トゥキュディデース『戦史』(上)、久保正彰訳、岩波文庫、1966年
- 2月10日
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更新日:2月11日

大学で卒論指導をして下さった恩師は、当時疫病や感染症の歴史とそれに伴う近代国家における公衆衛生の成立の歴史を研究されていました。18世紀までの西欧の伝統的な国家は「夜警国家」と表現されたように、国内にあっては国民の財産を保護するための法の制定と執行、国際社会においては外交と国防を主な役割としていました。しかし近代国家は伝統的な役割を徐々に拡大して行きます。例えば現在では当然視されている国民経済のための政策の実施という役割も伝統的な国家には必ずしも必須のものではありませんでした。さらには19世紀にはコレラの流行を契機に、英国は上下水道などの社会インフラの整備や公衆衛生をも国家の役割として引き受けるようになりました。ですから一見偶発的に発生したと思われる感染症も近代国家や近代社会形成に深く関わる出来事であった訳です。そのような歴史研究は、所謂戦後歴史学がマルクス主義の史的唯物論の影響のもとに、社会経済史を中心に近代社会の成立を説明しようとしていたのに対して、人間の経済活動とは無関係に発生する疫病のような自然界の現象が、近代社会・近代国家形成の要因ともなった事実を明らかにすることによって、人類の歴史をより広い視点から捉え直そうとする努力の一環であったのだと思います。
疫病・感染症の歴史となると、当然それは従来の各国政治史を中心とする伝統史学の枠組みを踏み越えて行く面がありました。疫病に国境など存在しないからです。そもそも近代歴史学がフランス革命後のドイツに誕生したのは同時代のナショナリズムに強い影響を受けていたからですし、普遍主義的理念を標榜する革命思想に対して、中世以来のドイツ史の伝統を確認することによって、フランス革命の「悪しき」影響からドイツの「良き」伝統を守るという政治的目的を伴う形で近代歴史学は成立した面もありました。そういうことも関係していると思いますが、伝統史学はどうしても一国史の視点に偏る傾向があります。しかし戦後フランスのアナール派の歴史学者たちなどは、そのような固陋な枠組みを取り払って、地域的にも年代的にもより大きな視点から歴史を研究することを重視するようになりました。恩師の先生もそのような方法論の影響を受けていたからだと思います。大学3年の時に受けた講義の中では、先生の専門とされていた英国近代にとどまらず、話題は古代ギリシャ史にも及び、今回紹介するトゥキュディデースの『戦史』にも言及されていました。
トゥキュディデースの『戦史』は古代の歴史書としては珍しく、神話的記述を避け、事実を客観的に記録していることで知られている書物です。彼がそのような歴史を書くことができたことには理由がありました。実は彼自身もアテーナイ軍の指揮官としてペロポネソス戦争に従軍した人物でした。軍船七隻を率いてアンピポリス救援に向かったものの、ペロポネソス同盟軍の将軍プラーシダースに先を越されてしまい、敗戦の責任を問われて20年間の追放命令を受けたそうです。本来はアテーナイ側の人間でありながら、同胞から屈辱的な仕打ちを受けたために、21年間にも及んだペロポネソス戦争の帰趨について比較的公平な視点を持つようになった訳です。そもそも公平な視点に立って書かれた歴史書などというものは厳密には存在しません。歴史家自身が常に何らかの党派性のもとにあるからです。仮に事実を比較的客観的に記録している歴史書があるとすれば、それはトゥキディデースの場合のように、著者に何かそうすることのできる、あるいはそうせざるをえない事情があったからなのでしょう。
