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トーマス・ホッブス『リヴァイアサン』(一)・(二)、水田洋訳、岩波文庫、1992年



 かつて大学の卒業論文は17世紀のイギリス革命(内乱)に関するテーマで書きました。卒業後、一時私立高校で非常勤講師をしていましたが、当時は修士課程で17世紀イングランド史を研究したいと願っていました。そんなこともあってホッブスの『リヴァイアサン』第二部の途中まで読んでいたのですが挫折してしまいました。進路のことも結局初志貫徹することなく、出身教会の宣教師の勧めに従って、この先生が教えておられた神学校に進むことになりました。それ以来、神学、特に聖書学と教会史(キリスト教史)の本ばかりを読むようになり、読みかけていたホッブスは埃をかぶったままになりました。


 日本の神学校を卒業してから、1996-98年に教会史(キリスト教史)を学ぶために米国の神学校に留学し、帰国して4年ほど牧師として奉仕をしました。その時期と重なりますが2000-02年頃にウェストミンスター信仰基準の研究で知られる松谷好明先生との交流の機会が与えられ、先生が所属しておられた聖学院大学総合研究所の「ピューリタニズム研究会」の末席に連なることが許されました。当時は『ピューリタニズムの倫理思想』や人類の知的遺産シリーズ『バルト』の著者であられた大木英夫先生がご存命で、先生が研究会の合間になされるお話を興味深く拝聴しておりました。ホッブス研究者であられた田中浩先生が研究会に出席されたこともありました。質疑応答の時間に「僕はホッブスが好きだ」と言われた先生の張りのある声が今も耳に響いています。一人の思想家を研究対象とするということには色々なケースがあるかとは思いますが、本当に良い研究をするために、その思想家に惚れ込む必要があるのかもしれない。何かそういうインスピレーションを与えられたのでした。この研究会に参加していた頃、やはり『リヴァイアサン』に取り組まなければと思ったのですが、その後二回目の米国留学で新約聖書を学び、さらに英国では殉教者ユスティノスを研究することになりました。ですからまたしても岩波文庫のホッブスは本棚に置かれたままになっておりました。


 もう一度挑戦しようと思ったきっかけは、昨年末にインターネットの番組を視聴したからです。その番組では『リヴァイアサン』の肝が説明されていました。近代社会はなぜ暴力装置を国家のみに帰属させることにしたのか。なぜ自力救済(報復)を国民に放棄させる選択をしたのか。高校の社会科レヴェルでは、自然状態が不断の闘争であり、その無秩序を終わらせ、秩序を導入するために、相互に契約を結び、主権者に刑事罰などを下す権力を委ねることにした。そのような説明に留まっていました。しかしそのような近代的秩序をつくることによって、ホッブスが何を目指していたのかについては高校では教えられていません。ホッブスが目指したのは、国家権力によって報復権が独占されることにより、その社会に属する個人と個人が、相互に自由に契約を結ぶことができるようにすることであるとのことでした。つまり個人が自由に結婚し、自由に私有財産を活用し、自由に職業を選択することができる、そのような社会であるために、社会契約に基づいて設立される主権国家が必要なのです。また近代的な意味での「個人の自由を尊重すること」と「報復しないこと」とは不可分である訳です。それを聞いて、今度こそ『リヴァイアサン』を通読しなければと思うようになったのでした。


 トーマス・ホッブスは、中世的世界観やスコラ哲学が乗り越えられ、近代科学や近代哲学が興隆しつつある17世紀という時代に生きることになりました。17世紀イングランドは二度の政治革命を経験しました。1640年代のイングランドの革命は、近年の左派イデオロギーの後退も相俟って、現在では「内乱/内戦」と表現されることが多いのではないかと思います。けれどもホッブスやミルトンやロックのような思想家が、なぜピューリタン革命/内乱とそれ以後の時代に相次いで登場したのでしょうか。それは「内乱/内戦」という説明だけでは表現しきれない変化が、この出来事と共に進行していたことを示しているように思われます。イギリス革命を経験した後のイングランド社会は、もはや1640年以前とは異なる社会となっていた面があったはずです。その変質が何であったのかを知るためにも『リヴァイアサン』は必読書です。


