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ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治愛訳、集英社文庫、2007年 [原著1925年]



 前回このコーナーで紹介したケヴィン・ヴァンフーザーの『聖書の物語とリクール哲学』の中で、ポール・リクールが、福音書における受難物語(イエス・キリストの十字架の死に至るストーリー)の与えたインパクトの類比として、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』という小説を取り上げていることが紹介されていました。イエス・キリストの十字架の死は、現代に至るまで世界中のキリスト教徒たちから救いをもたらす出来事と信じられてきました。多くのキリスト教徒たちは、世界の創造主なる神が、その御子イエス・キリストの十字架の死によって、全人類に対するご自身の深い愛をお示しになり、このキリストの十字架の贖いの死のゆえに私たちはその罪を赦され、永遠のいのちに預かる者とされる、そのような救いを経験させて頂くことができると信じてきました。私もその一人です。


 ただ大学3年生頃までは、イエス・キリストの処刑による死が、一体なぜ私の救いと関係があるのか、具体的には私の罪の赦しのための贖いの代価として起きた出来事であったと言えるのか、またなぜこの出来事に神の愛が示されていると言えるのか、実感を持って受け止められずにおりました。私は両親がキリスト教徒であったので、子供の頃から教会に出席していましたが、教会の礼拝やキリスト教関係の集会でメッセージ(説教)を語る牧師先生や伝道者の方々は、皆一様にイエス・キリストの十字架の死について講壇から語っておられました。そういう先生方の中には、感極まって涙を流しながら十字架によって示された神の愛を訴えられる方もおられました。このような感動をもって語られていた贖罪のメッセージも、まだ小学生や中高生の頃に聞いた当時は、話し手がなぜ涙ながらにお話しされるのか、その理由が正直なところ良くわかりませんでした。ですから伝道集会などに参加するたびに、お決まりのパターンでキリストの十字架が語られると、自分は冷めた思いでその話しを聞き流していたのでした。


 イエス・キリストの十字架の死によって限りない神の愛がこの私に示されている、と言うことついて、実感を持って受け入れることができるようになったのは大学4年目のことでした。と言っても、当時私は大学生活に行き詰まり、学びに取り組む意欲を失って、一年休学することにしていました。小学生の頃からお世話になっていたアメリカ人宣教師の方の紹介で、1988年の6月から数ヶ月間、カリフォルニア州サンバーナーディノ郡のキリスト教キャンプ場で臨時スタッフとして働く機会が与えられました。その後さらに出身教会の宣教師夫妻の紹介で、ロサンゼルス近郊のパサディナにあった小さな大学の寮に一月半ほど滞在するチャンスも与えられました。カフェテリアで食事をしていた時に知り合った友人から、あなたはクリスチャンかと問われ、そうだと答えました。既に洗礼を受けていたからです。しかし自分は信仰生活に喜びが感じられない。そう話すと、その方は即座にイエス・キリストの十字架によって示して下さった神の愛と恵みを話してくれたのでした。その時までに同じような話しは恐らく何十回となく聞かされていましたが、どういうわけかその時は、これを自分に語られた事として受け入れられたのでした。


 なぜその時イエス・キリストの十字架の死による救いの恵みを受け入ることができたのか。振り返ると、その数ヶ月前にキャンプ場で聞いた日曜礼拝のメッセージを通して、自分の罪を自覚させられていたからだと思います。キャンプ場では夏の間、各地の大学生を臨時のサマースタッフとして雇い、宿舎と食事を提供する一方、夏のプログラムのための様々な仕事をしてもらう体制をとっていました。ですから夏休み中の日曜日には、キャンプ場に留まるサマースタッフも多く、そのスタッフのために、キャンプ場は毎週礼拝をおこなっていました。殆どのメッセージの内容はよく覚えていませんが、ある週の礼拝に来られた女性説教者のメッセージは心に残りました。そのメッセージを通して、私は自分の中に聖書が言う意味での罪の性質、つまり神が定めた教えや掟に反抗する性質が存在するという自覚を持つようになりました。聖書の教える人間の罪とは、創造主なる神に反抗する思いが生まれながらに負わされてしまっていると言う教えです。そのため自分の力だけではその状態から抜け出すことができないとされます。だから神の救いの御業が私たちには必要である。聖書はそのように教えます。前年の夏にそのような経験をしていたので、カフェテリアでイエス・キリストの十字架の死について聞かされた時に、キリストの十字架によって示された神の恵みを理解し、受け入れることができたのではないかと思います。


