C. S. ルイス『痛みの問題』中村妙子訳、新教出版社、1976年
- ign117antjust165ma
- 11月8日
- 読了時間: 23分

今回はC. S. ルイス『痛みの問題』を紹介します。C. S. ルイスの本は既にこのコーナーで何冊か紹介してきました。2019年10月には自伝『喜びのおとずれ』を取り上げ、2020年10月にはナルニア国物語シリーズから『銀のいす』について書き、昨年12月には『四つの愛』を紹介しました。ルイスの本はこれで4冊目ということになります。ルイスの本を11月に紹介するのはふさわしいと思います。なぜならルイスが召されたのは1963年11月22日であったからです。
C. S. ルイスは北アイルランドのベルファスト出身でした。父親は事務弁護士(solicitor)で、母親は国教会の牧師の娘でした。ルイスのようなアッパー・ミドルクラス出身の優秀な学生であれば、寄宿生活を伴うパブリック・スクールに入学し、そこからオックスフォード或いはケンブリッジを目指すと言うのが通常の進路でしたが、彼は学校嫌いでもあったために、父親の教師でもあったカークパトリックと言う先生の個人指導を受けることになりました。この先生の影響で十代にして無神論者となったようです。それでも彼は、この先生のもとでギリシャ語・ラテン語の古典を読破する能力を身につけてオックスフォード大学に入学します。
ただルイスの大学生活は入学早々軍隊生活によって中断されました。当時欧州は第一次世界大戦中であり、入学後、彼はすぐに陸軍に志願します。仮に志願しなくても召集されるのは時間の問題だったからのようです。その訓練期間に、やはりオックスフォード大学に在籍していながらルイスと同様に陸軍に志願したアイルランド人のパディー・ムーアという学生と親友になり、ルイスは彼と一つの約束をします。もしどちらかが戦死し、どちらかが生き残ったら、生き残った方が両方の親の責任を持つという約束でした。欧州の戦場でルイスは負傷しますが生き残ります。しかしパディー・ムーアは戦死しました。それでルイスは除隊後、オックスフォードに住んでいた彼の母親と妹の家に住むようになります。律儀で誠実ではあるものの風変わりな(eccentric)人物でもありました。彼がオックスフォード郊外でパディー・ムーアの母親と妹と住んだ住宅(the Kilns)は現在史跡となっているようです。
復学したルイスは、強迫的な読書家(an obsessive reader)であると共に抜群の記憶力を有しており、古典学と英文学において首席の成績を修め、研究者として大学に残り、北欧神話や英国中世文学を研究するようになります。そしてやはり英国中世文学を専門としていたJ. R. R. トールキーンと出会い、他数名と共に「インクリングス」という文学者のサークルを始めました。彼らは毎週火曜日の昼頃にThe Eagle and Childというパブに集まり、ビールを飲みながらディスカッションにこうじていたのでした。やがてルイスはモードリン学寮のフェロー(研究員)及びテューター(個人指導教員)となり、大学で英文学を教えるようになります。当時英文学は女性向けの学問と見做されていたのですが、トールキーンと共にルイスは英文学も堅実な学問研究の対象として歴史学的に研究されるべきだと考えていたのでした。いずれにせよ研究領域の選択にもルイスのユニークな人柄が現れているように思います。
上述のようにルイスは十代から無神論者になっていました。しかしカトリック信徒であったトールキーンとの出会いなどを通して、1930年にキリスト教信仰に回帰します。信仰を回復すると、彼は立て続けにキリスト教弁明書を出版するようになりました。今回取り上げた『痛みの問題』は1940年に出版されましたが、この本もルイスが大衆向けに書いた神学的著作です。神学におけるいわゆる悪の問題(神義論)に取り組んだ本のように思われるタイトルです。神義論(Theodicy)とは、なぜ善であるはずの神によって創造された世界に悪が存在するのか。なぜ神は正しい人にも不当な苦しみを経験させるのか。なぜ善なる神は全ての人が幸福である世界を創造することができなかったのか。そのような疑問に取り組む神学の領域の一つです。ただ本書は神義論を扱っているようでありながら、実際には、ルイスがキリスト教の福音の内容を、あまり神学的・聖書的な言語に頼らないで、できるだけ普通の人が使う表現を用いながら伝えようとしている本でもあるように思います。またこの本は、神義論に関わるテーマの中でも、自然災害や疫病や戦争のような不条理な集団的苦痛については取り扱っておらず、個人的な苦しみや痛みの問題のみを扱っている本です。