 今回は『リヴァイアサン』の第一部と第二部を紹介します。


 ホッブスは、恐らく王党派であると見なされていたために、内乱の時期に大陸に亡命していましたが(1640-52年)、その時期にデカルトと接触があったからなのでしょう。『リヴァイアサン』の第一部にはデカルト哲学の影響が認められます。第一部はスコラ学の人間論を批判しつつ、人間の意志が情念の影響をも受けるものであり、常に理性的な選択や判断をする訳ではないという事実を見据えながら、より現実的な人間論に基づく国家(コモンウェルス)設立の道筋を示そうとします。


 第一部・第十三章では「人類の至福と悲惨に関する彼らの自然状態」が議論されます。この章では、ホッブスの「自然状態」に関する有名な議論が展開されます。ホッブスは、自然(あるいは神)が人を平等に造ったと述べ、人間存在の本源的な平等を認めます。ただホッブスが人間の平等を認める仕方はシニカルです。なぜ人は平等なのか。実際には人にはそれぞれ能力に違いがあります。けれども全ての人は自分の持っている能力を基準に生きており、能力の劣った人も、自分に勝る能力を持つ人の能力を客観的に認めることはしないからだと言うのです。ですからホッブスの「平等」は、個人の自己中心性を前提にする平等です。そのように人々の能力に差異がありながら、個々人が平等を前提として生きている状況において、仮に二人の人が同じ希望を持ったとしても、一方はその希望を獲得し、他方はその希望を獲得することができずに終わってしまう現象が生じることになる。ホッブスはそのように推定します。それによって人間の平等(或いは自己中心性)は平和ではなく、むしろ不信と闘争を招くと推論するのです。その結果として支配と服従の関係が発生し、より多くの人々を支配下に置こうとする征服がなされる、つまり戦争(個人と個人との闘争)が発生するとされます。従って闘争に傾き易い人々を威圧する共通の権力なしには、人々は「戦争状態」に置かれることになるとホッブスは断定します。無論、自然状態における戦争状態は、恒常的な戦争状態ではなく、それは天候に喩えられ、時折雨や豪雨に見舞われるように、戦争も恒常的に発生するものではないと断ります。ただそれでも、この戦争状態においては、正義と不正の区別はなく、力と欺瞞が支配するとされるのです。


 この「自然状態」に関するホッブスの議論は、ジョン・ロックの『市民政府論』とよく比較されます。少なくとも「自然状態(戦争状態)」に関する議論に関して言えば、ホッブスの方が正統的キリスト教神学の人間論に基づいて思索をしていると言えます。ロックの人間論の方が、人間の本性に関して楽観的で肯定的です。ですからホッブスという人は、簡単に「無神論者」であったとは言い切れない、神学的には陰影のある人物だと思います。


 第十四章には「第一と第二の自然法、および契約について」と言う表題が付けられています。ホッブスは全ての人間が自然権を保有していると認めます。自然権とは人間が自分の判断力と理性によって自分の生存にとって最適の手段を講じる自由(権利)であるとされます。これに対して第一の自然法は、理性によって発見された一般法則です。ホッブスは権利と法を対立するものとして理解します。なぜなら法は人の自由(権利)を拘束するからです。恐らく、自然状態にある人間が権利を保持するとともに、第一の自然法を認識する存在として措定するところに、ホッブスが政治権力の問題を考える出発点があると思います。そこには伝統や宗教などによって規定されるヒエラルキーや、それらが付与する特権などが介在する余地はありません。このような個人の自然権と個人が認識する自然法の措定から出発するということの中に、ホッブスの政治思想の近代性が示されていると思います。ただホッブスは第一の自然法に、第二の自然法を加えます。第二の自然法とは、「自分のして欲しくないことを他人にしてはならない」という、イエス・キリストも教えた黄金律です。この自然法は、人が自然権を際限なく行使することを抑制し、むしろある事柄に関しては自由(権利)を放棄するように促す法でもあります。しかし第二の自然法を臣民が履行し、社会のために自然権を抑制・放棄するためには、臣民の上に立つ権力者による威圧が必要であるとホッブスは考えます。それでホッブスはそのような権力を保持する主権者の設立方法を提案するのです。