トゥキュディデースの生年は不詳ですが、アテーナイ民主政治の最盛期を現出させたペリクレース(紀元前495-29年)の生きた時代でした。トゥキュディデース自身はキモーン一族と呼ばれ、アテーナイの伝統的貴族層の利益を代弁し、重装歩兵部隊を背景とした旧派に属する家系であったと思われます。キモーンの後継者に同名のトゥキュディデースという人物がいるからだそうです。しかし彼自身はアテーナイの歴史叙述において民主政を確立したとされるペリクレースを称賛します。世界史で教えられるようにアテーナイの民主政は、ペルシャ戦争の際にペルシャ海軍に勝利したサラミスの海戦で、アテーナイ海軍の三段櫂船のオールを漕いだ平民たちも政治参加を求めたことによって実現した面があり、貧しい平民たちの権利が認められたことによって成立しました。旧派の既得権益を脅かしかねない階層の政治参加を認めたペリクレースに対する公平な評価も、あるいは彼の不遇の人生と関係があったのかもしれません。
第一巻は、アテナイと同盟関係にあったケルキューラ島(アドリア海に浮かぶ島)の海軍が、ペロポネソス同盟の盟主の一角を占めていたコリントス海軍と戦う場面から始まります。コリントスとケルキューラの海戦は、両者とも決定的な勝利を得ることはなかったようですが、コリントス優勢で終わったようです。そのような中で、コリントス側は海に落ちたケルキューラ兵たちを救助せず殺戮したと記されています。古代の海戦は大砲などありませんから、船に乗り組んだ兵士が敵船に乗り移り、乗船している兵士と戦い、殲滅してから敵船を破壊・焼却すると言う方法で戦われることが多かったのでしょう。あるいは軍艦の突端に付けられた衝角を敵艦の舷側にぶつけ、船腹に穴を開けて沈没させるという戦法もありました。船が破壊され、海に投げ出された兵士や船員たちを、コリントス側は救助することなく、殺して行ったと言うのですから、現代人から見れば残虐な犯罪行為です。古代人の常識からしても容赦のない殺戮と見られたことでしょう。けれどもそう言う虐殺行為が頻繁に行われることは古代の戦争では普通のことだったのでしょう。
このような非人道的な戦争犯罪は、旧約聖書の戦争の記述にも認められます。キリスト教に関心をもって旧約聖書を読んだけれども、あまりにも残虐な記事が多く記されていることに驚いて読むのをやめてしまったと言う話しを聞くことがあります。そう言われるととても残念なのですが、旧約聖書という書物も古代オリエント世界という時代と文化の制約の中で書かれた書物です。人権思想の普及している現代の我々からは信じられないような記事が含まれるのですが、キリスト教がそういう残虐行為を承認しているかのように解釈されてしまうとすれば残念です。聖書は古代の信仰者が書いた書物ですから、彼らが古代社会の倫理や価値観の制約の中で出来事を記録していたことは否定できません。しかしそのような時代の制約を受けている記述を、現代のキリスト教徒が、あたかもキリスト教の教えの根拠となる記事であるかのように読むことはできないはずですし、聖書に人権を無視した残虐な行為が記されているからと言って、現代のキリスト者が同じことを実践して良いという根拠をそこに求めることなど絶対に許されません。
話しを戻すと、アテーナイやペロポネソス半島から遠く離れたケルキューラ島におけるケルキューラ海軍とコリントス海軍との海戦を、なぜトゥキュディデースが『戦史』の最初に記しているかというと、このギリシャの周縁地域で起きた海戦が、コリントスによるアテーナイとの開戦の訴えの一つの理由とされたからです(107頁)。以後、ケルキューラ海軍をアテーナイが支援していたことに対する報復がコリントスによってなされます。他方アテーナイも、コリントスとの衝突が避けられない状況にあることを認識し、元来コリントスによって建設されながら、当時デロス同盟側に属していたポテイダイアに対して干渉を強めます。ポテイダイアは、エーゲ海の北岸から突き出るパリーニ半島の西岸に位置する都市でした。ポテイダイアの背後にはマケドニアの干渉もありました。当時アテーナイとマケドニアは事実上の交戦状態にあり、マケドニアはギリシャにおけるアテネの覇権を突き崩そうとして策動していたのでした。結局ポテイダイアはデロス同盟から離反し、ペロポネソス同盟側についてしまいます。その結果、アテーナイ軍との戦闘が繰り広げられることになったのでした。