それでも1940年に神義論のテーマを扱った書物が、英国国教会信徒の文学研究者によって出版されたという事実は重要であったと思います。前年にはナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、欧州では第二次世界大戦が既に始まっていました。1940年5月にはダンケルクの撤退があり、当時ナチス・ドイツと戦っていたのは英国のみとなりました。首相チャーチルはこの戦争をキリスト教文明に挑戦する野蛮との戦いであると規定しました。7月にはバトル・オブ・ブリテンが始まり、ドイツ空軍による爆撃が始まっています。そのような時代背景の中で書かれた英国国教会の信徒による神義論の書物は、1941-43年にBBCで放送されたC. S. ルイスのキリスト教についてのラジオ放送(この内容は後に『キリスト教の精髄(Mere Christianity)』として出版されます)と共に、多くの英国人の共感を呼んだのでしょう。ルイスは大衆的キリスト教神学者として注目を集めるようになったのでした。
ルイスが大衆向けの神学書を書く作文能力を身につけることができたのは、アリステア・マクグラスの説明によれば、彼が第一次世界大戦に従軍したことと関連しているそうです。英国社会は階級間の交流が極めて稀であることで知られていますが、ルイスは戦場で初めて労働者階級出身の人々の話す言葉に触れたのでしょう。英国一般大衆の話し言葉にもルイスは通じるようになったのでした。
ただ本書を執筆するようになった直接の理由は、そのような欧州の情勢にあったわけではなく、恐らく個人的なものでした。1930年に入信したルイスが、自分の信仰を大学の他の同僚に分かち合おうとした時に、彼らが決まってルイスに返した返答、即ちなぜ彼らがキリスト教の神を信じることができないのか、その説明の中に、恐らくルイスは共通する課題を見出していたのでしょう。無神論者や非キリスト教徒が一様にキリスト教信仰に対して向ける疑問があり、解決すべき課題があるとルイスは感じていたのではないでしょうか。この本はそのような個人的な問題意識から導かれた課題に取り組んだ本であったように思われます。ですから『痛みの問題』というタイトルで、神義論の本であるかのように装いながら、実際にはキリスト教の福音を説明しようとする意図を持った本だと言えます。
余談になりますが、ルイスはこの本を書きながら、意識的に戦争の話題は避けていたようです。ルイス自身、第一次世界大戦の戦場で現代戦の戦慄と恐怖を体験していました。その時の陰惨な記憶を呼び覚ましたくないという思いもあったのかもしれません。結果的には、同時代の戦争にまつわる暗い話題には一切触れないことによって、この本は時代を超えた普遍的なテーマに関する議論に終始し、かえってそれが第二次大戦初期に暗いニュースばかりを聞かされていた戦時下のイギリスの読者に好感をもって受け入れられたのではないでしょうか。
話しを戻すと、そのようにルイスの同僚の無神論者たちが提起していたと思われる疑問は、第二章の「神の全能」において提示されます。「もし神が善であり全能であるなら、なぜ信仰者が苦痛を経験するのか。」そのような類の疑問です。この疑問に対して、ルイスはまず、神が人間に自由意志を与えておられる事実を指摘します。そして人間が自由意志によって選んだ結果生じている悪についてまで、神にその責任を問うことはできないと論じます。つまり全能の神が存在するとしても、人間が自由意志によって選び取った悪でさえも善に変えることのできるような全能さを神に期待することはできないのではないかと言う訳です。あるいは全能の神は、人間の悪い行いに対して、当然の報いを受けるような「自然法」の備わった世界を創造することがおできになるのではないか。ルイスはそう考えてもいます。従って当然の報いを受けている人間が、善なる神の存在を疑うとすれば、それは理不尽な考え方ではないかとも述べています。
