かつて大学では文学部史学科西洋史専攻で学びました。当時の専攻の先生方も皆一流大学出身の方々でしたので、その先生方から見ると、私たち学生のレヴェルは見劣りすると感じられたことでしょう。また私の学んだ大学は所謂マスプロ教育の大学でしたから、教授は本気で指導する学生を選別していたようです。一方学生からすると、年配の先生の中には旧帝国大学卒業の方もまだおられ、世代の違いは如何ともし難いものがありました。全共闘運動の嵐が吹き荒れた後、70年代以後の大学では、戦後民主主義やマルクス主義の価値観を相対化する、ポストモダンというよりは、保守的な傾向が少なくとも私の学んだ専攻では支配的であったように感じます。私のように臆病で呑み込みの悪い学生には、そうした教授陣との間に存在していた溝は何か越え難いものと感じられました。畏怖というよりは恐怖心とも言えるようなものさえ感じながら4年間を過ごすことになってしまいました。その結果、優れた知性を持った先生方との貴重な交流の機会を十分に活かすことができなくなってしまったことは、正直に言ってもったいないことだったと思います。
大学という場所は、高校までとは随分違う学びの場所です。少なくとも私は入学してそう感じました。そういう場所で、学生としてどう振舞ったら良いのか、何を目指していけば良いのか、よくわからないまま、あっという間に卒業することになってしまいました。同じ専攻で学んだ大半の学生たちは、単位を取得して、きちんと就職をすることができれば良いのであって、歴史学研究の成果を学ぶにしても、それはあくまでも単位を取得して卒業するためと割り切っていたのでしょう。しかし呑み込みの悪い上に、そう言う割り切り方は本来の大学での学びの意味からして良くないのではないかと考える頑固で要領の悪い学生でもありました。ですから一応史学科に入った以上、歴史学研究というものにきちんと取り組まなければとは考えていたのでした。
当時は専攻のアカデミック・スキルを教える科目としては「西洋史学概論」と言うのがあったかと思いますが、このクラスは資料探しの課題を課せられたり、学生がブックレポートをしたりするクラスでした。つまりレポートや論文の書き方のようなことは自分で学びなさい、ということだったように思います。それで自分なりに本を何冊か読みました。清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書)、斉藤孝『学術論文の書き方』(日本エディタースクール)、丸谷才一『文章読本』(中公文庫)、梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)などを読んだわけです。大学を卒業後には、高校の非常勤講師をしてから神学校に入りました。将来留学を目指していたので、その時期には、旧版のK. Turabian, Student’s Guide to Writing Collage Papers(Chicago: Chicago UP)を読んだりもしました。そんな風に研究法・論文の書き方についてはそれなりに学んだつもりだったのですが、読書法に特化して教えている本は一冊も読んではいませんでした。これは迂闊なことだったと思います。
今回紹介する『本を読む本』(原題: How to Read a Book)を初めて目にしたのは、2003-05年に二回目のアメリカ留学の時、神学校のブック・ストアの本棚に置いてあるのを見た時でした。そこに置かれていたと言うことは、当時神学校の教師たちが学生たちに薦めていた一冊であったからのようです。この本は早ければ高校時代に、遅くとも大学の学部レヴェルで読むべき本なのですが、大学院課程を提供する神学校のブック・ストアでも売られていたということは、この本で教えられているような読書のスキルを身につけていないと思われる神学生がアメリカでもかなり多かったということなのでしょう。そして何を隠そう私もそういう学生の一人であった訳です。ところが、その時に購入はしたのですが、しばらくは科目履修に追われて読まずにおりました。お恥ずかしい限りです。しかし英国の大学で研究をすることが決まったので、その前にこれは読んでおくべきだと思い、卒業が決まった頃に、ようやくこの本を英語で通読したのでした。
その後、英国の大学の神学宗教学部で学んでいた時のことでした。私の学んだ大学では大学院の学生のために指導チーム(Supervisory Team)という制度が設けられていました。主任の指導教授とは別に、もう一人の指導教官からも任意で指導受けることができるという制度でした。それでLoren Stuckenbruck教授に一度だけペーパーを読んで頂いたことがありました。初期キリスト教と第二神殿期ユダヤ教文書の専門家で、エチオピア語エノク書の注解書を出版されている著名な先生です。Stuckenbruck教授に提出したペーパーが返却されたときに、鉛筆書きで所々に印や番号などが付けられていました。そのハンド・ライティングを見て、先生がAdler & van Doren, How to Read a Bookの勧める読書法を実践している方であるらしいことに気づきました。そしてStuckenbruck教授の基本に忠実な姿勢に感銘を受けたのでした。優れた学問的成果を上げるということは、何か高度な知的能力が必要であるかのように思われるかもしれません。しかし人文系の学びの場合は実は必ずしもそうではなく、基本に忠実であるということの方が重要だということを先生のハンド・ライティングから教えられたように思うのです。