 ただ十字架の救いの恵みを感謝するようになった後も疑問は残りました。なぜ神は、人を罪から救うために、イエス・キリストの十字架の死という方法を選ばれたのか。そのことがよく判りませんでした。この疑問は、大学卒業直前に参加した学生向けのキャンプで聞いた講演(メッセージ)で解決されました。講師の先生はご自身の高校時代にどのように信仰を持つようになったのかを話して下さいました。この先生は、たまたまヨハネによる福音書を読んでおられたそうですが、イエス・キリストが十字架上で「完了した」(共同訳は「成し遂げられた」)と言われた箇所(ヨハネ19章30節)を読んでいて、はたと気づかれたそうです。イエス・キリストが十字架で息を引き取る間際に「完了した」と言われたのは、つまり人間を罪から救うための救いの御業が、イエス・キリストの十字架の苦しみと死によって完了されたのだ。だから私たち人間は、御子イエス・キリストが完了して下さった救いの恵みをただ受け入れるだけで良い。そう気づかれたとのことでした。このヨハネの福音書19:30の解説を聞いた時にそれまで持っていた疑問は氷解しました。そもそも罪の中にある私は自分の力で自分の罪の性質を変えることが出来ない状態にあることを自覚させられていたのでした。自分の力で自分の状況を変えることが出来ない者が、神に向かって「なぜあなたはこういう方法で私を救おうとされるのか」という疑問を発することは、そもそも愚かしいことではないか。そう気づかされたのでした。


 そういう経験をした者が、『ダロウェイ夫人』という小説を読むと、そこに描かれている人々(1920年代の英国の上流階級やアッパー・ミドル・クラス)の内面的な世界は、キリストの十字架を信じ受け入れるキリスト教信仰の世界とは随分とかけ離れた世界であることに気付かされます。


 もちろん、この小説がモダニズム小説の傑作の一つであるとされている理由は理解できます。小説には、大きく分けて一人の主人公が一人称で語り手となる私小説と、主人公を三人称単数形で描写する客観小説があると思いますが、『ダロウェイ夫人』という作品は、複合的な小説だと思います。ヴァージニア・ウルフは、クラリッサ・ダロウェイ夫人という52歳の保守党議員の妻が、水曜日に夜のパーティーを開催する一日の中に、数名の人間の複雑な心の動きを詳細に描写することによって350頁にも及ぶ長編小説を成立させています。わずか一日のことなのですが、この一日の彼女と周囲の人々の心理の流れの中でクラリッサの過去数十年間の人生の中で経験された事柄が次々と回顧されます。心理描写がなされるのは、クラリッサ・ダロウェイだけではありません。彼女の元恋人でありながらリチャード・ダロウェイに恋人を奪われたピーター・ウォルシュという男性の心理描写もなされます。ピーター・ウォルシュの心理描写は、主にクラリッサ・ダロウェイという女性の人物造形のためになされています。さらにクラリッサ・ダロウェイともピーター・ウォルシュとも全く無関係で、階級も異なるセプティマス・ウォレン・スミスという男性と、そのイタリア人妻ルクレイツィア(レイツィア)という夫妻も登場します。セプティマスは第一次世界大戦に従軍したためにPTSDを発症していると思われる男性で、自殺衝動のために精神科の医師の診断を受けなければならない状態にありました。そのような数名の登場人物のたった一日の内面的な世界を克明に描いたウルフという作家の創作能力には驚くべきものがあります。数名の心理を描くことによって、当時の英国上流社会に生きる一人の女性と彼女を取り巻く英国社会の状況が読者の中にイメージとして浮かび上がります。リクールの言葉を借りれば「形象化」されることになるのです。また客観的時間によって物語を描くのではなく、たった一日の数名の人間の内面的な描写によって、クラリッサ・ダロウェイという女性の52年間の生涯の物語を描き出すことにも成功しています。文芸作品としては非常に斬新だったのではないでしょうか。


 斬新さということなら、この小説の心理描写の連鎖は、何か映画的な手法を取り入れているかのような形で結びつけられています。例えばロンドンのリージェント公園駅付近を歩いていたピーター・ウォルシュの心理描写の途中で、ピーターはその場所にいた老婆に施しをします。そこでピーター・ウォルシュの心理描写は区切られ、同じ老婆を偶然近くで見ていたレイツィア・ウォレン・スミスの心理描写にシフトするのです(149-50頁)。この時、レイツィアは夫のセプティマスと一緒にホームズ医師という開業医の診察を受けるために付近を歩いていたのでした。さらにレイツィアの心理描写から、二人のいる場所の情景描写を経て、今度はセプティマスの心理描写に移行します。セプティマスがホームズ医師の診察を受ける場面も描かれるのですが、ホームズ医師の発言はセプティマスの意識の中で聞き取られる発言として描写されます。それによってホームズ医師がセプティマスの意識のフィルターを通して描かれることになります。これらの手法は恐らく同時代の西洋哲学の動向とも連動していたのでしょう。