 それは一言で言えば、第十八章で議論されることですが、信約(Covenant)に基づく主権者の(法的)人格の確立です。人(臣民)は自分の全ての権利を放棄したり譲渡したりすることはできない存在なのですが、しかしそれでも人は契約(Contract)に基づいて相互に権利を譲渡することが可能です。さらに契約を締結した人物が、権利を譲渡し、その譲渡した相手がなすべきことを履行するまで長期間放置し、相手を信頼するということもありえます。このような長期間に及ぶ契約をホッブスは信約(Covenant)と呼びます。つまり個人の自然権を、一定期間、恒常的に他者に譲渡し、その権利の行使を他者に委ねるということが信約によって可能とされるのです。この信約に基づく個人の自然権の譲渡こそが、主権国家の権力の根拠であるとされるのです。ホッブスは、これによって人の自然権に基づく報復権(生存を脅かされる被害を受けた場合、同等の報復をする自然の権利)を、一定期間、他者に譲渡することのできる可能性があること、譲渡された他者が、その権利を必ずしも使用しなくても、譲渡された状態を維持することができることを示そうとしているのでしょう。そしてこのような信約(Covenant)の締結こそが、近代的な国家権力による、自然権として人に与えられている報復権の独占を可能とする根拠となりうるとホッブスは考えているのではないでしょうか。


 このようにホッブスは、個人の自然権から出発して、信約(Covenant)という法的手続きに基づいて人の自然権を国家に譲渡することによって国家権力は確立され、正当な国家権力の行使は可能となると説明しました。この思考の枠組みには、先ほども述べたように「考える自己」を哲学的思索の出発点に置いたデカルト哲学の影響を認めることができます。ただ同時に、ホッブスが信約(Covenant)に基づく自然権の国家への移譲ということを考える上では、同時代のピューリタンの契約神学も影響を与えているように思われます。というよりもホッブスとしては、内乱時代の王党派も(ピューリタンのいる)議会派も、そして場合によっては議会外の急進派ピューリタンたちも共有できる共通のプラットフォームをイングランド政治の世界に導入しようとして、敢えてラディカルな契約概念に基づく正当性の理論を確立しようとしたのではないでしょうか。


 この章でのホッブスの主張のうちで、もっとも重要なのは、個人の同意に基づく権利の譲渡を規定していることではないでしょうか。実は、日本の社会で近代憲法が形式的に定められていながら、人権の侵害が容易に起きてしまう最大の原因は、この個人の同意に基づいて、個人の権利を主権者に移譲していると言うプロセスの重要性が広く認識されておらず、伝統的慣習や効率性などを理由に、あるいは上位権者が自分の権力や既得権を守るために、個人の同意が適切になされるプロセスが省略されて、結果的に権力を持つ側の人間が、個人の明確な同意の確認をせずに、個人の権利を奪ってしまうと言うことが頻繁に起きてしまっているという現実にあります。しかしホッブスは、そのような国家権力の行使は、コモンウェルスの信約に反するものであり不正であると主張したわけです。この主張を突き詰めれば、信約によって譲渡されていない権力を不正に使った主権者を、その不正が著しく大きい場合に、臣民は排除することができることになると思います。


 続く第二部・第十七章では、自然状態において第二の自然法(人が自分にしてもらいたいことを他人にすること)が人々によって遵守されることは期待できないため、コモンウェルスの存在が必要とされると改めて論じられます。ホッブスによれば、コモンウェルスの形態は、一個人(国王)が代表する可能性と合議体(議会)が人格として信約を体現する可能性の両方が想定されます。ですからホッブスは、内乱期の王党派と議会派の両方の勢力双方に主権者となる可能性を認めていたことになります(ホッブスが『リヴァイアサン』を出版したのが1651年であり、イングランドに帰国したのが1652年であったというタイミングも関係するのかもしれません)。そしてコモンウェルスの生成には獲得によるものと、設立によるものとがあるとされます。もちろんホッブスが支持していたのは設立によるコモンウェルスです。


