする本だと思います。
トゥルニエは暴力性が全ての人に備わっている性質だと考えるので、同じジュネーブ出身の哲学者ジャン・ジャック・ルソーの人間論には同意することが出来ないと書いています。全ての人間が本来暴力的で攻撃的な傾向を持っている(82頁)のだから、かつてナチス・ドイツが欧州各地に建設した強制収容所とそこで行われた残虐行為や大量虐殺は、必ずしもナチスの異常さだけによって生み出されたものではなく、罪深く暴力的な人間性の本質と関連しているとトゥルニエは分析します(84頁)。つまり人間の暴力とは、ある一部の人々の異常な逸脱行為なのではなく、潜在的には全ての人の内に潜む罪と結びついた傾向だということです。
この人間に潜む罪と暴力の普遍性は、同じ種族を殺すという本能が普通の動物にはほとんど存在せず、人間だけが同じ種族を殺してしまうことがあるという現象(26、90-91頁)によっても裏付けられます。そしてこの生物学的現象は、聖書の人間論をある程度根拠づける現象と言えるのではないでしょうか。人間は良心を持っています。ところが良心を持つが故に、人間は自分から見て不当だと思われる他者に対して攻撃的・暴力的になり得る存在でもあります。また人間は理性を持っており言語や数式を使用する高度な知性を持っています。それにもかかわらず、人間はその高度な知性を用いて人を殺してしまったり、人に悪を行ったりするのです。そのような人間の逆説的な姿は、人が神の似姿に創造されながら、罪のもとにある存在であるという聖書の人間論を裏付ける面があるのではないでしょうか。
ところで本書には、ルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』という著作の内容が頻繁に紹介されています。ルネ・ジラールはフランス出身の文芸評論家で、アメリカの大学で教鞭を執っていた人物でした。彼はアメリカ人女性と結婚し、アメリカでキリスト者となった人物でもありました。このジラールが指摘している興味深い事実があります。それは人類に普遍的な、聖なるものの表れとしての「犠牲」(sacrificium)を意味するラテン語の語源に「聖なるもの」(sacrum)を意味するラテン語の単語が含まれるということです。つまり人が何か崇高な目的を達成するために動物などを犠牲にする暴力を行使するという儀礼は、人間の意識下の領域に潜む何か根源的な動機と関連しているのではないかということでしょう。そして実は、キリスト教会の礼拝の中心的な儀式である聖餐も、このような聖なるものと犠牲とに関連していることをトゥルニエは指摘します(114頁)。なぜなら聖餐は、イエス・キリストの十字架の犠牲を象徴するパンとぶどう酒を食すという礼典だからです。この儀礼の起源は、イエス・キリストの身体に対して加えられた暴力です。そのようなことも含めて、ジラールは、聖なるものの本質が暴力と関連していると結論づけるのだそうです。つまり宗教や信仰も人間の攻撃性や暴力性と関係がある訳です。
さらにトゥルニエは、人間の攻撃性や暴力を理解する心理学的概念として「投資」(investissement; investment)という用語を紹介します。人間が外に向けて行使する攻撃性や暴力は、ちょうど経済活動における投資のように、それを向けた相手の中に新たな攻撃性や暴力を生み出す効果があるというのです。このように攻撃性や暴力を「投資」と了解することによって、イエス・キリストの十字架がなぜ平和をもたらす力を持つのかも理解できます。それはイエス・キリストの十字架が、あらゆる暴力や攻撃性を受け入れる力を秘めているからなのでしょう(131頁)。そしてそのような犠牲を払われたお方だからこそ、「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」と教えることがおできになるのだと思います。
興味深いことに、人間の攻撃性や暴力性は、戦争のような露骨な暴力の行使においてだけではなく、人間の活動のあらゆる領域に潜在しています。例えばスポーツもそうです。芸術や科学などの文化的活動も、潜在的には人間の攻撃性や暴力性の根源と同じエネルギー(力)によって生み出され、突き動かされている面があります。スケープ・ゴートや人身御供などが前近代の社会に普遍的に存在していた理由も、社会に生じた攻撃性・暴力性を処理する吐口として機能していた訳で、このような社会的な営みは、人間の攻撃性や暴力性が、人間の生命力そのものと言えなくても、人が生きることと密接に関わりを持つ人のエネルギーに由来するからだと言えます。