第三章の「神の善」でルイスは、超越的な存在である神にとっての善というものを、実は人間は完全には理解することができる訳ではないと断ります。それにも関わらず、ルイスは人間の世界に存在する愛を手がかりに、特に神の愛について考察します。無神論者がルイスに対して投げかける疑問の一つに、神が愛であるなら、なぜ神は人間の不完全さや罪を許容なさらないのか、大目に見てくださらないのか、と言う疑問があったのでしょう。このような疑問にルイスは答えようとしているのだと思います。ルイスは人間同士の愛、特に異性のパートナーとの愛の特質によって神の愛を理解しようとします。人が本当にパートナーを愛そうとするなら、パートナーに完全を求めるのではないか、というのです。パートナーに完全を求めないと言うことは、その相手に対する愛もその程度だということです。そのような異性のパートナーに対する人間の愛と同じように、神は人を深く愛するがゆえに、人の罪を見過ごしにすることがおできにならないのではないかとルイスは説明します。そして多くの人々が神に対して抱いている誤解をも正します。人間のために神が存在しているのではなく、その逆であり、本来創造主なる神がご自身の愛を注ぐ対象として人間を創造されたのだということです。万物の主権者である神の存在を信じるということは、神が全てにおいて主導権を持つ方である方であると認めることになるはずです。
第四章の「人間の悪」では聖書の教える人間の罪について説明されています。ルイスによれば、20世紀の人々は、古代人と比較しても、人間の罪性の認識が希薄になっているとされます。古代の著作家であれば、エピクロスでさえも人間が永遠の刑罰を免れ得ない存在であると考えていたそうです。ところが20世紀の人類は、宗教や信仰において慈悲深さを過度に重視するようになりました。さらにフロイトに始まる精神分析の影響によって、厳格な羞恥心を持つことよりも、何かを抑圧することの方が精神衛生上良くないと多くの人々が考えるようにもなりました。そのような現代の思想的・宗教的傾向のゆえに、聖書が教える人間の罪や神の怒りなどを真剣に受け止めようとする人が少なくなっているとルイスは考えます。
そうした現代思想の流れに抵抗しながら、ルイスはむしろ人間の罪の問題に読者が意識を向けるように促します。人間は、人が本来善良であると考える傾向があります。ちょうどこの本が書かれた時期はロシア革命の衝撃が冷めやらぬ時代でした。英国においても社会主義や共産主義の影響が広がりを見せていました。社会主義者・共産主義者たちは、社会の構造的な悪が解決されれば、人間の罪によるとされてきた問題も解決されると考えていましたが、ルイスはそれが安易な考えであると釘を刺します。そして人間の罪とは、時間を超越する永遠の神の前で時間の経過によっても消え去るものではなく、罪はただイエス・キリストの十字架の犠牲と私たち自身の悔い改めによってしか解消されないと考えています。さらにルイスは、他の人もやっていることだからという理由で自分の悪を正当化することもできないと述べます。つまりルイスは、キリスト教会がその始めから2000年にわたって訴えてきた人間の罪についての伝統的な教えを、改めて1940年の英国人に訴えようとしたのでした。
ただ人間の罪についての聖書的・伝統的教理を説きながらも、彼はアングリカン(英国国教徒)でしたからカルヴァン派のような全的堕落の教理は受け入れません(81頁)。彼が全的堕落の教理を拒否する理由はユーモラスです。もし人間が完全に堕落していたら、自分の罪にさえ気づかないだろうというのです。そうかもしれません。そのように全的堕落の教理は退けながらも、ルイスは古くて新しい問題として人間の罪の問題を論じています。人は神に誘惑されて罪を犯したと主張することはできない。人間は全く自分の意志で罪深い行いをしてしまう存在である。そのようにキリスト教の伝統的な罪の教理を確認することによって、この世界に存在する痛みや苦しみを論じるための基礎固めをしているのでしょう。