 従って第十八章では、まず設立によるコモンウェルスが論じられます。ホッブスによれば、コモンウェルスは群衆が信約(Covenant)を結ぶことによって、彼らを代表する人格を、個人(国王)あるいは合議体(議会)に与えることであると主張しました(2:36頁)。これは国家や政府の正当性に関して近代的な国家観に道を開く重要な主張です。ホッブスは、政治体制をどのように定めるにせよ、それは国民相互の契約が存在することが正当な政府の根拠であるとしたのでした。所謂社会契約思想です。この思想は、その後ジョン・ロック、ジャン・ジャック・ルソーに受け継がれ、ジョン・ロールスなどに至る近代政治思想の一つの重要な系譜の起源となるものでした。国民の総体としての意志が表明された信約の締結(例えば選挙で選出された議会による憲法の制定のような行為)が国家の正当性の根拠であるとする思想は、それまで国王が、教会の聖職者の執行する即位儀礼の宗教的効力に王権の正当性を認めたりするのとは異質の、純粋に法的な原理に基づくものでした。ホッブスは、ピューリタンの影響の大きかったイングランド議会が、国王を処刑したことに賛同した訳ではありませんし、ホッブスが抵抗権を認めていたかどうかは議論が分かれるそうですが、しかしホッブスのこの議論は、例えば1688年に起きた名誉革命にも暗黙の支持を与えることになりうる議論のように思われます。なぜならもしジェームズ2世が国民の自然権を侵害しかねないと見なされれば、あるいは信約に基づかない権力を行使していたと認識されれば、自然状態に回帰してしまうことを予防的に回避するために、議会の圧力によってジェームズ2世を廃位させ、イングランド国民の自然権を尊重する国王を即位させるという選択も、ホッブスの論理によるなら正当性を有すると解釈できるからです。


 第二十一章は「臣民の自由について」論じています。ホッブスによれば、コモンウェルスを設立するとは、人工の人間(法的人格)を作ることであり、コモンウェルスを設立した臣民は、コモンウェルスの主権者(法的人格)が定める市民法という枷を引き受けなければならないとされます。しかしそれでもホッブスは臣民の自由が主権者の支配と両立すると考えます。臣民は自らに害を加えられることから自分を守る自由を持っているのであり、従って臣民は裁判などにおいて黙秘する自由を有すると主張します(2:96頁)。この章におけるホッブスの主張のうち、最も重要であると思われるのは、主権者が法を定めていない事柄に関して臣民は自由を有するという主張です。封建的・家父長制的支配においては、従属的な立場の者に対して上位者がしばしば無制限の拘束力を持つことが認められるように思われますが、ホッブスの考える主権国家における臣民は、実定法・慣習法・判例の拘束を受けない事柄に関しては自由があるとされます(2:98-99頁)。


 第二十六章の「市民法について」において、ホッブスは、主権者によって制定された実定法が「市民法」であり、書かれていない法が「自然法」であると一応区別します。しかし「市民法」とは、臣民が自然権の一部を主権者に信約に基づいて委ねた権限に基づいて定められているものです。ホッブスの理解において、元来自然権を制限するものである「自然法」と、自然権の譲渡を受けた主権者によって自然権を制限するために定められた「市民法」とは相互に排除・否定するものではありません。


 このホッブスの「市民法」と「自然法」の区分と連続性に関する議論は、日本のように非西欧の法的伝統が残る社会における近代法の確立を考える上で重要なことであるように思われます。なぜなら日本の社会では、書かれていない伝統や慣習法と、欧米から移植された実定法との間に、しばしば矛盾や齟齬が生じてしまう傾向があるからです。このような矛盾や齟齬が、日本における近代社会の成熟を妨げている要因の一つであるように思われます。ですから、この実定法と慣習法(不文律)の統合を目指す努力が日本における成熟した近代社会形成の鍵であるのではないでしょうか。そのために必要なことは、日本における慣習法を「可視化」すること、つまり「文書化」することであると思われます。そのような具体的な努力の積み重ねが、日本における近代社会の成熟を実現する道なのではないでしょうか。