また人間の攻撃性や暴力性の起源に関わることだと思いますが、精神分析家のフロイトと文芸評論家のルネ・ジラールは、共に「原殺人」と言うものを想定しているのだそうです。これは聖書の原罪の教理とも関連する概念ですが、「原殺人」としてフロイトは父親殺しを、ジラールは兄弟殺しを想定するそうです。トゥルニエ医師の場合、彼の診療を受けにくる来談者たちが一様に人に対する不可解な怖れを抱いていると感じることがあるそうです。そのような怖れの原因に、フロイトやジラールが想定する「原殺人」と表現できる何かが、人間の意識下に存在することをトゥルニエ医師も認めているのでしょう。人の攻撃性・暴力性に関わる心の動きの中には、霊的・神学的な説明を必要とするような心理学的現象が認められるということなのではないでしょうか。
そして上述のジラールの著作によって既に指摘されていた暴力と聖性と関連することですが、人は聖なる存在をこの世界に認めるが故に、それが侵害されたと感じる時に暴力を行使する正当な理由を持つと考えます。ここにも宗教・信仰と暴力との関連性を認めることができます。では伝統的な聖性が侵害されていると感じられていることが近代・現代社会に対立や暴力を生み出す要因となっているのであるとすれば、伝統的な聖性の回復と維持が現代社会の問題を解決するために有益なのでしょうか。これは難しい問題です。保守的なキリスト者の一部には、そのような伝統的聖性の回復が必要だと考える人々もいるように思われますが、近代人であるトゥルニエの答えは勿論Noです。トゥルニエの提案していることは、やや唐突で飛躍しているとの印象を受けますが、イエス・キリストがユダヤ教の伝統的な聖俗の壁を破壊したのと同じような破壊がむしろ現代においても必要であるということのようです(164頁)。例えばイエスはユダヤ教的な安息日律法の遵守方法に意義を唱えましたが、イエスがそうされたのはユダヤ教的な儀式的で外面的・表面的な信仰から、神との人格的な交流を希求する信仰への変化のために要請された破壊であったからだと、トゥルニエは解釈します。そしてむしろ聖性と俗性との区別を取り払うことによって暴力を排除すること、あるいは暴力を行使する要因を除去することをトゥルニエは提案しているようです。暴力と聖性の関連性もそうですが、本書は、何か戦争のような問題を扱っている書物のようでありながら、論じられているテーマは宗教や信仰に関わる事柄と密接なつながりを持つことが明らかにされていると思います。
そしてむしろ現代文明の抱える課題における暴力や人間の攻撃性の問題を考えるために、トゥルニエは、暴力や攻撃性の根底にある、人間に与えられている能力や権力の問題を吟味する必要があると考えて、本書の第二部のテーマに移ります。つまり人間が自分の攻撃性や暴力性と適切に向き合うために必要なことは、攻撃性や暴力性を生み出す自身の力(puissance)を正しく理解する必要があるということのようです。フランス語のpuissanceは英語ではpowerと訳されますが、仏和辞典を調べると「力、能力、権力」などの訳語がリストされていました。トゥルニエは、人の攻撃性や暴力性を生み出すpuissanceについての思索を第二部で展開しています。
第二部の最初で、トゥルニエが語るのは、旧約聖書における神の右の手と左の手の役割の違いです。神の右の手とは、神が力あるわざを行うことのできるご自身の力を擬人的に表現した言葉(anthropomorphism)です。一方、トゥルニエによれば、旧約聖書の神の左の手は、神の愛を象徴します。そして良い攻撃性と悪い攻撃性についての心理学的区別などというものは存在しないことを断ってから、トゥルニエは、良い攻撃性の根拠を、神の御心(神の御手)に従うことの中に求めようとしているようです。また人の攻撃性の模範、力を正しく用いることの模範を、イエスの人格のうちに認めるのです(190頁)。本書の結論とも関連しますが、イエスが常に祈りつつ歩まれた姿勢に学ことをトゥルニエは勧めているように思われます。
しかしトゥルニエは、現代文明が、そのようなイエスの姿とはかけ離れており、力の拡大、また巨大化した力を利用して、人や自然を征服し、さらに富を拡大しようとすることを飽くことなく追求していることを指摘しながら、そのような現状に警鐘を鳴らします。そのような弱肉強食の論理によって強い者が勝利する現代社会にあっては、むしろより柔和で人間的である人々が、現代社会に適合することができずに心の病いを負ってしまい、トゥルニエ医師のもとに助けを求めてやってくるとも書いているのです。
