著者のケヴィン・ヴァンフーザーは、米国イリノイ州にあるTrinity Evangelical Divinity School(トリニティー福音神学校)の研究教授で、米国福音派の神学者です。この本は彼がケンブリッジ大学に提出した学位論文に基づく著作です。本書でヴァンフーザーは、神学的著作をも残しているポール・リクールの哲学と解釈学に神学的な観点から光を当てることを目指しました。リクールはフランス人には珍しいプロテスタントの神学者で、パウル・ティリッヒの後任として1970年からシカゴ大学に招かれた方ですが、 2005年に亡くなられています。現在のフランス大統領エマニュエル・マクロンはかつてリクールの秘書を務めていたことがあったそうです。シカゴ近郊にあるトリニティー福音神学校で学んでいたヴァンフーザーにとっては研究対象として魅力的な存在であり、しかも既に神学校で学んでいた時期から直接リクールと親交をもちつつ、彼の研究について理解を深めることができたのでしょう。
ケヴィン・ヴァンフーザーは今も母校で教鞭をとっておられます。同校の卒業生から聞いた話ですが、これまで著名な大学の神学部からのオファーもあったそうです。けれどもそういう話は全て断って来たのだそうです。それはヴァンフーザーにとって自分の研究成果を伝えたい聴衆・読者が福音派の教会や福音派のキリスト教徒であるからなのでしょう。この本を書いた理由にも、なぜリクールを読むべきかを伝えることも含まれていたのではないでしょうか。前回このコーナーで触れたフッサールやハイデッガー以降の西洋現代哲学が、キリスト教神学にどのような影響を与えているかを知る上で、リクールは格好の研究対象であるからだと思われます。
ポール・リクールという哲学者は、そのキリスト教信仰の故に、哲学的対話を行う際にも、一貫して調停的なアプローチをとってきた人物であったそうです。自分と意見の異なる相手からも積極的に学ぼうとする姿勢を保ち、そして異なる二つの立場の統合を目指すことを自分の哲学的探究のスタイルとしてきた方だとされます。そのようなリクールの姿勢を、ヴァンフーザーは「可能性への情熱」と表現します。対話を通して一致点や共有できる発想を見出し、それに基づいて、より広いプラットフォームの上で議論を展開するというやり方を、彼は続けて来たのではないでしょうか。
ポール・リクールは、ハイデッガーなどを通して現象学の影響を受けてきた哲学者ですが、ヴァンフーザーの分析によれば、リクールが最も影響を受けていたのはイマヌエル・カントです。カントは近代科学の興隆期/理性万能の啓蒙思想隆盛期に生き、そのような科学と理性の時代にどのように信仰を保ちうるかというテーマをも考えていた哲学者でした。カントは「理性の限界」、つまり人間理性には、世界に存在する可能性のある一切の存在を全て認識できる訳ではない、特に神の存在などに代表されるような超越的な存在を認識できる訳ではない、という消極的な仕方で、近代社会に信仰の余地を残そうとした(あるいは結果的に近代社会から信仰を排除した)とされます。リクールは、カントによって「理性の限界」の外に追いやられた神や信仰の問題を、言語哲学や人間の創造的想像力などを手がかりに探究することによって、「理性の限界」とされていた領域にも哲学的な思索を拡げようとしたと言えます。
そのような広い意味での理性と信仰の統合の試みにおいて、彼は人間の言語能力によって生み出される詩的言語の可能性に注目します。詩の創作においてメタファーは中心的な役割を果たします。ヴァンフーザーはこのメタファーについて次のように解説しています。「しかしメタファーが指示する所の一段と深みのある現実とは一体何なのか。その現実を特徴づける一つに『人間的』現実を指摘できよう」(89頁)。メタファーは、一つの名詞などによって、その字義的意味とは別の指示対象を指示する、日常言語に特有の機能です。メタファーはコンピューター言語には存在しません。コンピューター言語のような数理言語は常に字義的です。そして恐らく数理言語に基づく人工知能(AI)も、生活言語と全く同じ様に機能するメタファーの使用能力を獲得することは恐らくできないのではないでしょうか。