第五章「人間の堕落」で、ルイスはキリスト教神学におけるアダムの堕落による全人類の堕落というテーマについて書いています。この世界に悪が存在する一つの理由は、キリスト教の教えによるなら、神が人間に自由意志をお与えになったからです。神はご自身が創造された人間に自由意志をお与えになったが、人間はこの自由意志を濫用してしまい、神に背き、堕落してしまったのでした。そのことによって、この世界に悪がもたらされた面がありました。旧約聖書創世記3章に記されている最初の人アダムの堕落です。ただルイスは、前章で人間の全的堕落の教理を否定したのと同じように、極端な原罪論も否定します。遠い祖先の最初の人アダムが罪を犯したために、必然的に全ての人が罰せられるという考え方にルイスは懐疑的であるようです(85-86頁)。ルイスは古代教父の著作をも読んでおり、教父たちが「私たちは『アダムにおいて』罪を犯した」と表現していることも知っていますが、この表現が厳密に何を意味するのかを規定することは困難であると述べます。ただ、全ての人間が罪人であるという聖書の教えの背後には、何か霊的な領域における事柄で、通常の理性的知識による理解を超えた事柄が関連しているとルイスは考えているのではないかと思います。
同時にルイスは、創世記2-3章におけるエデンの園の物語、即ち「善悪の知識の木」の実を最初の人アダムが食べ、それによって人は堕落したという物語を進化論と重ね合わせて説明します(98-99頁)。この説明はこの本の論述の中でも特に興味深い箇所です。ルイスはダーウィンの進化論も受け入れていたのでしょう。ですから彼は現代の一部のプロテスタントのように原理主義的に創世記2-3章を受け入れていたのではありませんでした。しかしその上で創世記2-3章の物語を人間の原初の歴史と体験に重ね合わせようとするのです。エデンの園の物語は、最初の人アダムとエヴァの実在を前提としなければ意味がないという訳ではない。ルイスはそう考えているようです。このように最初の人アダムの歴史的実在性を前提とせずに人間の罪を説明しようとする神学の流れは、近代神学の父であるシュライエルマッハーから始まったとされますが、ルイスの原罪の説明もそのような近代神学の流れに位置づけられるように思われます。
とはいえルイス自身はそれでも伝統的なキリスト教の原罪の教理を維持しようとしているのだと思います。アダムの堕落に関して彼が重視していることは、人間の最初の罪が神に対するものであったという点です。それは神なしで人が存在し生きていくことができるという誤った誇りと自惚れです。そのような誤った誇りと自惚れは、実は誰に教えられなくても、全ての人が生まれながらに持っている傾向です。無神論者は神など存在しないのだから、人がそのような自律的な考え方をすることは自然であって、罪などと表現するべきものではないと考えるのでしょう。けれども、神の存在を示唆する痕跡は自然界や人間存在のうちにも見出されるにも関わらず、多くの人々がそれらの痕跡を無視し続けるという現象が存在するとすれば、それもまた人が生まれながらに持つ傾向だと言えるのではないでしょうか。
従ってルイスは、原初の人々が神無しで生きていくことを選んだことによって、人は人間の本来の力や生命の源である方から切り離されてしまったと考えます。それが人間の堕落によって生じた最も深刻な結果であったと言うことなのでしょう。そしてそのような状態は、基本的には、その後の全ての人間を支配するようになったとルイスは考えるようです。
無神論者などが抱く疑問の中には、罪を犯した人間とその社会を、神はどうして放置されたのか、またどうしてご自身の奇跡的な力によってこの問題を初期の段階で解決されなかったのか、という疑問があると思います。ルイスはこの疑問についてこう説明します。
