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ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(第一巻・第二巻)亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫、2006年


 今月と来月の二回にわたって『カラマーゾフの兄弟』を取り上げます。選んだ理由は、昨年、ドストエフスキー生誕200年を記念してNHKラジオ第二放送で放送されていた亀山郁夫先生の講演を聞いたからです。大学生の時に一度読んでいましたが、その講演を聞いてから、もう一度読みたくなりました。


 日本語を話すロシア人YouTuberの話によると、現在ロシアでは高校生の文学のクラスでドストエフスキーの小説を学習するそうです。ちなみにロシアでは国語(ロシア語)と文学とは別のクラスなのだそうです。ただ、その方の話によると、ドストエフスキーの小説は、現代のロシア人にはとても退屈な本と感じられたとのことです。日本でも、文豪の作品を読む若者は減っていると思いますが、ロシアでも事情は似ているのかもしれません。


 確かに批判的に読めば、『カラマーゾフの兄弟』という小説は、突っ込み所満載です。この小説は、三角関係ならぬ、三人の男(父フョードル・カラマーゾフ、長男ドミートリー、次男イワン)と二人の女性(女学校卒のカテリーナと妖艶なグルーシェニカ)の合計五人の恋愛関係のもつれを中心に展開して行きます。しかし一つの家族の中で、しかも父親と二人の息子を巻き込むような複雑な男女関係というのが実際にはありえるのだろうか、と感じてしまいます。他にもありそうにないことは幾つもあります。例えば、知的な女性カテリーナが、父親の借金をドミートリーが肩代わりしてくれたことに恩義を感じ、ドミートリーと婚約して結婚しようとしているという設定も、あまり成功しているようには思えません。なぜならドミートリーは金遣いが粗く、年中人から金を無心しているような人物として描かれていながら、どうしてカテリーナの父親のために、ポーンと大金を提供することができたのか。そういう疑問が湧いてくるからです。また第一巻は、主要登場人物の造形のために多くの紙面が費やされています。カラマーゾフ家の四人の男たちの人物造形は非常に優れていると思うのですが、二人の女性についてはあまりうまく行っていないような印象を受けました。二人の女性が最初に登場するのは、カテリーナとグルーシェニカが、同時にカテリーナの家で、カラマーゾフ家三男アリョーシャと面会する場面です。このライヴァル関係にある女性同士が最初は協力していながら、途中から二人で罵り合うようになるという展開には少し無理があるように感じられました。さらには当時のロシア人というものが、恋愛関係や家族関係にかかわる心の動きを、そこまで赤裸々に語り合うものなのかと、当惑させられることもしばしばあります。この小説の主人公たち、特にカラマーゾフ家の人々は、19世紀後半に現実に存在したロシア人たちの姿というよりは、ドストエフスキー自身の複雑な心の動きを代弁しているという風に考える方が、自然ではないかと思います。


 それでも流石に世界文学史に残る小説ではあると感心させられる所も少なくありません。『カラマーゾフの兄弟』は、父殺しの推理小説のようなプロットを内包する小説ですが、恐らくドストエフスキーは、カラマーゾフ家の登場人物たちに、ドストエフスキー自身を投影しているのでしょう。カラマーゾフ家の父親の名前はフョードルですが、これはドストエフスキー自身の名前でもあります。でも父親だけがドストエフスキーなのではない。三人の兄弟も、作者の分身だと思います。そしてカラマーゾフ家の人々の発話から、ドストエフスキーという作家の鋭い人間観察力や現実世界への冷徹な洞察力を感じさせられる言葉が次々と繰り出されます。第二巻で、次男のイワンは、故郷を離れモスクワに移ろうとする夜に、三男で修道士のアリョーシャと夕食をともにする場面が描かれます。そこでイヴァンは弟に向かって吐き捨てるように言うのです。