「これら社会に適応できない人たちの相談を受けるにつけ、我々医師は誰でも次のような疑問を感じないではいられないと思う。すなわち、我々がもし本当に人間性を大切にするならば、今のような野蛮な人間社会の中に溶け込む力を患者たちに与えることよりも、むしろこの社会の野蛮さその者を矯正改革することの方が先ではないのか?実際、社会が投げ捨てるこれらの人々の中にこそ、むしろ我々医師は、比類ない人間性の豊かさをより多く発見しているのである。」(208-09頁)
このトゥルニエ医師の指摘は、情報通信革命が進み、AI技術が飛躍的に進歩している現代にも、以前にもまして一層切実に当てはまる洞察ではないでしょうか。
ですからトゥルニエは人間が自分に与えられている力を最大限に引き伸ばし、活用しようとする行為それ自体に注意を促します。現代社会において善であるとされるそのような努力が、実は他の人を害したり、他の人から何かを奪ったりする要因になるという逆説についてトゥルニエは語るのです。例えばトゥルニエは、ご自分の専門分野である医療の世界で、1970年代にすでに始まっていた事柄について述べています。当時医療の世界では、それまでであれば生命を維持することが困難な状態にあった患者を、様々な機器を用いて延命処置を施すことができるようになっていました。ということは、生命維持装置をコントロールする立場にある医師には患者に対する生殺与奪の権限が与えられるようになったのです。そのように医師が患者に対してもつ力の増大は、果たして文明にとって良いことであるのか、とトゥルニエ医師は問いかけます。
この話題に続いて、トゥルニエは、医療従事者も含めて、人を助ける立場にある人々(聖職者や福祉関係で働く人々など)が陥り易い危険性について鋭い指摘をしています。医者が医療を提供する場合も、また聖職者が霊的な援助を提供する場合も、表面的にはそれが他者のためであるかのように装いながら、しかし隠された動機としては、何らかの形で自己の利益につながることを意図して、人に対する援助を行ってしまう危険性があるということです(234頁)。同じような行為は、人を助けるという行為が、援助しようとする人の深い部分に潜む力への欲求のカモフラージュである可能性あるとも表現されます(240頁)。
さらにトゥルニエは、彼自身が1930年代にオックスフォード運動というキリスト教の刷新運動に参加した経験を書きながら、宗教的・霊的体験のもつ危険性についても書いています。そのような体験も霊的な力を人の内に生じさせるのですが、トゥルニエのもとにカウンセリングを受けるために妻とともにやってきたある牧師は、トゥルニエ医師に対して「この人は聖霊を持っていないんですよ」と平然と述べたと書かれています。キリスト教徒にとって自己の聖霊体験は、自分自身の信仰上の優越性の根拠となる絶対的な経験と思われ、人前でそのような聖霊体験を話す時には精神的な昂揚すら感じられることがあるものですが、しかしそういう風に霊的な体験を過度に重視することの歪さを、トゥルニエ医師は適切にも指摘しています。そういう経験をすることによって、私たちは神に選ばれた特別な存在であるかのように錯覚してしまうのですが、しかしそういう体験はむしろ人を盲目にしてしまう面があるのです。また霊的体験を過度に重視する発想は、律法が与えられているから自分達は特別であると考えたユダヤ人たちの誇りと同じ愚かさを示すものだと言えるでしょう。このような宗教体験もまた、信仰の世界における力となりうる訳ですが、しかしそのような力が誤った形で利用されてしまう危険性があるという事実にも、この本は気づかせてくれます。そういう意味でこの本は聖霊体験を重視するキリスト教の流れに属する人々にはぜひ読んで欲しい本です。
そのような宗教や霊的世界における力の問題を議論してから、トゥルニエはさらに信仰の世界において問題の核心を穿つような事柄を幾つか語ります。例えば教会で矛盾する教説を聞かされて心が引き裂かれてしまっている人々、あるいは宗教的権威者による抑圧を受けるなどして心の病いを負ってしまっている人々と、トゥルニエ医師はそれまで非常に多く関わられていたとのことです。それは言い換えると、キリスト教会において能力や権力の与えられた指導者や伝道者の持つ力には、濫用の危険性も付随しているということでしょう(255-56頁)。またキリスト教宣教というものは、見方を変えれば宗教的な征服事業とも受け取られかねません。そういう行為に堕してしまうことは決して許されませんが、それでも伝道活動はまさに教会が宗教的な力を発出しようとする機会です。ですから教会にとってそれは大切な働きでありながら、しかし同時に誤った形で力が用いられる危険性を孕みやすい時でもあります(257頁)。