 この小説の前半は、主に四人の登場人物の一人称で展開される複合的な私小説になっているのではないでしょうか。しかし小説の中盤である正午の鐘の音が鳴った後から、レディー・ブルートン宅の昼食の場面となります。そこでは客観小説の形式が採用されているようでもあります。この昼食に招かれていたリチャード・ダロウェイは、ブルートン宅を後にすると、友人のヒュー・ウィットブレッドが妻のために買うネックレスの買い物に付き合ってから、妻のために花を購入して自宅に戻り、妻との会話に入るのですが、この夫婦の会話の部分はリチャード・ダロウェイとの心理描写とクラリッサ・ダロウェイの心理描写とが交互になされます。夫婦の表面的な会話の背後で、クラリッサの心の中では、二人の関係に今も影を落とす、元カレであったピーター・ウォルシュの記憶がしばしば意識にのぼります。クラリッサは常に夫をピーターと比較しながら、夫に対する不満を募らせるのです。そのように表面的な会話の合間に、登場人物の心理描写が克明になされることによって、夫婦の会話の背後にある心の真実が生々しく晒されるのです。そのような型破りな小説のスタイルを成立させつつ、優れた人物描写や人物造形を行なっている所に、ヴァージニア・ウルフという作家の力量を感じさせられます。


 ところで、この小説における同時代のキリスト教の体現者は、ミス・キルマンという女性です。彼女はダロウェイ夫人の娘エリザベスの家庭教師で、リチャード・ダロウェイからエリザベスに歴史を教えることを依頼された女性です。階級は恐らく下層中流階級と思われます。信心深い女性で、クラリッサ・ダロウェイ夫人のような生き方を軽蔑している女性でもありました。しかし、本来全ての人に対して心開かれているべき敬虔なキリスト教徒にもかかわらず、彼女はクラリッサ・ダロウェイを憎み、軽蔑しているのです。彼女のそのような内面が暴露されることによって、ミス・キルマンの偽善性が浮き彫りにされています。ミス・キルマンの描き方の中に、ヴァージニア・ウルフと言う作家の同時代の英国のキリスト教に対する嫌悪感が示されているように思われます。


 一方、小説の本筋とは無関係に存在していたセプティマスと言う人物は、小説のクライマックスで、ダロウェイ夫人の内面世界に突如として登場することになります。彼は主治医のホームズ医師が往診にやって来たタイミングで窓から飛び降り自殺をしてしまいます。セプティマスの自殺は、夜のパーティーに遅れて出席した精神科医サー・ウィリアム・ブラッドショーの夫人によって伝えられました。レディー・ブラッドショーは遅刻の理由をダロウェイ夫人に説明するのでした。その日の午後、担当していた青年が自殺したために、サー・ウィリアムに電話があり、対応しなければならなくなってしまったのでした。夜のパーティーの席に死亡のニュースが伝えられたことにクラリッサ・ダロウェイは当惑します。しかしクラリッサは、この青年がどのような思いで自殺したのだろうかと思案します。なぜならクラリッサ自身も自殺を考えてしまったことがあったからでした。彼女はパーティーの最中、誰もいない部屋の外を一人で眺めながらこの青年の自殺について思索を深めました。そして彼女はこの青年が自分の命を放棄して自殺したことを、なぜか嬉しく思うのでした。そこまで考え続けた所で、再びホステス役を果たすために彼女はパーティー会場に戻ります。


 小説の結末に至る最後のシーンは、クラリッサの古い友人サリー・シートンとピーター・ウォルシュの会話です。サリーはかつてピーターとクラリッサが交際していたことを知っていました。それでピーターに「クラリッサは本当はあなたの方が好きだったんですよ」と話します。ピーターはこれを退けますが、サリーとピーターは二人とも、クラリッサがリチャード・ダロウェイと結婚して、果たして本当に幸福だったのだろうかとの疑問を感じているのでした。彼らの視線の先には美しく成長したクラリッサの娘エリザベスが立っていました。彼女の存在はクラリッサとリチャードの結婚の実りとして示されているようにも思われます。しかしエリザベスの存在に込められた著者の意図は私には理解しきれないものがありました。やがてパーティーは終わりの時間となり、来会者たちが相次いで帰宅する頃になって、サリーはピーターとの会話を辞めて立ち上がり、離れていきます。すると一人になったピーターは、目の前にクラリッサが立っていることに気づくのでした。そこでこの小説は終わります。その後二人の関係がどうなるのかは読者の想像に委ねられることになるわけです。


 この『ダロウェイ夫人』を通読して、この小説についてというよりは、ポール・リクールのキリスト教信仰について考えさせられる面がありました。もしリクールが、イエス・キリストの十字架の死とのアナロジーを『ダロウェイ夫人』に認めたとすれば、これには正直なところ違和感を感じます。なぜならクラリッサ・ダロウェイは、確かに自殺願望を振り払って現実に向き合う人生を選び取ったように描かれてはいるのですが、結末を読むと昔の恋人とよりを戻そうとする道を選んだことを匂わせるような終わり方をしているのです。そのような物語と、イエス・キリストの十字架の死によって人が生きる力を与えられると言うことは、かなりかけ離れているように感じました。そしてイエス・キリストの十字架の死による贖罪が、リクール自身の信仰に決定的に重要な意味を持っていたのだろうか、という疑問を覚えざるを得ません。信仰上の立場としては、リクールと自分との間には距離があるように感じられたわけです。リクールのキリスト教信仰に敬意を覚えつつ、彼の十字架についての理解は、私の理解とは同じではなかったのかもしれないと思わされたのでした。

 


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