 恐らくこの問題に関連する課題は17世紀のイングランドにおいても存在したのでしょう。この章で、ホッブスは法哲学的な事柄よりはむしろ立法や司法制度の事柄に関して具体的な提案を行なっています。例えば主権者の制定する法令には、必ずその条文が主権者によって定められたものであることが、文書の上で明示されなければならないとされます。それは次の章などにも論じられることですが、犯罪が正しく処罰されるためには、主権者によって定められた実定法が臣民に常に明示されていなければならないからです。さらに、市民法の解釈者も主権者でなければならいと定めており、裁判制度を担う裁判官も主権者権力を構成する存在でなければならないことが明言されます。これは、例えば中世以来、西欧では世俗国家とは別にキリスト教会が法的な影響力を維持していたからなのでしょう。そして教会の司法権力者が世俗国家の司法に介在してしまうことの弊害を、ホッブスは洞察していたのだと思います。この主張もホッブスの思想の近代性を示す点の一つであると言えるのではないでしょうか。


 第二十七章は「犯罪、免罪、及び軽減について」です。この章で、ホッブスは、法学における「罪刑法定主義」を支持しており、「市民法」なしに犯罪は存在しないと主張します。これもホッブスの思想の近代性を示す特徴です。そしてホッブスの主張からは、社会契約思想と「罪刑法定主義」とは本来セットである、あるいはセットであることが望ましいことがわかります。つまりホッブスは、主権者が実定法の根拠なしに恣意的に人を有罪としてしまう専制的権力に反対しているのです。この点で、ホッブスは、内乱時代に国王チャールズ1世が議会内の抵抗勢力であった5名の議員を恣意的に逮捕した事件を念頭に、かつての議会派の主張をも自説の中に取り入れているように思われます。ホッブスは、スチュアート王朝を支持しながらも、国王の専制的な権力の行使に対しては厳しい目を向けていたはずです。そしてこのような主張を行うホッブスは、例えば戦前の治安維持法や現在の中華人民共和国におけるスパイ関連法の不透明さに対しても批判を向けるものと思われます。


 第三十章は「主権的代表の職務について」です。そしてこの章の中に、冒頭に紹介した『リヴァイアサン』の肝に当たる内容が議論されている箇所があります。

 

「さらに、各主権者は、正義が教えられるようにすべきである。それは(誰からも彼のものを取られないことにある)、言い換えるならばちょうど、人々が暴力または詐欺によって、彼らの隣人たちから、主権者の権威によって後者のものであるものを奪ってはならないことを、教えられるようにすることである。所有権によって保持されるもののうちで、人々にとって最も大切なものは、彼自身の生命と手足であり、その次には(たいていの人々において)夫婦の愛情に関するものであり、それらの後に、彼らの財産と生活手段である。従って、人民は、私的復讐によるお互いの身柄への暴行、夫婦の貞操の蹂躙、及び、お互いの財貨の力ずくの掠奪や詐欺による横領を、差し控えるように教えられるべきである。」(2:267-68頁)

 

ホッブスは主権者の職務の中心が、個人の身体的自由や所有権の保護に置かれなければならないという点を強調しているのだと思います。このような職務を果たす主権者を立てることこそが、信約に基づくコモンウェルス設立の目的であると言えるのでしょう。


 加えてホッブスの第三十章の主張において傾聴すべき点は、主権者の職務が教育によって臣民に伝達されなければならず、そのために大学のような機関が果たすべき役割が重要だとされている点です。なぜ主権者の職務が周知徹底されなければならないかと言えば、臣民が主権者の職務を正しく知らなければ、主権者の怠慢や職権の濫用・逸脱を抑制できなくなってしまうからです。良い主権国家の確立のためには良い公民科(社会科)教育が不可欠なのだと思います。