「神にはあるいは、この過程を奇跡によってとどめることがおできになったかもしれません。けれどもそれは—いささか不適切な隠喩ですが—神がこの世界を創造なさったときにご自身に設定なさった問題を退けるに等しかったでしょう。即ち、自由な行為者の住んでいる世界というドラマを通じて—その行為者の神に対する反逆にもかかわらず、いやむしろそれを手段として—神ご自身の善を実現されるという問題です。」(104頁)
つまり神は、人間が神にそむく自由さえもつ世界をお造りになり、それによって堕落した場合においてもなお、神の善を実現させるという壮大なご計画をお持ちであったのではないかというのです。このルイスの説明は、C. S. ルイスに批判的であったカール・バルトの予定論に関する主張を彷彿とさせるものがあります。
第六章の見出しは「人間の痛み」です。人間の堕落によって引き起こされている人間の経験する痛みが、同時に良いものを生み出す可能性があることを、ルイスはこれらの章で論じようとしています。例えば子供にとって親に願っても願いが叶えられないことは苦痛ですが、しかしそのような苦痛を経験することによって自制心や道徳心が養われて行きます。そのように苦痛は人間を「浄化」させる役割をも果たしていることをルイスは指摘します(116頁)。また人間による罪や過ちが存在する世界では、痛みを伴う刑罰が必要とされます。さらに復讐という行為も、それが全面的に悪ではないとルイスは述べます(120頁)。そのように語った上で、ルイスは、より崇高な生き方において、特に信仰者にとっては神への服従と自己放棄が時に苦痛をもたらす可能性があることについて論じます。この点で、ルイスは、道徳に関してアリストテレスが『ニコマコス倫理学』において展開したとされる主張、即ち有徳の人は自ら行う全てを楽しむことができるという主張ではなく、むしろイマヌエル・カントの主張、即ち不快を伴う有徳な行為が存在するという主張を支持していると言えます。そしてその代表的なケースとして、創世記22章でアブラハムが息子イサクを神に犠牲として捧げようとした出来事(130-31頁)、さらにイエス・キリストの十字架の死による自己放棄に言及するのです。最後に、多くの人々が年齢を重ね、苦労を重ねることによって、人格的な成熟へと導かれるという人の現実に目を向けるように促しながら第六章は締めくくられます。
第七章も「人間の痛み(つづき)」という見出しです。前章でルイスは、この世界において成熟や完成が苦痛なしではえられないと論じたのですが、この章の冒頭では、苦しみそれ自体は良いものではないことを認めます。ですからイエスが十字架の苦しみの前にそうされたように、私たちは苦しみや迫害を回避することができるなら、そのようにする自由も与えられています。
この章でルイスは6つの提言をしています。ルイスは、それらの提言を、人が犯してしまう罪の結果として経験する痛みや苦しみが、かえって人を悔い改めや回心に導く可能性があるという、やはりキリスト教の伝統的な教えを踏まえてこの章を書いているように思われます。神は苦しみや痛みを良いことのために用いることができるお方です。またそもそもイエス・キリストの十字架の死の苦しみによって人に救いをもたらすことを良しとされたということは、神の計画されている救いの完成のために、苦難や痛みは避けることができないものでもあると神は教えている。そのことをルイスはこの章で確認しているのでしょう。
第八章は「地獄」について論じられます。この章の最初に、ルイスは、自身が普遍救済を心から願うけれども、聖書はこれを支持している訳ではないことを認めます。ただそれはカルヴァン派の二重予定論に基づいてではなく、人間の自由意志に基づいてであると説明します。人がイエス・キリストによる神の救いを求める意志がなければ、それは与えられないということです。ではキリストによる救いを受け入れない魂は死後どうなるのでしょうか。伝統的キリスト教はそのような人々が地獄に行くと教えてきました。ルイスは、この地獄の教えもまた、多くの人々がキリスト教を拒否する理由の一つであることを正直に認めています。ただルイスは、伝統的にキリスト教が教えてきた地獄についての聖書的表象を可能な限り忠実に再現しながらも、彼自身としては、キリストの救いを拒否した者は死後「非存在」となるにすぎないと考えているようです(165頁)。地獄に関する聖書的表象は、人にキリストへの信仰を促す目的で語られたものだとルイスは考えているのでしょう。
