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坂口ふみ『〈個〉の誕生: キリスト教教理を作った人々』岩波現代文庫、2023 [初版1996]年


 今回紹介する『〈個〉の誕生』は古代教父学・古代キリスト教教理史の分野で優れた貢献をされたと評価されている本です。微に入り細を穿つことの多い古代キリスト教教理史は、思想や神学に関心のある者であっても、使われている用語の難解さや、それを使用している神学者たちのニュアンスの微妙な違いが瑣末に見えることなどから、その経緯を理解することは踏破困難な山道を行くようにさえ感じられるものです。しかし著者はニカイア公会議から第二回コンスタンティノープル公会議までの三位一体論争・キリスト論論争を叙述しながら、不毛とさえ映る教理論争史の現代的意味を読み解いて行きます。


 この本について、著者は、和魂と洋魂の相剋というテーマを扱っていると説明し、「あとがき」では、この本を西欧思想の「胎内めぐり」であると同時に、現代日本の個の尊重の「胎内めぐり」でもあると語っておられます(395頁)。この「胎内めぐり」という表現の中に、著者の執筆の意図が込められているのではないでしょうか。好むと好まざるとにかかわらず、現代の日本人は、第二次世界大戦の敗戦以降、現行憲法のもとで個の尊重という西欧的な価値を受け入れるようになっている面があるからです。もちろんそのような思想が本来の日本人の在り方とは相容れないと考える方も依然として根強くおられることでしょう。伝統的な慣習の残る地域では、個を重視する人は今も少数派かもしれません。それでも西欧に起源を持つ、「個」を重視する思想は、現在のこの国にも一定の影響を与えていると思います。その起源はどこに求められるのかという問いに関心を持つ日本人もおられることでしょう。


 本書は、ニカイア公会議から第二回コンスタンティノープル公会議に至る、三位一体論論争及びキリスト論論争における鍵概念、「ウーシア(エッセンティア)」「ヒュポスタシス(ペルソナ)」「フュシス(ナトゥーラ)」の三つの用語に注目します。そして論争に参画していた4-6世紀の教父たちが、ギリシャ哲学の存在論に関わるこれらの語句の概念によって、いかにして神の三一性、そしてキリストの神性と人性を規定するかを巡って、どのような提案をしてきたのか、また彼らの所説の内、どのような説が異端として排斥されたのかを解説します。その論争史の締め括りに、東方のネオ・カルケドニストであった二人のレオンティウスの所説を取り上げます。特に彼らが「フュシス」と「ヒュポスタシス」の概念を明確に区別することによって(つまりフュシスに代表される「普遍的本性」からヒュポスタシスによって示唆される「個的純粋存在性」を切り離すことによって)、教理上の誤謬を回避する道を拓いたことの意義を重視し、新プラトン主義者のプロティノスの提案した個のイデアという見解の影響も相俟って、ギリシャ哲学の伝統においては存在しなかった「ヒュポスタシス(ペルソナ)」を軸とする新しい人格概念が誕生したと主張します。類似の人格概念は、西方ではアウグスティヌスの『三位一体論』においても、異なるアプローチによって光が当てられていたのですが、アウグスティヌスの場合、個人の心の内奥に沈潜する傾向があったのに対して、東方教父の人格概念は、他者の存在との関わりをより明確に意識していたのではないかと指摘します(四章)。


 恐らく著者が東方正教会の二人のレオンティウス(エルサレムのレオンティウスとビザンティウムのレオンティウス)に注目するようになったのは、アドルフ・フォン・ハルナックの『教義史』における「ビザンティウムのレオンティウスが最初の正統的神学者である」との言明に導かれていた面もあったのではないでしょうか。二人のレオンティウスは、キリスト論的な思索の過程で、存在の核心を「ヒュポスタシス(ペルソナ)」に求め、付帯的なもの、動的なもの、それまでのギリシャ哲学者たちが本質的ではないと顧みなかった事柄に意味を見出すようになりました。そのことの重要性を著者は明らかにしようとしているのだと思います。そして著者は二人のレオンティウスの言葉の中に、20世紀以降の哲学者たち、あるいは近代哲学にあっては傍流とされた哲学者たちの主張と共鳴する響きを聞き取っており、このようなビザンツ神学の中に生まれた個の概念を回復することが、個の自由を追求してきた西欧近代の行き詰まりを克服する鍵であると考えておられるようです(五章)。