 第一部と第二部を通読した感想として、ホッブスという人は、激しい党派対立の時代に生きたせいだと思いますが、非常に繊細かつ賢明な仕方で革新的な政治理論を提示したのではないかと感じます。なぜならホッブスの『リヴァイアサン』は、国民を「臣民」と称するなど、一見イングランド王政の伝統を擁護しているようでありながら、封建的王政の正当性を支えた宗教的理念については沈黙する一方で、それとは全く異質な主権国家の正当性の論理を明快に論じたからです。その革新性は、聖書や神学を無視している訳ではないにもかかわらず、純粋に法的に国家権力の正当性の根拠を示そうとした点に表れています。現代の政治学者にとってはホッブスの自然法思想に関わる記述などはもはや受容出来ないこととは思います。それでもこの本に散りばめられている警句の数々は現代日本の政治を考える上でも重要な示唆を与えるものです。17世紀の著作が現代政治にも示唆を与えることができるということは、とりも直さずホッブスの政治学的分析の客観性を示す特徴であると言えます。内乱期に同じ王党派の陣営に属していると思っていたホッブスの仲間たちは、後にホッブスの書いた『リヴァイアサン』を読んで、その思想の革新性に度肝を抜かれたことだろうと思いますし、この著作によってホッブスはきっと多くの敵をも作ることになったことでしょう。風景を一変させるほどの力を持つ書物というのは、まさに『リヴァイアサン』のような書物であるような気がします。


 ホッブスが『リヴァイアサン』で提案したような主権国家の設立を、キリスト者はどう考えるべきなのでしょうか。私は、キリスト者も、社会契約説に基づく国家の設立という理念や試みを支持することはできると思います。その聖書的な根拠としては、ホッブスも『リヴァイアサン』第一部・第十二章で言及していましたが、旧約聖書の第一サムエル8章を上げることができます。それまで部族連合国家であったと思われる古代イスラエルに、神は民の要望を条件付きで受け入れるようにサムエルに促したエピソードです。つまり神は古代イスラエル国家の政治体制について、部族連合でなければならないとはお考えにならず、民が負担の増大に同意した上でなら王政を設立することも承認されたのでした。これは社会契約に基づく主権者の選任・設立に類似しています。またホッブスの信約に基づくコモンウェルス設立という発想の起源は旧約聖書の父祖たちとの契約・シナイ契約にもあります。近代国家において神と一民族との契約を国家設立の根拠とすることはもはやありませんが、しかしそれに類似した国民相互の信約を国家設立の法的基盤とするという考え方をキリスト教徒も受け入れることはできると思います。特に神とイスラエル民族との間の契約締結の際、イスラエル民族が遵守すべき法律を神が明確に契約文書で提示していたというエピソードは、信約に基づく自然権の譲渡において、どのような権利が譲渡されるかを明示すること、また主権者が犯罪とみなす事柄が、主権者だけではなく臣民にも明示されなければならないという原則などの内に、共通点を見出すことができるはずです。


 とはいえ信約に基づく自然権の国家権力への譲渡という考え方の核心部分には、キリスト教信仰とは相容れない要素が含まれることも認めなければなりません。ホッブスにとっての自然権とは個人の生存権です。生存を脅かされかねない状況に置かれた時に、人は自らの生存権を守るために他者の権利を侵害してでも戦う権利がある。これがホッブスの考える自然権だと思います。けれどもキリスト教信仰においては全ての命の源であり生命を司る神が存在されると信じます。個人の地上における生命に関する権利は、信仰によるなら、個人だけが占有するものではなく、個人の生命は究極的には神の御手の中にあります(だからと言って教会のような存在が、神の代理と自称して個人の権利に不当に介入することが許される訳ではありません)。また生存しようとする一個人も、神の前に尊厳ある存在であると同時に罪深い存在でもあります。キリスト者は、ホッブスの考える自然権(人権)については基本的な意義を認めなければならないと思いますが、一方でホッブスの考える自然権の行使が神の御心に叶うものであるかどうかについては信仰上の省察も必要とされる事柄だと思います。


