コーリー・テン・ブーム『わたしの隠れ家』湖浜馨訳、いのちのことば社、1975年
- ign117antjust165ma
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更新日:15 分前

昨年7月に母が施設に入ったのを機に、残された両親の家具や持ち物を処分するようになりました。この一年間で実家の2階にあった家具類はほぼ粗大ゴミに出し、愛書家であった父の蔵書もだいぶ捨てました。ただ両親の遺した本の中には捨てるのが惜しい本もありましたので、そのような本は持ち続けることにしました。コーリー・テン・ブームの『わたしの隠れ家』もその一冊です。
コーリー・テン・ブームの名前はプロテスタントのクリスチャンの間では世界的に知られていました。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下のオランダで、ユダヤ人絶滅政策に抵抗し、密かにユダヤ人を匿い、救出活動に協力していたオランダのクリスチャン女性です。彼女はその活動のために家族と共に逮捕され、強制収容所に送られてしまいますが、奇跡的に解放され、戦後も生き延びることができた方でした。彼女の経験は映画にもなっています。私も高校生の頃、教会の映画鑑賞会でこの本に基づく映画 ‘The Hiding Place’ を観ました(今はYouTubeで鑑賞できます)。原作は読まずにいたのですが、最近両親の蔵書の中からこれを見つけたので読むことにしました。
オランダは歴史的には改革派(カルヴァン派)の信仰の伝統を持つ国です。私は英国留学中に一度だけオランダを訪問したことがありました。ライデンに母の高校時代の友人が住んでおられたからです。この方は母を教会に誘って下さった方でした。この方のご主人は世界的に著名な言語学者で、オランダの大学で教鞭をとる傍ら、ご家庭を解放して、日曜日の午後にオランダ在住の日本人のための集会を開いておられました。その集会で聖書の話しをするように依頼され、三泊四日のスケジュールで英国ニューカッスル空港からアムステルダム・スキポール空港に飛び、そこから鉄道でライデンまで出かけて行ったのでした。その訪問・滞在の際に母の友人である方が話しておられましたが、欧州統合以前のオランダには、オランダ改革派の信仰の伝統がまだ生きていたものの、欧州統合による経済拡大に刺激されて人々のマインドはかなり変化してしまったとのことでした。多くの人々が高収入を求めるようになったということなのでしょう。
この本の著者の家族であったテン・ブーム家のメンバーたちは、仮に現代に生きておられたとしても、そういう風潮に流されることのなかった人々であっただろうと思います。コーリー・テン・ブームの父親はオランダのハーレムで時計店・時計修理業を営む信仰熱心な男性で、4人の実子を成人させた後、時計屋のわずかな収入にもかかわらず、何人も孤児を引き取って育てた方だったそうです(15-16頁)。長男ウィレムは大学を卒業してオランダ改革派教会の牧師となり、同教会内のユダヤ人救済運動の責任者になりました(28頁)。
この本の冒頭では1937年頃のテン・ブーム家の様子が綴られますが、その後1898年に記憶が遡られます。コーリーが6歳の少女であった時期です。ある時、お父さんは家族のために旧約聖書の詩篇119:105, 114を朗読していたことがありました。「あなたの御言葉は私の足のともしび、私の道の光です。. . . あなたは私の隠れ場、私の盾。私はあなたの御言葉を待ち望みます。」この聖書の言葉を少女であったコーリーは記憶し、その後心の中で反芻するようになります。詩篇が語る「隠れ場」とはどういう場所なのか。何から隠れる必要があるのか、と(42頁)。つまりコーリーにとって聖書の神への信仰は、信仰者である父親の姿を通して与えられ、養われたということなのでした。その頃、近所の赤ちゃんが亡くなるという出来事に遭遇し、コーリーも人の死について考えるようになります。お父さんに、「パパ、死んではいや。いつまでも生きていて」と訴えたことがありました。するとお父さんはこう答えたのでした。「天におられる私たちの賢いお父様も、いつ私たちに必要なものを与えたら良いのか、ちゃんとご存じなのだよ。だからコーリー、天のお父様の先走りをしてはいけません。やがて、家族の誰かが死ぬかもしれない。でも、その時には、お前に必要な力がそなわることが、わかるだろうよ。」この父親の言葉によって、少女であったコーリーは、家族の死に対する不安を乗り越えることができたようでした。