英国での学びの後、日本に戻ってから、この本は外山滋比古・槇未知子によって『本を読む本』の題で邦訳されていることを知りました。翻訳は既に1978年になされていたとのことですから、いずれかの本の文献表には紹介されていたのかもしれません。不覚にも見落としていたようです。帰国後、数年だけ母校の神学校で教会史を教えたことがありましたが、その時神学生たちに、いつも三冊の本を勧めることにしていました。本多勝一『日本語の作文技術』(朝日文庫)、澤田昭夫『論文の書き方』(講談社学術文庫)、そしてこのアドラー & ヴァン・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槇未知子訳(講談社学術文庫)です。果たして私のクラスを受講した神学生の中で、これらを実際に読んだ神学生が何人いたのかはわかりません。ただ振り返るとこの三冊は、進歩の遅い自分の学習者としての歩みを辿る三冊でもあります。最初の本多勝一の本は高校時代に読みました。澤田昭夫教授の本は大学時代に読み、その後何度か読み返しました。でも三冊目の『本を読む本』は30代の後半になってアメリカで出会った訳です。この三冊目をもっと早く読めば良かったと後悔しています。
この本が教えていることは読書には四つの段階(あるいは四つの種類)があるということです。第一段階の読書とは児童・生徒が初等・中等教育で身につけるべき初歩的な読書のスキルです。あるいは外国語や古典言語を学び始めた学生が、テキスト読解力に関してはゼロからスタートして中級程度のレヴェルに達するまでの段階とも言えます。第二段階は点検読書と呼ばれます。目次や見出しやトピック・センテンス(段落の最初に配置されその段落で論じられている事柄の命題を示すとされるセンテンス)の拾い読みによって本の概要を掴むための読書です。第三段階は分析読書です。分析読書の際には、論点を明確に把握できるように、著者の主張を支持するポイントを①、②、③という具合に番号を振って、それぞれのポイントの要約を本の中にメモするようにも勧められています(邦訳58-59頁)。Stuckenbruck教授が実践していたのはこのメソッドでした。この本の著者の考えでは、第三段階の読書法は米国の高校レヴェルまでに習得すべきであるとのこと。読書法の教育は、私の中学高校時代にはほとんどなされていなかったように思われますが、本来中等教育の課題でもあるということなのでしょう。
第四段階はシントピカル読書と呼ばれるものです。これは比較読書法とも言い換えられる方法で、同じテーマの書物を何冊か読み、それを相互に関連づけて読む読書法のことです。なぜシントピカル読書が必要なのかと言えば、その本の内容を鵜呑みにせず、内容の価値を客観的に評価するためには、同じ分野や同じテーマで書かれた複数の本を分析的に読書し、自分が取り上げている書物の内容を批判的に吟味する能力を身につける必要があるからです。それはつまり欧米の高等教育の伝統の中に受け継がれている教養教育(Liberal Arts)が目指している目標、即ち自律した自由人の育成という目標に叶う読書法の習得を勧めているということになるのでしょう。筆者はこの読書法は、本来なら大学の学士レヴェルで習得されていなければならない読書法であるけれども、現実には多くの学生が大学院で3-4年の学びを修めてからようやく身につけることのできる読書法であると述べています(邦訳36-37頁)。邦訳の底本となっている改訂版が出されたのは1972年でした。その頃、すでにアメリカの大学でも、テレビなどの影響による読書力の低下が認識されるようになっていたのでしょう。
この本は、抜群の記憶力を持ち、高度な理解力のある学生には必要ないのかもしれません。またこの本はアメリカの大学生向けですから、例えば英国や欧州の大学生向けにこういう本があるのかどうか私はわかりません。でも私にとっては、このHow to Read a Bookという本のアプローチの仕方には、励まされる面がありました。本をより良く読むというスキルは、全ての人が身につけた方が良い、また身につけることができるスキルであって、ハウ・トゥーを覚え、実践すれば、誰でも難解な本を読みこなすことができ、重要な論点や主張を見分けることができるようになる。そういう哲学に裏付けられている本であるからです。そういう本を出版しようとするところに、アメリカという国の民主的な精神が反映されているような気がします。日本では、そんなことは教えられなくても、身につけられるものであるし、手取り足取り教えられなければ本が読めないような人に、あえて本の読み方など教える必要はない、かのような空気がかつてはありました。もし今もそういう空気が根強く存在していて、そのために名著や難解な書物に取り組む読書には尻込みしてしまっている、という方がおられれば、そういう方にはお勧めしたい本です。古典や優れた作品によって得られる読書経験は、別に特別な人に限られたものではなく、誰でもその気になれば経験できるものです。そして誰もが、古典や名著の一読者になって、テキストとの対話の愉しみを味わう自由があります。