しかし人間が使用する日常言語は、字義的な意味だけで解釈されるものではありません。日常言語が文学性を有するのは、それが字義的に用いられる時ではありません。むしろメタファーとして用いられる時に、日常言語はより優れた文学性を発揮します。無論日常言語を字義的に使用することも可能ではあります。しかし人間が、情緒豊かに表現しようとする場合、そのために用いられる言語はしばしばメタファーとして機能します。「涙を流す」という本来生理現象を描写する言葉は、人の悲しみ、喜び、嬉しさ、哀感、感動、歓喜など様々な感情を、聞き手に想起させる言葉です。そのような日常言語の詩的使用がなければ、人間存在や人間の経験をふさわしく言語化する方法はほとんど失われてしまうことでしょう。人間として生きるということは、メタファーを用いて生きることであると言っても過言ではありません。
そしてメタファーの使用を可能にしているのは日常言語の多義性(polysemy)によります。日常言語に使用される単語は、たとえそれが単純な意味しか持たないように見える単語であっても、必ず多義的に使用することが可能です。例えばArmという英単語一つとっても、即座に「腕」「枝」「権力」「武器」などの複数の指示対象を上げることができます。このような日常言語の多義性にもかかわらず、なおコミュニケーションが可能であるのは、言語が使用される文脈によって、字義的意味以外の指示対象を意味することができる、という日常言語の特性によります。そして聖書学や神学の分野でも、この言語の多義性は重要な意味を持ちます。言語の多義性があるからこそ、キリスト教徒による旧約聖書のキリスト論的解釈は可能である、ということになります。
さらにリクールは、テキストの解釈の問題に関して示唆を与える洞察を明らかにしているようです。それはテキスト解釈の目的が自属化(appropriation)であるという説明です。自属化(appropriation)とは他の人の所有物を自分のものとして利用するという意味ですが、つまり他者が創作した言語テキストの意味や指示対象を理解し解釈することによって、他者の創作した言語テキストによって創出されたテキスト世界を、解釈者自身によって生きられている世界の中に取り込む営みだということです。この自属化(appropriation)という概念は、テキストによる意味の伝達を考える上で、示唆に富む概念であると思います。リクールが明らかにしたテキストとその解釈によってなされる創造的な営みについて、ヴァンフーザーはこう説明します。「メタファーと同様、テキストは生産的に[あるいは創造的に]指示する—それらは世界を創造する。正確には、テキストは読者に世界-内-存在の可能な道、つまり世界で生きる新しい道を提示するのである。」(110頁)
この「テキストが読者に世界で生きる新しい道を提示する」という現象は、キリスト教の福音や信仰にも適用することができます。新約聖書のイエス・キリストについての福音書のメッセージなどを読むことによって、私たちはそれまでの自己の内には存在しなかった新しい価値観や新しい生き方に道が開かれることがあります。それはテキストを読む個人によって「生きられている世界」の中で起きる現象です。このような現象学的な説明は、聖霊の働きを「生きられている世界」だけの現象として矮小化していると批判されるかもしれません。ただそのような現象学的説明も、信仰者は受け入れることができると思います。少なくともヴァンフーザーはそう考えているのではないでしょうか。なぜなら、このような「生きられている世界における新しい価値や生き方の創造」という現象は、キリスト教信仰に生きる人々には共通の現象であると信じられており、それは信仰者たちに共通する経験だと信じることができるからです。つまり聖書のテキストの解釈によって行われている人間の営みを現象学的に説明したとしても、そのような説明をすることによって聖霊の働きを排除してしまうことになるとは限らない、ということです。