ポテイダイアでの戦闘が行われている頃、紀元前432年に、コリントスの代表はアテーナイに敵対するペロポネソス同盟諸都市に呼びかけ、代表をラケダイモーン(スパルタ)に送り、会合を開くことを訴えます。この会合で、同盟諸都市はアテーナイから受けた被害や和約の違反を次々に訴えました。その上でコリントス代表による『戦史』における最初の演説が記録されます。ペロポネソス戦争勃発の原因は、ペルシャ戦争後に覇権を確立したアテーナイの横暴に対するギリシャ諸都市の不満にあった訳です。少なくともこの戦争の直接の原因にマケドニアが関与していたとはトゥキュディデースは書いていません。
コリントス代表は、戦略的な要地であったケリュキューラ島周辺とポテイダイアの二つが、相次いでアテナイ軍に干渉され攻撃されたことに憤り、アテーナイを中心とするデロス同盟に対して反撃を加える必要があると訴えます(117頁)。そしてアテーナイの横暴にも関わらず沈黙を決め込むラケダイモーン(スパルタ)を鼓舞して、デロス同盟側との全面戦争への参加を呼びかけるのでした。つまりトゥキュディデースは、自身もアテナイ人でありながら、この戦争の原因を作ったのはアテナイでもあることを認めている訳です。そのような戦争勃発の説明の仕方にも、トゥキュディデースの歴史家としての誠実さが示されていると言えるのでしょう。
ただ同時にラケダイモーンに集まった反アテーナイ諸都市、特にスパルタに向けてコリントス代表が行った演説は、アテーナイが大胆で革新的であるのに対して、スパルタは慎重で臆病であると批判していました。そしてスパルタが率先して、アテーナイの位置するアッティカへと派兵するようにと訴えます(121頁)。つまりペロポネソス戦争は、一方では、スパルタにおけるコリントス代表の好戦的な演説によって誘発された戦争でもあったことをトゥキュディデースは証言している訳です。
ちょうどこの時期に、スパルタにはアテーナイからの使節も滞在しており、この集会においてアテーナイの使節も開戦を回避し、平和を維持するように訴える演説を行います。アテーナイ使節は、かつてペルシャ戦争の際にアテーナイも参戦したマラトンの戦いとサラミスの海戦において、アテーナイ軍がペルシャ軍を撃破したことによって、スパルタを始めとするペロポネソス半島のギリシャ諸都市の安全が確保された歴史を思い起こさせようとします。そして近年、アテーナイの横暴と非難されている出来事は、このギリシャの平和と安全を確立したことによって得られた覇権を維持しようとする決意を示すものに過ぎないと弁明します(126頁)。
この後、スパルタ王アルキダーモスが登場して、スパルタ市民に対して弁論を行いました。アルキダーモスの演説の内容はスパルタの穏健派を代表していたようです。即時開戦ではなく、アテーナイに使節を送り、アテーナイの所業を批判しながら、近い将来予想される戦争の準備をするべきであるというのが、アルキダーモスの主張でした。
ところがその後で、スパルタの監督官の一人であったステネラーイダースという人物が四番目の短い演説を行います。彼はアテーナイ使節の演説には何の妥当性も認められないと切り捨て、即時開戦を訴えました。最終的にはこのステネラーイダースの主張が受け入れられ、スパルタとペロポネソス同盟諸都市はこの時、非公式にアテーナイとの戦争開始を決議するのでした(135頁)。これがペロポネソス戦争開戦に至る直接的な経緯です。