些細なことですが日本語訳に一つ残念な点があります。それは原著に掲載されている、推薦図書リスト(‘A Recommended Reading List,’ pp. 347-62)が、日本語訳からは削除されてしまっていることです。リストの削除は、訳者によると、原著者の希望だったとのことです(邦訳265頁)。このリストには、アメリカの大学の卒業生であれば、特に人文系の学生であればぜひ読んだ方が良い、アドラーとヴァン・ドーレンがそう考えていた本が列挙されています。ホメロスの『イリアス』から始まり、20世紀のソルゼニーツィンに至るまで文学史・思想史上の名著が、読書のプロによって選定され紹介されているのです。登山を趣味とされている方の中に日本百名山の踏破を目指しておられる方がおられると聞きますが、私もそれを真似てHow to Read a Bookに紹介されている西欧・世界文学の古典を、無謀な試みとは承知の上で、踏破できたらと考えています。達成する自信はありませんが。
この「牧師の本棚」のコーナーでもC. S. ルイスの本を以前紹介しました。彼も、当然このリストに載っている本は全て読破していたことでしょう。ところが驚くべきことに、彼が晩年に結婚したユダヤ人女性のJoy Davidman Greshamという方は、英国中世・ルネッサンス文学を専門としていたルイスよりも、読書の幅の広さという意味ではまさっていたのだそうです。Joyの息子に当たる人がYouTubeの動画の中でそのように証言していました。Joyさんは、米国東部の読書人・教養人であれば読むはずの欧州・英国の名著はもちろん、北米の著作も幅広く読んでいる方だったのだそうです。20世紀のアメリカ東部の人文系学部のレヴェルの高さを感じさせられるエピソードです。
省みて、我が国の現状は、今や小学校に入る前の段階からスマートフォンを与えられている子供たちが増えているそうです。これからの時代、読書をすると言う意味での日本人の識字率(リテラシー)は確実に低下していくことでしょう。古典的な著作や高度な内容の書物を読むという意味での識字率は、残念ながら現時点でも既に西欧諸国のみならずアジア諸国からも水を開けられているかもしれません。別に古典や難解な本など読まなくても、仕事ができれば、それで良いではないか。仕事をするために、生活するために、すぐにはお金にならない余計な知識よりも実用性のある知識やスキルを身につければ、それで良いではないか。多くの日本人は恐らくそのように考えているからなのでしょう。
しかし本も新聞を読まない国民ばかりの国において、公正で健全な民主的社会を形成し、国民国家の統合を維持することは困難であると思います。前回このブログで紹介したベネディクト・アンダーソンが指摘していたように、国民国家を支えている一つの重要な柱は新聞のような活字媒体であり、国民がほぼ同じ出来事を報道する主要新聞を毎朝の礼拝のように読むという儀式によって「幻想の共同体」は支えられて来た面があるとされます。本も新聞も読まない国民ばかりになれば、その支柱が失われるということです。そして多くの人々が専制的権力者の愚昧なプロパガンダに欺かれてしまう危険性が高まることでしょう。日本の政治や社会が一層、権力者にとって操作しやすいものとなっていくように思います。それは長期的には日本国民の幸福な生活を制限し、場合によっては破壊することになりかねません。だから優れた文学作品や優れた思想書を読む努力は、学校で教わらなくても、一人でも多くの国民が意識して取り組む必要があるように思います。
いやそんな真面目な理由で本を読む奴などいないだろう。そういうツッコミを入れられそうな気もします。そのような反論をされる方のために、本書の結びで著者が述べていることを引用したいと思います。
「精神の成長は、人間の偉大な特質であり、ホモ・サピエンスと他の動物とが違っているのもこの点である。. . . 我々の周りにあるテレビ、ラジオを始め、様々な娯楽や情報源も、人為的なつっかい棒に過ぎない。このような外からの刺激に反応していると、自分の精神も活動しているような錯覚に陥る。だが、外部からの刺激は麻薬と同じで、やがて効力を失い、人間の精神を麻痺させてしまうのだ。自分の中に精神的な蓄えを持たなければ、知的にも、道徳的にも、精神的にも、我々の成長は止まってしまう。その時、我々の死が始まるのである。」(邦訳254頁)
と引用してみたものの、これも考え方が古いと言われそうです。読書に興味を持ってもらうには、どんな風に励ましたら良いのでしょうか。読書法を勧める前に、まずそこから考えなければならないのかもしれません。
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