「いいか見習い僧、この世には、そのばかなことがあまりに必要なのさ。世界はこのばかなことの上に立っているし、もしもこのばかなことがなかったなら、世界にはきっと何も起こらないかもしれないんだ。おれたちが知っていることなんて、たかが知れているんだよ。」(第二巻、241頁)


ドストエフスキーはきっと19世紀後半の帝政末期ロシアの国家や社会が抱える闇を意識しながら、イワンにこう語らせているのでしょう。でもこの言葉は、例えば、現代の租税回避地に巨大企業や大富豪の蓄積した巨額の超法規的な富が集められ、経済力に裏付けられた彼らの巨大な権力を、もはや国家さえも抑制できなくなりつつある、そのような21世紀の我々の現実にも当てはまるような気がします。


 だから『カラマーゾフの兄弟』は、19世紀後半のロシアの地主家族の物語という体裁を纏いながら、実は当時のロシアと言う国の姿を描こうとした小説でもあります。父殺しがテーマとなっているのは、亀山先生の解説によれば、当時頻発していたロシア皇帝暗殺未遂事件が背景にあるからなのだそうです。この小説の中では、神の存在に関する神学的な議論がたびたび交わされています。神学論争もまた、当時のロシアの政治や社会と切り離すことはできませんでした。帝政を支えるイデオロギーはロシア正教会の教えが担っていました。けれども農奴解放令以後の資本主義勃興期にあったロシアでは、多くの知識人たちが、もはや神の存在や不死など、伝統的な教会の教えを信じなくなっていました。それはすなわち、ロシアにおける社会主義思想の拡大を意味するわけですが、この小説の中でも、アリョーシャ以外の三人は、皆無神論的な言辞を弄するようになっています。無神論と社会主義は、知識人のサークルだけではなく、それ以外の社会層にも浸透しつつあったのでしょう。


 第二巻の中盤では、有名なスペインの異端審問官にまつわるエピソードが、イワンの口から語られます。これは、ドストエフスキーが嫌悪していた西方カトリック教会の堕落した姿を描くエピソードです。しかし見方によれば、社会主義者たち、無神論者たちは、当時のロシア正教の中にも、同じような偽善と信仰の堕落を見ていたということなのかもしれません。そしてイワンが大審問官のエピソードを語った後で、今や死の床にあったロシア正教会の聖職者ゾジマ長老の口を通して、「全ての人を愛しなさい」というメッセージが語られます。これも大変暗示的です。社会を統合する力としてのキリスト教の隣人愛のメッセージは、当時のロシアにおいて力を失い、瀕死の状態にあったということなのでしょう。これを読むと、私は現代のアメリカ合衆国の姿を想起させられます。


 『カラマーゾフの兄弟』は当初から二部構成の小説として企画されていました。しかし残念ながらドストエフスキーは、第一部(四巻)を書き終えたところで亡くなってしまいます。では第二部はどういう展開になるはずだったのでしょうか。亀山先生が解説の中で開示しておられる推測によれば、アリョーシャが革命家になるお話だったのではないかというのです。これにはびっくりしました。アリョーシャを革命運動に駆り立ててしまうほど、帝政末期のロシアという国は腐敗していたということなのかもしれません。また亀山先生の解説から、ロシア正教の影響を受けていた文豪ドストエフスキーの作品が、一見保守主義を代弁しているように見えながら、同時にロシアにおける革命運動家たちにも一定の影響を与えていたということを知らされました。ドストエフスキーの文学は、ロシア革命の知的起源の一つでもあった、ということは今回新しい翻訳と解説を読んで発見したことでした。


 ただもしそうであるなら、私は第二部が書かれずに終わってよかったのではないかと思います。それはアリョーシャが、誠実でひたむきな青年修道士として記憶され続けるからです。彼はこれからも、「悪を行う者に腹を立てるな」(詩篇37:1)という聖書の教えに忠実な聖職者として、文学を愛する人々の心の中に立ち続けることができると思うのです。

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