その後、トゥキュディデースは、ペルシャ戦争の後からペロポネソス戦争の勃発に至るまでのギリシャの歴史を記します。ペルシャ戦争には、もちろんアテーナイのみならず、スパルタなどのペロポネソス半島の諸都市も参戦し、戦果を上げていますが、しかしペルシャ帝国に対する決定的な勝利は、アテーナイ海軍によるサラミスの海戦において成し遂げられました。それによってアテーナイのギリシャ諸都市に対する覇権が確立されます。アテーナイは、当初デロス同盟諸都市の自由を尊重していたようですが、覇権維持のために次第に強圧的となり、同盟諸都市に対する要求を高めていくようになりました(144-45頁)。
強大な覇権を確立したアテーナイに対して、他のギリシャ都市、特にペロポネソス半島の諸都市が警戒するようになって行きます。その結果、アテーナイはスパルタやコリントスなどと対立を深めて行くのでした。このようにトゥキュディデースは、ペロポネソス戦争の勃発の経過を、ヘロドトスの『歴史』とは異なって、超自然的な出来事をも含む説明に頼ることなく、現実の政治史を淡々と記して行きます。さらには、このペルシャ戦争からペロポネソス戦争開戦に至る歴史的な経過を説明するために、ギリシャ都市やエーゲ海の島々の地名、それぞれの都市の指導者たちの人名が詳細に記述され、トゥキュディデースの記録と記憶の正確さを印象付けます。またペルシャ戦争によってギリシャ諸都市がペルシャ帝国に勝利したとはいえ、その後もペルシャ帝国は東地中海に政治的影響力を残していたことも伺うことができます(154頁)。
ペルシャ戦争からペロポネソス戦争勃発までの歴史を叙述した後で、トゥキュディデースは、ペロポネソス同盟諸都市による公式会議がスパルタで開催されたことを記します。ここではコリントス代表による演説の中でアテーナイに対する開戦の大義が示されます。この戦争はギリシャ諸都市の自由の回復のためであるとされたのでした。かつてのペルシャ戦争も、東方的専制的支配を広げようとしたペルシャに対するギリシャ諸都市の自由のための戦いであったのと同様に、ペロポネソス戦争もギリシャ諸都市の自由のために戦われることになったわけです(166頁)。コリントス代表の演説を受けて、諸都市の代表による投票が行われ、正式な開戦の決議がなされました。この公式会議での議決のあと、一年の準備期間を経て、いよいよペロポネソス同盟とアテーナイとの戦闘が開始されることになります。開戦は紀元前431年のことでした。
開戦決議の知らせは、当然アテーナイに届けられました。当時アテーナイの指導者であったペリクレースは宣戦布告を受けて演説を行い、アテーナイの城壁を固めて、ここに籠城しつつ、海軍を展開してペロペネソス同盟軍と戦う方針が示されます。ペリクレースは、アテーナイには十分な軍資金があるので持久戦に持ち込めば有利であるし、海軍力はペロポネソス側よりも圧倒的に優れているとの自信があったのでした。このように第一巻は、ペロポネソス戦争開戦の経緯を詳細に叙述して締め括られます。
第二巻から初期の戦況が語られます。戦端は、アテーナイ北西に位置するボイオティアのテーバイとプラタイアとの戦闘によって開かれました。テーバイの300名の兵士が、アテーナイ側のプラタイア市内に侵入すると、プラタイアはこれを撃退し、捕虜180名を虐殺します。これに対する報復としてテーバイ軍の主力がプラタイアを攻撃したのでした。一方ペロポネソス同盟軍はペロポネソス半島から陸路アッティカに侵攻します。アテーナイは周辺地域の住民を城壁内に移住させ、不測の事態に備えました。ただ城内は周辺住民全員を受け入れるために十分ではなく、移住させられた人々は不満を募らせて行きました。一方アテーナイ海軍は、ペロポネソス同盟諸都市の会議で開戦を主導したとされるアイギーナ島を攻略・占拠し、ここにアテーナイ市民を移住させます。自由な市民が他国の都市にこれほど簡単に移住することができたのは、古代ギリシャが明確な階級社会であり、武力を有する自由人が、実際の労働に従事する奴隷階級を容易に支配することが可能であったことと関係があったのでしょう。アテーナイ海軍はさらにコリントス人の要塞ソリオンを攻略します。さらに開戦初年の夏の終わりには、ペリクレース率いるアテーナイ陸軍が、海軍と協働しながら、アッティカ南部のメガラ領に侵攻し、ペロポネソス同盟軍と対峙します。こうしてペロポネソス戦争の序盤は、アテーナイ優位のうちに進展していきました。