第九章は「動物の痛み」について触れられています。(1)動物の痛みはどういうものか。(2)動物の痛みの起源は何か。そして(3)動物の痛みは神の義・救いと関係があるか。この三つの問いにルイスは答えようとします。(1)については、人は動物ではないので、実際にはわからないとしか言えません。(2)についてですが、伝統的にキリスト教では動物の痛みも人間の堕落と罪の結果であると考えられてきたものの、ルイスはこの伝統的な説明を退けます。なぜなら動物は人間の誕生以前に、恐らく現在と同じ生態を維持しながら存在してきたからです(174頁)。この点でも、ルイスの神学は、「聖書」と「伝統」と共に「理性」をも重んじるアングリカンの神学的伝統に立っていると言えます。ルイスは、むしろ人間を誘惑した悪魔の存在が、人間誕生以前の動物の世界にも影響を与えており、悪魔のような悪い霊的存在によって、動物に痛みや苦しみがもたらされたのであり、神が人間を創造された目的は、実は生物・動物の救済の使命をも与えておられたのではないかと考えているようです(177頁)。(3)の問い、即ち動物が人間のように永遠の命を受ける可能性があるかについて聖書は沈黙しています。それでもルイスは、キリスト教信仰が、動物も天国で永遠の命に預かる可能性を完全に排除している訳ではないと考えているようです。ルイス自身は、救われた者の死後の世界に、不死の人間と共に不死の動物が存在する可能性があることについて肯定的に考えています(182頁)。ただこの問題を神学において論じることには難しい面があります。それは伝統的な神学において永遠の命に至る救いは、罪の中にある人間がイエス・キリストの十字架の贖罪を信じることによって得られると教えられてきたからであって、神学的には動物の不死性もこのアナロジーによって理解せざるを得ないのですが、そもそも動物の痛みの現実とその起源について、人間は何も正確には知ることができません。また動物には自己認識というものが恐らくありません。ですから動物の不死や来世における動物の存在について、ルイスはあくまでも人間の救いとの関連性の中でのみ、その可能性を認めているに過ぎないということのようです。
最後の第十章では「天国」について語られています。「痛みの問題」をテーマにした著作で「天国」について語る理由は、新約聖書ローマ書8章18節のパウロの言葉にあります。パウロはそこで、人が地上で経験する苦しみは、やがて信仰者に現される栄光に比べれば取るに足らないと述べているからです。ルイスが思い描く天国のイメージは、死後、そこに集められる全ての存在が、キリストの体のごとく、完全な統合体をなすような社会、国、都市です(197頁)。それは地上では願っても決して実現されることのない一致と平和の存在する場所なのでしょう。そのような完全な統合体の原型は、三位一体の神のうちに、あるいは父なる神と御子イエス・キリストとの関係において存在しているのですが、死後において救いが完成された時、私たちもまた、三位一体を原型としつつ、神との完全な合一に到達するとされています。このように万物の一致と統合を天国の姿としてルイスが示していることには、アングリカンの神学と共に時代背景も関係していたのでしょう。この時代の英国では、キリスト教を信じない人々にとっては社会主義・共産主義に基づく社会の形成を目指すということが魅力的な選択肢の一つであったはずです。しかしルイスは、社会主義者や共産主義者が目指している理想的な世界は、神が天国において用意しておられる真に統合された世界に勝るものではないことを訴えようとしているかのように思われます。