コーリーの母は1918年に脳溢血を発症し、しばらく意識を失ったことがありました。その後やや回復しますが、身体と言語の障害が残ってしまいます。亡くなるまでの3年間、コーリーは母親の手足となって、その生活をサポートしたのでした。父と二人の娘(長女ベッツィーと三女コーリー)は時計店を経営しながら、平和な暮らしを続けていたのでした。テン・ブーム家がラジオを購入するようになったのはこの頃です。父親はそれまで毎週月曜日にアムステルダムの海軍観測所に行き、そこで時計を正確な時刻に合わせるのを習慣にしていましたが、ラジオでBBCの時報を聞くことができるようになると、アムステルダムに行くのを辞めて、ラジオで時刻を合わせるようになります。ドイツと英仏が戦争状態に入ったというニュースもやはりラジオでも知らされました。オランダは中立ではありましたが、父親はドイツに侵略されてオランダは敗北するとの悲観的な見通しを持っており、実際その通りになりました。オランダ軍は5日間ドイツに抵抗しましたが、敗北し、女王は退位することになります。穏やかであったテン・ブーム家の人々にも嵐の日々が訪れることになったのでした。
ドイツの占領下で、全てのオランダ人は身分証明書を常時携帯しなければならず、警察官や軍人から証明書の提示を求められるようになりました。新聞は事実を報道しなくなり、ドイツ軍の快進撃のニュースばかりを掲載するようになりました。ラジオが貴重な情報源であったので、コーリーたちは、ドイツ兵に嘘をついて、ラジオが没収されないように守りました。反ユダヤ主義の政策は、占領下のオランダでも行われ、ユダヤ人お断りという貼り紙を出す店が出て来るようになりました。近所のユダヤ人たちが突然姿を消すということも起きるようになります。そしてごく自然な流れとして、テン・ブーム家の三人は、兄のウィレムと共に、隣人であるユダヤ人を救う活動に協力するようになったのでした。
オランダが降伏して2年後のある日曜日、オルガン奏者であった甥のピーターは、礼拝の中で突然、自らの意志でオランダ国家「ウィルヘルムス」を演奏したことがありました。そのために彼は逮捕され、刑務所に収監されてしまいます。一方テン・ブーム家に助けを求めるユダヤ人たちは徐々に増えて行きました。一家は彼らを拒まず、信仰に基づいて彼らを匿うようになります。そのような歩みをしていると、やがて「地下組織」の人々が、テン・ブーム家を訪問するようになりました。彼らはユダヤ人の逃亡ルートの確保だけではなく、連合軍の撃墜された爆撃機の搭乗員たちが、欧州から北海沿岸まで移動するための秘密のルートも構築していました。彼らの協力のもとに、テン・ブーム家にも秘密の部屋が作られるようになります。この本の原題はThe Hiding Placeですが、それはテン・ブーム家にユダヤ人のための秘密の部屋が作られたこととも関係があるのでしょう。
逮捕され、刑務所に収監されていたピーターは出獄することができました。けれどもこの頃から、ナチス・ドイツは若い青年男子を強制連行して労働に従事させるということを頻繁に行うようになり、テン・ブーム家にもそのためにドイツ兵がやって来ることがありました。
近隣のユダヤ人たちに隠れ場所を提供する働きは続けられていましたが、状況は次第に厳しくなり、テン・ブーム家に避難場所を求めていた近所のユダヤ人たちの中にも、ドイツ軍によって発見され、捕えられて、収容所に送られる人々が増えて行きました。そのような人々の中には、キリスト教徒に改宗したユダヤ人も多くおりました。彼らは便宜上キリスト教に改宗しただけではなく、テン・ブーム家の人々の信仰などに触れて、その信仰が深められ、「たとえどこに連れて行かれても、そこをイエス様のために証しの場とします」と別れの言葉を告げるユダヤ人キリスト者もいたのでした(149頁)。