開戦初年の冬に、アテーナイでは戦没者の追悼合同葬儀が行われ、そこでペリクレースが弔辞を述べます。その中で、彼は、アテーナイの民主制と自由を尊ぶ気風が、スパルタに優越すると誇らしげに語りました(226-27頁)。このペリクレースの弔辞をもって、開戦一年目の叙述は区切りをつけられています。
翌年の紀元前430年初夏からペロポネソス同盟軍は、総勢の三分の二の兵力を動員して再びアッティカに侵入します。この頃から、アテーナイ城内に疫病発生の兆しが見え始めたのでした(234頁)。トゥキュディデースによると、疫病の発生源はナイル川上流のエチオピアであったとされます。トゥキュディデースによる疫病の描写は、一度罹患した患者にとってこの病気がいかに絶望的であったかを十分に悟らせるもので、これ自体疫病の歴史の第一級の資料です。この疫病が猖獗を極めたことによってアテーナイ城内には無秩序が拡がったとされます。その一つの理由は、神々を敬っていた信仰熱心な人々であっても、法律を遵守していた人々であっても、疫病は全く見境なく人々の命を奪っていったことにありました。病魔の恐怖の前に、人々は通常の道徳心をもはや保つことは無くなって行ったのでした。このような現象は、コロナ禍が第二次トランプ政権を可能にしたとされる現代の現象とも響き合うものがあります。
それでもアテーナイは、海軍を利用してアッティカにアテーナイ軍を派遣し、ペロポネソス同盟軍をこの地域から排除しようとします。ペロポネソス同盟軍は、40日間アッティカの地域に破壊活動を行ってから、疫病への感染を恐れて、退却をしていました。この破壊活動は功を奏し、疫病と食糧不足のために、アテーナイは戦意を低下させ、ペリクレースに対して批判が向けられるようになっていました(244頁)。しかし逆風の中でペリクレースは民会を開き、士気を鼓吹する演説を行います。ペリクレースの主張は、ポリスにおいて個人の安全よりポリス全体の安全が優先されなければならないというものでした。また屈服して他国に従属するか、戦ってポリスの独立と尊厳を守るかの二者択一を迫られた時、自分は戦うことを選んだのであるとして、自己の選択を正当化します。またアテーナイの保有する海軍力に基づく覇権は、アテーナイ市民個人の農地などの財産の喪失を補って余りある富を生み出すことができると訴え、従ってアテーナイ市民は、アテーナイの覇権を守らなければならないと主張し、疫病という予期せぬ事態の責任を自分に問うことは誤りであると自己の判断を擁護するのでした(245-50頁)。この民会の後、ペリクレースは罰金刑に課せられたものの、指揮権の継続は承認されます。罰金刑が課せられたのは、戦争継続のために多くの市民たちが財産を犠牲にしていたからでした。それでもこのペリクレースの演説は功を奏し、彼は自分の地位を守ることに成功したのでした。彼は開戦後2年6ヶ月生き続けたと記録されています。トゥキュディデースは、ペリクレースの戦時下における判断や選択が、おおむね正しいものであったと評価するだけではなく、政治家としてのペリクレースの能力と人格にも高い評価を与えています(252-53頁)。しかしペリクレースの後継者となった指導者たちが民衆に媚びた政策決定を行ったために民主政に混乱を招くことになった。トゥキュディデースはそう説明するのでした。
開戦後二年目の冬には、コリントスの植民都市ポテイダイアの、アテナイ軍の包囲と兵糧攻めのために遂にアテナイ軍に降伏してしまいます。ですから、疫病の流行にも関わらず、アテーナイの戦争における優位はまだ続いていたわけです。