このような議論から、話題はさらに西欧キリスト教世界に基礎を与えたコンスタンティヌス帝のキリスト教公認とローマ帝国によるキリスト教国教化に及びます(258頁)。それは世俗の政治が宗教の力を統治に利用した典型的な実例だからです。トゥルニエは、コンスタンティヌス体制以前のキリスト教会の方が、より純粋に宗教的な力を利己的な目的ではなく、人々への奉仕のために用いていたのではないかと考えています。1970年代の欧州においてすでにキリスト教は少数派となりつつあったのですが、トゥルニエは、これはむしろ良いことだとも言うのです。マイノリティーである方が、より純粋に福音に生きるキリスト教会を実現できるからだということなのでしょう。
そしてトゥルニエが本書で訴えようとしていることの中心は、次の部分に述べられているように思います。
「この単純な真理とは、人は皆、障害物を我慢できぬ尊大な力への意欲によって知らぬ間に動かされている、ということである。」(263頁)
確かに現代文明は、自分の思い通りにならない状況や問題がある時に、それを取り除き、問題を解決することが常に良いことであるとする価値観を絶対化しています。しかしトゥルニエは、このような価値観を「力を神として崇拝する現代の偶像崇拝」と表現します(267頁)。私たちの社会でも、状況を改善し、問題を解決する能力を持つ人が常に評価されますが、実はそのような尺度には危険な面もあるということなのでしょう。そのような力の発出は、方法を誤れば、児童虐待に繋がったり、あるいはナチス・ドイツが生み出した強制収容所のような巨大な悪のシステムを生み出したりしかねません。そして実はそういう悪を行ってしまう人々も、決して特殊な人々なのではないのです。巨大な悪のシステムの出現も、全ての人に備わっており、全ての人を突き動かす力への意欲が誤った形で表現されてしまったことの結果だとトゥルニエは分析します。このようにトゥルニエは、現代文明が評価する人間の力の行使が、常に良いものを生み出すわけではないことを本書で伝えようとしています。
そのような本書の中心テーマを論じながら、トゥルニエ医師は、この本を書いた動機を語ります。それはトゥルニエ医師のもとに来談者の多くが社会的弱者であり、その彼らはしばしば社会的強者の犠牲者たちであるとトゥルニエ医師が認識しているからです。トゥルニエ医師が本書で訴えようとしていることは、社会において力を持っている人々に対して、人の力(能力)の持つ危険性をわきまえて欲しいということなのです(287頁)。皮肉なことに、来談者の中には、人生における成功を体験しているそのただ中で、彼自身がその成功の力の犠牲者となってしまうというケースもあるそうです。そのような力によって苦しむ人々の姿を目の当たりにしながら、トゥルニエ医師は奇妙な一致・符号を見出すそうです。それはつまり力の犠牲者たちの姿と、現代社会における人間の力の結晶である科学技術文明が生み出す都市生活の苦悩との間の奇妙な一致・符号です。社会的弱者の訴えを聞きながら、トゥルニエ医師は現代の都市の問題を連想するというのです。現代の都市というものは必ずしも人を幸福にするとは限らず、様々な困難な問題を人間や社会にもたらしていますが、これも複合的な力(puissance)の濫用の一例だと言えるのでしょう。
このような現代社会の力の絶対化による悲劇が生み出されている原因は、トゥルニエによれば、ルネッサンス以降、学問と信仰、形而下学と形而上学、科学と道徳が、完全に分離されて、特に学問や科学が、信仰や霊的・道徳的関心とは全く無関係に、自律的に歩み続けてきたことにあるとされています。本書で明記はされていませんが、哲学史におけるデカルト以後の理性の自律の問題を意識しているのでしょう。別に中世の思想や学問の方が良かったとは思いませんが、けれどもトゥルニエが指摘している問題は、このような傾向は確かに近代社会の抱えている深刻な問題の一つと言えるのでしょう。その結果、ジョルジュ・フリードマンという人の言葉によれば、人類は「英知」を失ってしまったとのことです。