以上、『痛みの問題』の内容をざっと見てきました。ルイスは、キリスト教信仰が太陽のようなものであって、自分はその光によってこの世界を見ているのだ、と説明したことがあるそうです。この太陽と光の喩えは、『痛みの問題』という本のアプローチの仕方にも当てはまるように思います。善であるはずの神が創造したとされる世界に、なぜ痛みや苦しみが存在するのか。その疑問に対して、万人が納得する解答を提示することは恐らく誰にもできないでしょう。ただルイスが試みたことは、そのような疑問に対するキリスト教の視点からの一つの答えを示そうとすることであったのだと思います。全ての人がルイスの示す答え、あるいはキリスト教が提示する答えを受け入れるとは限りませんが、けれどもキリスト教信仰は、そのような疑問に対する答えを持っていることをルイスは読者に訴えようとしたのではないでしょうか。
この本が1940年代のイギリスで歓迎された理由の一つは、恐らくルイスが、同時代のキリスト教信仰に対する思想的挑戦を意識しながら、なお福音を弁明しようとした点にあったように思います。この本は、マルクス主義の自然主義や唯物論的世界観を意識しながら書かれている面があります。またフロイトにはじまる精神分析学派の人間論に対して伝統的なキリスト教の罪の教えの妥当性を弁明しようとした面もあるでしょう。さらに恐らくルイスは、フリードリッヒ・ニーチェのユダヤ・キリスト教思想に対する痛烈な批判を意識しながら、イエス・キリストの十字架の意義を力説しようとした面もあったのではないでしょうか。ニーチェのことは明確には触れられていませんが、イエス・キリストの十字架の意義を説明するルイスの仕方には、何かニーチェのキリスト教批判が意識されているように感じられました。思想家の名前こそ出てきませんが、しかし20世紀前半の欧州の思想的潮流に敏感な知識人たちは、ルイスがそのような同時代の思想と対話しながらこれを書いていたことに気づいたのではないかと思います。
ただ、この本は、第二次世界大戦中のイギリス人の比較的多くの読者には歓迎されたのかも知れませんが、果たして21世紀の日本の読者に、この本が好意的に受け入れられるかどうか、という点については意見が分かれるかもしれません。
一つにはこの本は、人が経験する苦しみの問題を、あまりにも論理的に理性的に論じ過ぎているきらいがあるからです。同時にこの書物は、既に述べたように、神義論についての著作のようでありながら、神義論のテーマ全般を取り扱っている訳ではありません。そのことに物足りなさを感じる読者は少なくないことでしょう。これを書いている今も、パレスチナではイスラエルとハマスの戦闘が続いていますし、ウクライナ戦争の出口も見通せません。アメリカの威信の低下により、これからますます世界各地で紛争が発生しかねない状況です。同時に、気候変動と地球温暖化による自然界の異変は、やがて破局的な事態を招くのではないかという不気味さを感じさせる、そういう時代に私たちは生かされています。そのような深刻で危機的事態が解決困難な形で放置され、さらに悪化しつつあるような情勢が続くと、あるいは多くの人の心に、もし神が存在するなら、なぜこのような状況を放置されるのか。このような事態が放置されているということは、つまり神の不在の証拠ではないか。そう考えてしまう人も少なくないのかもしれません。残念ながら、この本は、そのような疑問に答えている本ではありません。
またこの本が、現代の日本人にあまりピンとこないとすれば、その理由の一つは、ルイスの著作を翻訳することの困難さに起因するのかも知れません。ルイスの著作の優れた英語的・文学的表現を翻訳することはただでさえ困難である上に、さりげなく使用されている単語が、しばしば古典的作品の特定の箇所への暗示であったり、著名な思想家や哲学者の概念を背景として使用されていたりするように思われるからです。そのようなルイスの教養の深さ・広さを、日本語訳は十分に捉え切れていない面があるような気がします。ですから日本語訳を読んでも、その文章の含意の半分も理解できていないのではないかともどかしく感じます。そういう面が克服されれば、あるいは21世紀の日本人にも、この本は依然として訴えかけるメッセージを持ち続ける内容を含んではいるのかもしれません。




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