第一部の後半では、テキストの自属化に関連する重要な事例として物語の解釈が挙げられます。物語は単なる事実の羅列ではありません。作者は意図的に事実を羅列し、配列された事実の連鎖を読み手は自らの内で「統合的形象化」を行うことができます。テキストの解釈に関する箇所で出てきた「自属化」と良く似た概念だと思いますが、物語テキストを読み取る読者の内にイメージ・形象が作り出される作用をリクールは「統合的形象化」と表現しているようです。
このような物語とその解釈についての分析がなされた後で、物語と歴史の違いが語られます。物語と歴史は、形式的には非常に良く似ています。けれども歴史家は常に過去の事実に拘束されます。これをリクールは「歴史家は過去に対する債務者である」(120頁)と表現するそうです。しかし同時にリクールは歴史と過去の事実の相違についても言及します。歴史は過去の事実に拘束されはするもものの、歴史は決して過去の事実それ自体ではありません。私たちが読む歴史は、飽くまでも歴史家によって書かれた叙述としての歴史に過ぎず、その叙述は決して過去の事実を完全にかつ正確に再現することはできません。歴史叙述のこのような特質についてリクールはこう語ります。
「過去は現実的ではないというのではなく、過去の現実は厳密に言えば検証し得ないのである。過去がもはや現存しない限り、歴史の言述はただ間接的にそれを把握すべく探し求めるだけである。ここに[歴史と]虚構との関係の重要性が現れる。」(120頁)
このリクールの歴史と虚構との親近性に関する分析は重要です。過去の遺物や歴史的資料を通して、過去の事実の痕跡を、現代に生きる私たちは目の前に置くことはできます。けれども、その過去の事実の痕跡はそれ自体では私たちには、殆どの場合、意味のない断片的な過去の痕跡に過ぎません。それらが私たちに意味を持つようになるのは、それら過去の諸痕跡に解釈が施され、歴史叙述という形に統合されてからなのですが、しかし統合された歴史叙述は、もはや過去の事実そのものではありません。従って歴史叙述は過去の事実に近似した虚構であるとも言える訳です。
とはいえ良い歴史を書くとは、歴史が事実に近似した虚構であるからと言って、虚構を語ることに居直ってしまうのではなく、飽くまでも過去の事実に接近しようと努力しつつ、事実に近似した虚構を語ることでなければなりません。近代歴史学の先駆者の一人レオポルト・フォン・ランケもこのことに気づいており、歴史家は「過去をそれが起こったように」(wie es eigentlich gewessen)語るに過ぎないことを認めていました。つまり起こった「ように」語るのが歴史であるとすれば、歴史とは過去の事実の「直喩」になる訳です。ヴァンフーザーは歴史に関するこのリクールの洞察を「歴史的物語は[過去の]創造的模倣である」と言い換えています(121頁)。
このようにリクールは、歴史叙述それ自体が物語という文学類型に依存していることを指摘します。つまり過去が人間にとって真実であると認識されるためには、虚構という創造的想像の助けを借りる必要があるのです。それはちょうど印象派の絵画によって描かれる自然や人間が、虚構でありながら、描かれた対象に認められる真実を活写していることと似ています。そして歴史が虚構と同じ形式の物語として叙述されることによって、歴史の読者は、歴史の物語を自属化、あるいは形象化するとされます。結局歴史物語の読者の内に起きていることは、過去の事実が再構成されるのではなく、「歴史テキストの世界」と「私の世界」が融合することによって、「私の世界」が広がり、深められるということだとされます。リクールは、テキストを解釈するという人間の営みが、結局は、「他者理解」を通じた「自己理解」に過ぎないと考えています(127頁)。歴史の客観性というものに意義を見出そうと考えている者にとって、このリクールの言明はショッキングではありますが、しかしこのような分析は、現象学的に歴史に関わる事柄の本質を解明しようとする言明であることは認めざるを得ません。