テン・ブーム家のユダヤ人救出活動の終わりは、次女ノーリーの秘密漏洩から始まりました。彼女の家にゲシュタポが立ち入った時に、彼女はそこにいたユダヤ人女性の素性を明かしてしまったのです。このユダヤ人女性は完璧な偽造身分証明証を所持し、ゲシュタポにも見破られることはなかったにも関わらず、ノーリーはユダヤ人を守ることをせず、敵に事実を話してしまったのでした。それから少しずつ、確実にテン・ブームの家への危険が迫っていることを暗示する出来事が起きました。依頼もしていない窓拭き屋が勝手に窓を拭き、カーテンの上から家の中を覗き込むような出来事がありました。また以前時計を購入しにきたオットーというドイツ兵が食事時に訪問してきたために、コーリーはブザーを鳴らしてユダヤ人の滞在者たちを隠れ家に避難させなければならないということもありました。1943年の12月には滞在中のユダヤ人たちがハヌカのお祭りの歌を歌っているのが近所に漏れ聞こえてしまい、隣の眼鏡屋の奥さんが苦情を言いに来るという失態を演じてしまいました。歌を聴いた人々の中には警察関係者もいたようです。しばらくして警察署長から出頭命令の手紙が届き、コーリーは警察署長の質問を受けることになります。テン・ブーム家で行われていた救出活動は、すでに多くの人々に知られてしまっていたようでした。そしてついに1944年の2月28日に、ゲシュタポがテン・ブーム家に踏み込み、コーリーに暴力を振るい、匿っているユダヤ人や地下組織について口をわらせようとしました。それまでテン・ブームの家に造られていた隠し部屋も暴かれてしまいました。やがてコーリーは、父親と姉のベッツィーと兄のウェレムと共に連行されますが、そのような時にもコーリーの父は詩篇109篇の「あなたは私の隠れ場、私の盾」という言葉を暗唱していました。彼らはシュベニンゲンの州刑務所に一時収監されます。コーリーが父親を最後に見届けたのはこの場所でした。父は「娘たち、神様がお前たちと共におられるように」と言葉をかけてくれました(214頁)。これが父親の最後の言葉になったのでした。
コーリーは、ゲシュタポが踏み込んだ日に、インフルエンザと見られる高熱にかかっていました。ですから刑務所に収監されてからしばらくは体調の悪い中で次々と降りかかる困難な事態を受け入れなければならないという苦しみをも経験します。収監されて半月後には独房に入れられますが、彼女は幸い聖書を所持することを許され、そこで毎日聖書を読むことができました。彼女は福音書を読む中で、一つの事実に気付かされます。それは彼女の関わったユダヤ人救出活動がゲシュタポによって壊滅させられたことと、そして福音書に記されるイエス・キリストの受難(十字架の死)との間に類似性があるということでした。しかし福音書が伝えていることは、この敗北が序曲に過ぎないということです。では神はこの私にどんな勝利を用意しておられるのか。コーリーはそう問いかけるようになったのでした(229-30頁)。
その後コーリーは、先に釈放された次女のノーリーから、お父さんが刑務所に収監されて10日目に亡くなっていたという事実を知り深い悲しみに突き落とされます。そのような悲しみの中で、コーリーは、ラームズ中尉という人物の尋問を受けます。しかしコーリーは、地下組織の活動に深くコミットしていたわけではなく、ただ命を狙われている隣人を助けるための部屋を提供するという働きに専念していただけでしたから、ほとんど当局の必要とする情報を提供することはありませんでした。代わりにコーリーは、彼女が逮捕される前まで、知的障害者のために働いていたことを話します。ナチス・ドイツにおいては知的障害者は存在する価値のないものとされていましたが、コーリーは聖書に基づいて、神はそのように人をご覧にはならないとドイツの軍人に証しをするのでした。一方お父さんの死亡に伴い、遺言書を確認する法的手続きがなされるために、刑務所の中にコーリーの兄弟が集められるという機会が設けられました。そこでコーリーは、久しぶりにベッツィー、ウィレム、ノーリーと再会します。そしてウィレムから、テン・ブーム家で匿っていたユダヤ人たちは、ゲシュタポが踏み込んだ後も、一人を除いて全員逃亡することに成功したとの話しを聞くことができました。