 もう一つ付け加えるなら、確かにホッブスの社会契約説は国民主権に道を開くことになり、近代的な政治体制への最初の一歩へと踏み出したものではあるとは思います。けれども現実には国家権力の正当性の根拠を国民の総意と信託のみに還元することはもとより不可能です。なぜなら政治権力とは軍事力や警察権力などの暴力装置という恐怖を背景に存立するものだからです。現実の政治においては暴力装置の独占なしに主権者としての地位を確立することはできません。また政治的な支配(政りごと)は常に宗教(祭りごと)と関連し続けるものであることからも言えるように、政治権力には常に宗教性がつきまといます。ですから人が地上の権力に服従するということの背後には、単に法的・経済的理由だけには止まらない側面があります。そうであれば自然権の信約に基づく信託という手続だけが国家権力の正当性を常に保証する訳ではない現実も受け入れなければなりません。


 それでも私は、日本のキリスト者やキリスト教会が、日本において、社会契約思想に基づく近代国家と近代社会の形成に参与すべきだと思います。それは何よりも、現在の日本という国でキリスト教会に信仰の自由が与えられているのは、現在の日本国憲法に基づく(法的人格としての)主権者が、日本のキリスト教会に信仰の自由を与えているからであり、そのような恩恵に浴している日本のキリスト教会は、日本国憲法下での法的人格として確立された主権者に忠誠を尽くす道義的義務を負っているからです。


 近代的憲法に基礎を置く近代国家であるはずの日本という国にキリスト教会が存在する以上、日本のキリスト教会も近代社会のルールを受け入れなければならないと私は信じます。当たり前のことですが、キリスト教会は基本的人権(身体的自由、私有財産権など)を侵害してはなりません。もし個人の権利に帰属する事柄を、信仰上の理由でキリスト教会の便宜のために用いるように求める場合は、当該権者の同意が必ず必要です。キリスト教団体が、関係者に基本的人権に関わる事柄で個人の自由を制限する場合にも、個人の同意が必ず必要です。キリスト教団体が、その団体に、キリスト者をメンバーとして受け入れるにあたって、その団体がメンバーに対して基本的な人権の制限をする規約を保持している場合には、その団体に加入する前に、そのような規約上の制限があることを加入予定者に必ず告知し、加入予定者からの同意を必ず得なければなりません。しかし現実には、キリスト教界で、信仰などを悪しき口実にして、人権侵害を許容するかのような発言がなされたり、人権侵害を生じさせる慣行、あるいは生じる危険性のある慣行が放置されたりしている実態があります。これは極めて憂慮すべきことだと思います。


 キリスト者は、一方で日本国憲法の保障する思想信条の自由や集会結社の自由によって恩恵を受けているのですから、日本国憲法に基づく主権者(法的人格)に対して忠誠を尽くす義務を負っているはずです。法的人格で見えない存在だからといって、この法的人格としての主権者の存在を蔑ろにしてはなりません。それにもかかわらず、キリスト教界の中に存在する人権侵害を許容する人々は、「日本国憲法に基づく主権国家」の定めている事柄の中で、自分達にとって都合の良いことだけは受け入れておいて、自分達に都合の悪い事柄は無視しているのです。彼らはこの国の「設立された主権者」という最高の法的人格に対する忠誠や不誠実について鈍感な人々であると言わなければなりません。そしてこのような人々は、しばしば隠れた所で報復を行うことによって、「自分で復讐してはなりません」(新約聖書ローマ信徒への手紙12:19)と教えるパウロの言葉を平然と無視するのです。


『近代市民社会の成立』(東京大学出版会)という本で、西洋史学者であった成瀬治は、ホッブスの『リヴァイアサン』を政治的リベラル派の伝統における近代政治思想の嚆矢と位置付けています。私もそうだと思います。そして日本人が成熟した近代社会の形成を目指すためには、まずホッブスを読まなければならないと思います。なぜなら17世紀イングランドにおいてホッブスが提起した課題の幾つかが、この国ではまだ達成されていないからです。ホッブスの主張したことが、日本人全体の共通理解となるまで『リヴァイアサン』を社会に浸透させる努力を続ける必要があるのではないでしょうか。


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