 正直に言えば、今回、一度通読しただけなので、まだ著者の議論をフォローし切れていない部分はかなり多くあります。また私はプロテスタントだからと言うこともありますが、今も西欧思想史上の「個」の思想の起源を考える場合、やはり宗教改革者マルティン・ルターが、ヴォルムス帝国議会において神聖ローマ皇帝の前で自説の撤回を拒否し、思想信条の自由を貫いた姿勢に、近代的な意味での個の誕生の契機を見出すことができるような気がします。しかし著者は、むしろ東方教父たちによって形成された人格概念が、後の西欧における個の発展を概念の上で準備しただけでなく、現代的課題を克服する道も秘められていると示唆しているようです。とはいえ古代教父の著作を学ぼうとしている者としては、この本には励まされる面があります。なぜなら一般にはこれまで顧みられることの少なかった4-6世紀の古代教父文書の中に、現代人にも響くメッセージが含まれている可能性があることを示しているからです。


 この本を読んで、私が最も印象に残ったことは、「個」の基盤となる概念が、キリスト論の探究の結果として形成されたのではないかという説明です。これは多くの日本人が感じる素朴な疑問に対する、キリスト教からの一つの応答の可能性を示していると思います。キリスト教は、なぜイエス・キリストによってしか救いが得られないと教えるのか。多くの日本人はそういう疑問を持っているのではないでしょうか。キリスト教に触れることの少ない日本人を救いから除外してしまうようなこの立場は、日本人のような異教徒に対しては圧倒的に不公平である。そう感じられる方も少なからずおられることでしょう。これは確かに非常に強力なキリスト教批判の一つだと思います。


 ただ、この本が私たちに教えていることは、なぜキリスト教がイエス・キリストによって救いが得られると教えるのか、その疑問を解決することはないとしても、これに応答する面があると思います。キリスト教の救いには、人が本来、神によって創造された時に与えられていたが、罪によって棄損されてしまった「神の似姿・かたち」を回復するという面があります。その回復の道は、イエス・キリストによって明確に示されるようになったとキリスト教徒は信じます。古代教父たちは、そのイエス・キリストが、神であり、かつ人であるということを、ギリシャ語の存在論的言語・概念を駆使して、いかに正確に表現するのかという困難な作業に取り組みました。その過程で、古代のキリスト教哲学者たちは、ギリシャ哲学においては認識されていなかった個としての人間存在の固有の価値や意味を表現する言語を獲得して行ったことをこの本は明らかにしています。ギリシャ哲学は普遍に関心を寄せる傾向にあり、人間とは何かという問いに対しても、「個」の特性ではなく、人間の普遍的な特性に関心を偏らせる傾向にあるとされます(312頁)。仮に西欧の伝統が、そのようなギリシャ哲学の伝統のみであったとすれば、西欧的な個の思想は生まれえなかったのかもしれません。しかしギリシャ哲学とキリスト教神学とが融合した結果、特にイエス・キリストという固有の存在、歴史上一人しか存在しなかった、神であり人であるという存在を、哲学的に言語化するという(およそ不可能な)努力を通じて、キリスト教哲学者や教父たちは、個としての人間の尊厳を支える基盤をも確立することになったのでした。だから「個の誕生」は、キリスト論の神学的・哲学的探究の副産物ということになります。この探究に従事していた教父たちは、一方で旧約の創造記事、知恵文学、新約の福音書、使徒たちの手紙の読解と解釈を続けながら、他方ギリシャ哲学の存在論に関わる用語を正確に用いてキリストの存在を説明しようとしていたのでした。聖書を通してイエス・キリストを知ろうとしていた彼らは、結果的に個としての全ての人間の尊厳を裏付ける言語を獲得することができたのだと思います。そのような言語・概念を生み出したことは、人間が人間らしく幸福に生きる上で有益であり続けると思います。新約聖書には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブライ人への手紙12章2節)という勧めがありますが、古代教父たちは、この勧めを実践する中で、西欧的な個の基盤を確立して行ったのかもしれません。人種、国籍、ジェンダー、障害の有無などを問わず、全ての人に固有の価値を見出し、全ての隣人に平等な愛の実践を促すことは、西欧に発する思想の一部だと思います。そのような理念は、この本が示そうとしているように、イエス・キリストの存在論的探究に淵源を求められるのかもしれません。そうだからと言って、それでキリスト教の救済論を全て弁明できる訳ではないとは思いますが、なぜイエス・キリストによる救いをキリスト教は教え続けるのかという疑問に対して、一つの応答にはなるような気がします。