開戦後三年目の夏に、スパルタのアルキダーモスを総指揮官とするペロポネソス同盟軍は、アッティカには侵入せず、今度はプラタイアを攻撃する構えを見せます。プラタイアの地は、かつてペルシャ戦争において、ギリシャ諸都市の最終的な勝利を決定づけたプラタイアの戦いが行われた場所でした。プラタイアはアテーナイとの同盟関係を維持することを決議したため、アルキダーモスは戦闘を開始します。しかしプラタイア側は頑強に抵抗し、同盟軍は容易にはこの都市を征服することはできませんでした。
戦闘は各地で一進一退を続けていたものの、海戦においてはアテーナイ海軍の優位は揺るぎませんでした。アテーナイ側のアカルナーニア人の地域を巡る陸上戦と並行して発生したコリントスを中心とするペロポネソス同盟の艦隊とポレーミオスを指揮官とするアテーナイ海軍との戦闘は、アテーナイ艦船にも甚大な被害が発生したにもかかわらず、最終的にはアテーナイ側が勝利を収めることになりました(285頁)。艦船数の上では不利であったアテーナイ艦隊の勝利は、ひとえに、艦船の操舵技術と海戦経験の差によって勝ち取られたもので、この時点では伝統あるアテーナイ海軍の優位性は失われていなかったのでした。
上巻の最後に、トラーキア王シータルケースによるマケドニアとカルキディケー人への攻撃が語られます。トラーキアはアテーナイと同盟関係にあり、マケドニアとは敵対していました。そしてマケドニア王ペルディッカースの約束不履行を理由にマケドニアやカルキディケー人の地域に侵入したのですが、結局大した戦果を上げることなく撤退することになります。一方ポレーミオスの率いるアテーナイ艦隊は、アカルナーニア人の支援のために展開されていましたが、敵側の捕虜たちと味方の捕虜との交換を行うために一度アテーナイの港に戻ることになったのでした。このような叙述で、上巻におけるペロポネソス戦争開始後三年の歴史は締め括られます。
『戦史』を読んで感じることですが、日本人にとって一番面倒なのは、多くの人名と共に、聞いたことのないギリシャ・エーゲ海沿岸地域の地名が数多く登場することです。しかし地理をある程度理解することは『戦史』の伝えようとしているペロポネソス戦争の歴史的意義を理解するためには必要です。トゥキュディデースの地理的な記述を読むと、ペロポネソス戦争の主戦場はアッティカ地域ではあったものの、その戦場は、ギリシャ文明の周縁地域であるトラキア(ブルガリア南東部)やマケドニアにも及んでいることがわかります。そのような戦乱の広がりは、やがて確立されるマケドニアによる覇権を準備するものでもあったようです。トゥキュディデースは、戦争それ自体の発端と推移を忠実に描きながら、戦争が後代の歴史に与えた影響や、この戦争から得られる教訓を読者に伝えようとしている面があるのかもしれません。
ただし、よく「トゥキュディデースの罠」という言葉が使われ、『戦史』は既存の覇権国家と新興の覇権を目指す国家とは必然的に戦争することになる、という歴史の教訓を教えていると説明されることがありますが、『戦史』から、そのような教訓を導き出すことができるのかどうか、上巻を読む限りでは明言することはできません。確かにペロポネソス戦争の初期の段階から、トゥキュディデースは随所に新興国マケドニアの影響を暗示させているようにも見受けられます。ただ少なくとも上巻では、トゥキュディデース自身は、戦争の原因が、ペルシャ戦争後のアテーナイの覇権と同盟国への圧迫に対するギリシャ諸都市の反発であったと説明しています。ですから上巻に関して言えば「トゥキュディデースの罠」がペロポネソス戦争の原因であったと語っている訳ではありません。