歴史と虚構の関係、歴史テキストの解釈を論じた後で、ヴァンフーザーは、ハイデッガー的なテーマ、時間の中に生きる人間にとっての歴史について、リクールの思索を後づけようとします。人は時間の中に存在します。ですから人は、常に物語の形式によってしか、自分が生きている世界の現実を説明することができません。それは極論すれば、時間の中に生きている人間は、永久に自分が生きている世界の現実を正確に認識することはできない、というパラドックスに突き当たります。リクールによれば、このバラドックスこそが、旧約聖書の「伝道者の書」の著者によって「空の空」(伝道者1:1-2)と慨嘆させた、人間と世界についての悲劇的な実態であるとされます(127頁)。けれども、だからこそ、リクールは、我々人間が「物語」と「歴史」を取り戻さなければならないと語るのだそうです。「物語・歴史」を取り戻すということは、リクールによれば、人間が所与のものとして与えられている「生命時間」と「宇宙時間」に加えて、第三の時間である「歴史的時間」を案出することであるとも語られています(129頁)。
メタファーや物語や歴史に関するリクールの解釈学的思索を紹介した後、第二部で、ヴァンフーザーは本書の中心的な主題である、新約聖書の福音書の問題に取り組みます。リクールがその神学的・聖書学的著作において取り組んだ相手は主にルドルフ・ブルトマンであったようです。リクールは、ブルトマンの提唱した非神話化による福音書解釈と初代教会のケリュグマの現代的な意味の検出という解釈手法の抱える問題を指摘します。非神話化は福音書の使信の「非物語化」に他ならず、そのような解釈手法は新約聖書の神学を骨抜きにし兼ねない手法であると批判します。旧約学者のフォン・ラートによれば、古代イスラエルのアイデンティティーさえも歴史的物語によって形成されていました。同様のことは福音書の使信にも当てはまります。人は「物語を解釈することによってのみ、テキストの指示する可能性に接近することができる」(172頁)はずなのですが、非神話化という解釈法はそのようなプロセスを排除しかねないとされます。ただリクールにとって福音書のテキストの物語を解釈することによって目指すゴールは、ブルトマンと同様に実存論的解釈です。上記のリクールの解釈学に関わる論述で言及した「自属化」とは常に実存的な自属化であり、また「形象化」も常に実存的形象化です。ですからリクールが目指したことは、ブルトマンの目指したゴールに、福音書の物語形式を温存しつつ、より現実的な方法で到達する解釈法を提示することにあると言えるのではないでしょうか。
ただリクールが論じる、例えばイエスの喩え話の物語によって読者が得る実存論的自続化/形象化は、あくまでもテキストの世界が読者の内に形成されることに過ぎません。そのような実存論的自続化/形象化やそれを生み出すイエスの譬え話の歴史的実在性についてリクールは語らないそうです(177頁)。それはリクールの関心が福音書記事の歴史性の問題とは別の所にあるからのようです。リクールが目指していることは、デカルト以来西洋哲学を支配している、思索の出発点としての「人間主体の中心性」を解体することであるとヴァンフーザーは説明します。キリスト者であるリクールは、イエスの言葉、即ち「自分の命を得ようと求める者は、誰でもそれを失うが、その命を失う者は、誰でもそれを見出すであろう」(ルカ17:33)という言葉を真摯に受け止め、これを自身の哲学的な営みに適用しているのだそうです。リクールは聖書の起源が超越的な存在に由来することは信じています。その上で彼が目指すのは「我々が自主的に我々自身を措定できるという幻想を取り除き、我々の注意を我々の存在と意味の源泉たる『超越』に向けさせることである」(181頁)のだそうです。
この点で、リクールはカール・バルトの影響を受けているように思われます。リクール自身も自らをバルティアンであると自認していたそうです(184頁)。ただヴァンフーザーは、このあたりから、リクールをバルトの影響を受けた哲学的神学者と見るべきか、あるいは神学的哲学者、宗教哲学者と見るべきか、という問題について、かなりの分量を割いて検討して行きます。リクールの場合、バルト程明確に神学と哲学の区別を設けていないために、リクールの解釈学は飽くまでも哲学的解釈学であるとして、バルト的とは認められないと批判する見解もあるようです。米国の神学界ではそのような批判は主にイェール大学の神学者たちからなされてきたようです。