 一方この本の中で、印象的ではありながら、著者の見解とは少し違うと感じた箇所もありました。それは東方正教会と西方教会の三位一体論の相違に言及している箇所です。東方正教会と西方教会の三位一体論の相違は、フィリオ・クエ論争に端的に現れています。ニカイア・コンスタンティノーポリス信条においては、聖霊は父からのみ発出すると規定されています。ところがのちに、西方教会は、聖霊が父と子(ロゴス)から発出するとして、ニカイア・コンスタンティノーポリス信条のラテン語訳に「フィリオ・クエ」というフレーズを追加するようになりました。東方は三位一体における父なる神の優位を主張し続けたのに対して、西方はロゴスから聖霊が発出するという、父とロゴスの同等性と聖霊に対するロゴスの優位を主張することになりました(138頁)。この二つの三位一体論の違いは、東方正教会と西方教会(カトリックとプロテスタント)の伝統にどういう影響を与えてきたのだろうか、と以前から疑問に感じていたのですが、著者の坂口ふみ氏は、これを主にジェンダーに関わる問題意識から考えておられるようです。


 もちろん、そういう捉え方も重要だとは思うのですが、三位一体論に関する東方教会と西方教会の違いについての本書の説明を読みながら、私はむしろ昨年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻の出来事を思い起こしました。この出来事は、まさに東方的三位一体論と西方的三位一体論の帰結を、端的に示すと言えるのではないでしょうか。プーチン大統領の思考の中では、ロゴス的・合理的な事柄と、霊的・情念的な事柄は、常に並列的・対等に存在して来たのでしょう。ロゴス的・合理的な事柄も、父なる神から発し、霊的・情念的な事柄も父なる神から発する。ある時はロゴス・理性が優位に立ち、ある時は霊・情念が優位にたつ。それはプーチン大統領にとってはケース・バイ・ケースなのかもしれません。彼としては、可能な限り理性的に振る舞う努力をしたが、西欧はこれまでロシアに対して耐え難い屈辱を与え続けてきた。それでロゴス・理性と同等の地位を持つ霊的な動機・情念によって行動することを選択するようになったということなのかもしれません。そういう行動様式の背景に、東方的三位一体論の影響を認められるような気がします。


 これに対して、西方教会の伝統は、霊的・感情的な事柄も、ロゴス・理性の支配の元に置かれるべきであるとする伝統なのではないでしょうか。これをジェンダーの問題に当てはめれば、確かに男性優位を助長しかねないと映るかもしれません。しかし、この西方的三位一体論は、西方教会の伝統から生まれる法の支配の思想の根底にある神学だと思います。そしてこれをプーチン大統領のような人物に当てはめて考えた場合、西方的な三位一体論のメリットも否定することはできないのではないでしょうか。

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