いずれにせよ本書執筆の意図は、彼の時代、また彼以降の時代のギリシャ人に、戦争の原因と経過、そしてこの戦争が後世に与えた影響を伝える点にありました。では果たして21世紀の日本人がトゥキュディデースの『戦史』を読む意味はあるのでしょうか。古代ギリシャ人のために書かれた戦争の叙述が、我々にとって有益な情報を伝える内容を含んでいるのでしょうか。私はそれでも読む価値はあると思います。この本は政治史及び戦争の歴史に関する古典です。現代の日本人も、この政治と戦争に関するギリシャの古典から学ぶべきことがあると思います。民主的な意思決定のプロセスを本書から学習するという面は当然あります。またそのような民主政治において求められる政治家の資質はどのようなものであるかを学こともできます。ただそういうことと同時に、ギリシャ・ローマ文化の伝統を継承する欧米人たちにとっての戦争観というものを理解する上で『戦史』を読むことは必要不可欠であると思われるからです。
かつて日米開戦の政治的決定が日本政府によってなされた際、日本はまだ米国との交渉を続けていました。対米交渉使節がワシントンに滞在していたにも関わらず、日本軍は真珠湾攻撃を敢行してしまいました。これが欧米の国際社会における外交儀礼の慣習を無視した行為であったことは明白で、欧米人から卑劣さを非難されても仕方がない行為でした。当時のアメリカ国務長官コーデル・ハルが日本側に突きつけたハル・ノートにより米国からの事実上の宣戦布告がなされていたとする認識が、しばしば現代でも日本人によって主張されることがあります。しかし仮に、そのように日本人が主張したとしても、それは日本側だけの一方的な認識に過ぎず、国際社会において日本の主張が受け入れられることは恐らく決してありません。太平洋戦争開戦の際には国際社会における戦争開始のルールを日本が無視したことは明白だからです。『戦史』を読めば、ペロポネソス同盟側がアテーナイとの開戦を決定し、軍事行動に移るまでに、二度の会議が開催されており、会議の後にはアテーナイに使節が送られていることがわかります。古代以来、そのような外交上の慣例が、少なくとも西欧の政治的伝統の基礎になっていたことは、この本を読めば一目瞭然です。
最近、学校教育における古典の学びの必要性に疑念が提起されるケースが増えていると聞きます。全世代にわたる読書量の低下と共に、ゲームやSNSに時間を奪われるようになっている若い世代に、最低限必要な知識を身につけさせるための優先順位を考えると古典は後回しにせざるを得ないと判断されてしまっているのでしょう。古典の学びを蔑ろにすることは愚かだと思います。時を経ても読み継がれる書物にはそれだけの価値ある知恵の言葉が含まれているはずだからです。個人的には古文・漢文と共にギリシャ・ローマの古典にも高校時代から触れることが理想的だと思います。少なくとも大学の教養教育においてこれからもギリシャ・ローマの古典は必須ではないでしょうか。この国が政治的な独立を保ち経済的な繁栄を維持するために科学技術や現実的課題に対処する知識の普及を目指すことは言うまでもありませんが、ヘロドトスやトゥキュディデースの著作に触れる日本人が一定数存在し続ける国民文化が維持される必要もあると思います。
日本という国は地政学的環境から言っても、人種的な構成から言っても、今後もアジアの一国であり続けるしか選択肢のない国ではあります。しかしアジアの国々の中で先頭を切って西欧化・近代化を目指した国であったという事実は日本の強みであり続けるはずです。その強みを活かし続けるために、近代国際社会の形成に基礎を与えた西欧文化の知的・政治的伝統にも開かれた心を持つ日本人が一定数以上存在し続けることには意味があると思います。近代国際社会の秩序は、今や風前の灯火とも見られかねない時代に入りつつありますが、しかしその価値観を過去のものと見做して簡単に放棄したり、無視したりすることは賢明ではないと思います。




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