その頃、オランダの州刑務所に収監されていたコーリーたちは、ブクトという場所にある政治犯の収容所に移送され、そこで強制労働に従事させられることになりました。しかし連合軍がいよいよオランダに迫ってきたために、コーリーたちは、ラベンズブルクというドイツ領内の女子収容所に鉄道で移動させられます。このドイツの女子収容所でコーリーたちが受けた非人道的扱いについては、読むのも辛く感じられるので、詳しく書くことはしません。文明国であるはずの国の人間たちが政治犯たちに対してこれほどまで侮辱的で冷酷な仕打ちを行うことができるということに慄然とさせられます。そのような中で、ベッツィーとコーリーは、自分たちがなぜこの場所に連れて来られたのか、その理由を見出すのでした。ドイツ人の看守たちの非人道的仕打ちを受けている人々の中で、ベッツィーは聖書を開き「誰が、わたしたちをキリストの愛から引き離すのですか。. . . しかし、これら全てにおいても、わたしたちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:35-37)を読みました。その朗読を聞いていた女性たちの顔に光が射すのをコーリーは目撃することができたのでした。そして筆舌に尽くし難い苦しみと屈辱の中にあっても、ベッツィーとコーリーは、少なくとも姉妹で同じ棟に収容されて会話ができることを感謝するのでした。それだけではなく、収容所の中で二人は不思議な経験もします。ちょうど預言者の妻でやもめとなった女性が、エリシャの命じる通りに近所から器を集め、小さな油のつぼから油を注ぐと、全ての器が一杯になるまで油が途切れることがなかったという奇跡が列王記第二4章に書かれていますが、これと似たような出来事にも遭遇したことが書かれています。そしてイエス・キリストの教えに忠実に歩んでいたベッツィーの影響によって、コーリーがいた居住区の人々の言動や振る舞いに明らかな変化が生じるようにさえなっていたのでした(314頁)。
しかし病弱のベッツィーの体調はいよいよ悪化して行き、発熱が40度を超えた時にようやく入院が許可されます。ベッツィーは一度はある程度回復して、コーリーのいた第二十八号棟に戻ることができましたが、1944年のクリスマスの一週間前にとうとう力尽き、天に召されたのでした。そしてベッツィーの召された二日後、コーリーは釈放されます。すでにドイツ国内は爆撃によって鉄道網が寸断されていましたが、コーリーは何とか故郷のオランダ・ハーレムに戻ることができました。そして自宅に戻ると、コーリーは、自分の体験を人々に伝える伝道者としての召命が与えられたと信じて、戦後は講演活動・宣教活動に取り組むようになったのでした。後で知ることなのですが、実はコーリーの釈放は単なる事務的続き上のミスでした。そしてラベンズブルクに収容されていた年配の女性たちは、コーリーの釈放の一週間後に全員ガス室に送られたとのことです。ですから、彼女は奇跡的に戦後も生き延びることができるようになったのでした。
コーリー・テン・ブームは、生活の微細な事柄にも正確な記憶力を持っていた女性でした。そのような優れた才能がこの本からは窺われます。そしてナチス・ドイツによるオランダ占領前のオランダの平和な暮らしの様子から書き起こし、ドイツの強制収容所での非人道的な仕打ちについても証言しています。21世紀のイスラエル国家にいるユダヤ人たちには、かつてこのような人物の努力によって多くのユダヤ人の命が救われていたことを、思い起こして欲しいと思います。そして今パレスチナのガザにいる人々の命の尊厳が奪われているような事態と、コーリーやベッツィーがドイツの強制収容所で経験したような出来事との間には類似性があることを自覚して欲しいと強く願わされます。
ただそういうこと以上に、この本は、ぜひ苦難を経験している方に読んで欲しい本です。神の導きと助けは、ナチス・ドイツの強制収容所の生活においても与えられるということが証言されている本だからです。耐え難いと思われる苦しみを経験していても、その苦難に耐える力を神は信仰者にお与えになることがおできになる。読者はそのような励ましをこの本から与えられるのです。
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