現代社会の悲劇に関するトゥルニエの議論はグローバル経済にも及びます。すでに1970年代において、トゥルニエは、極度に膨張した世界経済が病んでいるという事実を認識していました(294頁)。21世紀も四半世紀を過ぎようとしている現在、このトゥルニエの診断の正しさは、より一層明瞭になりつつあります。経済のグローバル化によって、アメリカでは製造業が新興国に移ってしまったために、ディーセントな仕事を失ったブルー・カラーの労働者たちの怒りのマグマが現在のトランプ政権を生み出したのでしょう。それはアメリカという、かつて世界の工業生産の半分近くを生み出していた大国が、世界経済の病理の影響を受けて自身も病んでしまったことの結果であると言えるのかもしれません。また先進国の多くは、安い移民労働者などを酷使することによって安価な農業生産物や工業製品を生産し続けています。これも世界経済が病んでいることを示す症状の一つです。そして現在もこれからも、人が普通に教育をうけ、普通に成長して、生まれ育った故郷で地道に安定した生活を続けて一生を終えることのできるという牧歌的な社会や生活は、極度に肥大化したグローバル経済によって世界各地で無惨にも破壊され続けています。日本の多くの地方自治体が存亡の危機にあるのも、やはり世界経済が病んでいることの表れと言えるでしょう。そして言うまでもなく地球温暖化と気候変動とは、まさに人間が自分達のコントロール可能だと考える力やエネルギーを最大限に利用し続けてきたことの帰結だと言えるでしょう。50年前に書かれたこの本が指摘していた問題は、現代において、より一層深刻な形で露呈されているのではないでしょうか。
ところが、それにもかかわらず、トゥルニエは力(puissance)そのものが悪いのではない、力は全て神の賜物であるとも述べます。ただ同時に聖書は、そのような力を用いて人間自身が全能者になろうとすることを禁じているのだと指摘するのです(298頁)。この指摘は、創世記2章で、神がエデンの園に「善悪の知識の木」を置かれ、この木の実を食べることを神が人に禁じられたというエピソードに基づいているのでしょう。そして恐らくこの部分が、トゥルニエによる本書のメッセージの中心にあたるのではないかと思います。力を用いること自体は悪ではない。ただ人間は、力を行使する際に、心の中で神の存在を抑圧し排除してしまう危険性があるとトゥルニエは考えるのです。能力ある人間が、あるいは巨大な権力を行使できる人間が、自身の力を使って何かをしようとしている時、その人の心のうちには、必ず神の声、あるいは良心の声が響いているはずだ。ある神学者はそのように考えるそうです。そのような良心の声は、必ずしも信仰を持っていない人の心にも響いているはずだというのです。ところが社会的強者はそのような良心の声をかき消して、自分を絶対化し、自分のために力を行使する道を選んでしまうのでしょう。現代で言えば、ロシアのプーチン大統領やイスラエルのネタニヤフ首相のような人々は、まさにそのような良心の声を抑圧し排除し続けている人々だと言えるかもしれません。
では人が自身の力の絶対化を回避する道はどこに見出されるのでしょうか。トゥルニエの提案する一つの道は「神の貧しい人々」に倣うと言うことのようです。自分の力を信頼せず、ひたすら神に信頼して生きる人々に倣うということです。その具体例として、トゥルニエは、カトリックのテゼ共同体や欧州における大学生の聖書研究会運動など、1970年代に欧米の各国で実践されていた様々なキリスト教刷新運動を列挙しています。そのような刷新運動は、力と権力が跋扈する現代において決定的に欠落しているものが何よりも血の通った人間関係であることを示しており、そのような人間関係を回復する努力がそうした刷新運動において実践されているからだとトゥルニエは考えているようです。現代においては、あらゆる人間関係は、対等な関係に見えながら、常に能力によって他者を支配しようとする意図の潜む関係になり下がってしまっているということなのでしょう。だからそう言う力関係から自由で、人格的で、対等な人間関係を回復するコミュニティーの形成が、現代において急務だとトゥルニエは考えているのでしょう。
人の力の絶対化を回避するためのもう一つの提案は、本書の最後の「合掌」という項目の中で示されています。この部分でトゥルニエは祈りの必要性を訴えているのです。人間が力を濫用することを回避し、本当に神の御心に叶う形で与えられている能力を用いるために必要なこと、それは絶えず神に祈ることである。それがトゥルニエの結論なのでしょう。
読後感として、私はこの本を、保守的な、あるいは福音的なキリスト教信仰に立つ教会の牧師たちに読んでほしいと思いました。なぜならそのような立場に立つ私自身が、この本を読みながら多くのことを教えられたからです。途中何度となく、これまで自分が奉仕の中で犯してしまった数々の失敗を想起させられました。そしてこれを通読することによって、自分に与えられている力をより謙遜に用いる奉仕者となることの必要性を痛感させられたのでした。両親がこの本を遺しておいてくれたことに感謝したいと思います。




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