このような論争の一つの焦点は、リクールによる福音書解釈が、福音書の字義的意味を保持しうるのかどうか、という問題にあるとされます。リクールや彼の影響を受けたデビッド・トレーシーのような研究者は、ブルトマンの実存論的解釈を承認し、彼の主張、即ち福音書を始めとする「新約聖書は、読者の自己理解の新しい可能性を提示する」という主張を受け入れます。けれども、そのように新約聖書や福音書を読んでしまえば、リクールや彼の影響を受けた神学者は、福音書の字義通りの意味を承認できないのではいかとの批判がなされるそうです(202頁)。これはイェール大学の神学者であったハンス・フライがリクールに対して向けていた批判です。フライは、自らをより忠実なバルト主義者であると自認しつつ、神学の役割は、聖書の世界をそれ自体の言葉で理解できるように説明することにあるとして、リクールを批判したそうです。
しかしながら、ハンス・フライのような主張にも問題は存在します。そもそもハンス・フライの考える「字義通り」の福音書とは何かという疑問です。ハンス・フライによれば、福音書はイエスのアイデンティティーを写実的に述べており、特に受難物語において神の意志に従順に歩まれたことの中にイエスという人物のユニークなアイデンティティーが示されています。それはあたかも「想像的」な記述のように提示されていながら、しかし信仰者はそれを事実として受け止めるものだとされます。
一方、リクールは、福音書の字義通りの物語を超えた理解を目指します(212頁)。ハンス・フライにとって物語世界はそこにある全てのものを意味するのに対して、リクールやトレーシーにとって、物語世界はテキスト世界とメタフォリカルに関係するのだそうです。つまり福音書のテキストによって、福音書の読者の内に自属化する意味・物語世界は、福音書のテキスト世界それ自体とは別個のものとして捉えられているのです。この点に関するヴァンフーザーの分析によれば、リクールやトレーシーがこのように区別するのは、彼らが福音書の物語に関してキリスト教信仰における神秘的な体験である「顕現」(Epiphany)へと読者を導く側面に注目しているからであるとされます。
ヴァンフーザー自身は、このリクールとフライとの間で交わされた、福音書の解釈に関わる論争について概観した後で、両者の福音書の指示対象分析には、双方に不十分な点が残されていると指摘します(227頁)ヴァンフーザーがフライの議論において不十分な点とみなすのは、フライが福音書テキストの内在的な意味を重視するにもかかわらず福音書の記述を歴史とは認めない点です。フライはあくまでも福音書を歴史のように書かれたフィクションであると捉えているのです。福音書の字義通りの意味を擁護していながら福音書の直接の指示対象の歴史的実在性を否定するというのは、確かに彼の試みの基盤を損なうことかもしれません。フライが福音書を事実の如くに書かれた物語だとするなら、リクールのメタフォリカルな福音書理解との違いは曖昧となりかねません(230頁)。
さらにヴァンフーザーは、リクールもフライも、共に福音書の「詩学」に関する議論が不十分なままであると考えているようです。この問題について議論している中で、ヴァンフーザーがフライの福音書に関する判断について語っている一文はここに引用したいと思います。「用語の近代的意味でフライが福音書を歴史と見なさなかったことは正しい判断と言えよう。福音書を近代的な歴史学の要求に応じさせようとすることは、異質な明瞭性と真理性という基準をそこに課そうとするものになる。」(230頁)日米の福音派に接点を持つ私にとって、このヴァンフーザーの言葉は非常に勇気ある発言であり、とても励まされるものです。ヴァンフーザーも、福音書を「用語の近代的意味で」歴史とみなす必要はないと考えているのでしょう。もしそのような判断が正しいなら、フライが福音書を「写実的物語」という19世紀のフィクションにおいて設けられたカテゴリーに基づいて読むことも、福音書を歴史学の要求に応じさせるのと同様に、時代錯誤の誤りを犯しているのではないかと批判するのです。このあたりにヴァンフーザーという人の論述のシャープな切れ味を認めることができます。
リクールとフライの双方に認められる不十分さについての議論の最後に、ヴァンフーザーは、福音派の神学者らしく、聖書の霊感の問題を取り上げます。フライもリクールも、ある文学の諸形態を福音書に当てはめようとしますが、そのような文学類型は部分的に福音書に類似しているに過ぎないと指摘します(231頁)。聖書の記者たちは勿論一流の歴史家ではありませんが、かといってフィクションを書こうとした訳でもありません。しかしその様な二流の作家たちの著作が、時代を超え、文化を超えて、世界中の読者に信仰上の影響を与え続ける著作となっているということは文学史上の珍事とも言えます。文学類型についての議論をヴァンフーザーはこう締めくくります。「したがって聖書を二流の歴史として扱うか、あるいは一流の虚構として扱うかというアプローチは適切ではない。」(232頁)結局の所、私たちは、この二流の著作家たちによって書かれた不思議な書物のメッセージを、彼らの信仰の証言として受け入れるか、それとも虚構として切り捨てるか、私たち自身でどちらかを選択する以外にないのではないでしょうか。
福音書、特に共観福音書の中心的な主題は、永遠の神の御子イエス・キリストが地上/時間の世界に来臨されたことによる神の国の到来/接近です。この福音書に関わる永遠と時間の問題について、リクールはどう考えているのでしょうか。リクールは、福音書における永遠と時間の問題を考える手がかりとして、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(1925年)という小説を題材にして説明するそうです。この小説は、主人公クラリッサ・ダロウェイ夫人が夜会を開催する一日を朝から夜会の終わりまで意識の流れに従って描くものです。彼女は生きる希望を見失いかけていた上流階級の既婚女性でしたが、セプティムス・ワーレン・スミスという男性の自殺の知らせを聞いて、却って自身の内に生きる意欲を回復するというお話しなのだそうです。この小説は、イエス・キリストの十字架の死を伝える福音書の受難物語が、多くの人々に希望を与えてきた不思議な宗教的現象を説明するために取り上げられているのでしょう。ということは、リクールにとって、福音書が伝えようとしている神の国の到来や永遠の命の希望などは、あくまでもそれによって福音書の読者が、時間内存在としての自己の生の中に、福音書の語る希望を、創造的想像力を働かせて実存的に自属化/形象化することよって生じる現象であり、来世への確かな希望が与えられたり、宇宙的時間(私たちが生きている世界における時間)そのものから解放されたり、これを超越したりするというような意味での永遠というものを想定している訳ではないことになると思います。
ヴァンフーザーによる、リクールの神学的・聖書学的著作に関する分析の結論は「9イエスの受難、キリストの力:人間の自由の可能性」という章において明らかにされています。この章の冒頭でヴァンフーザーは、リクールによる福音書に関する研究を「哲学的人間学」と定義します。それはリクールの福音書理解の中心が、イエスの物語、特に受難物語を人に自由を与える物語と見ている点にあるからです(287頁)。リクールによれば、福音書は「永遠へ方向づける人間の生き方への可能性を目論む」(288頁)とされるのですが、この章でヴァンフーザーは、果たして福音書物語は、リクールが想定しているように読者を導くことができるのかを問います。ヴァンフーザーは、リクールの人間学的努力を承認し、敬意を払いつつも、次のように書いています。
「リクールの聖書解釈学はある重要な補足が要求されている点を私は主張するつもりである。宗教改革者が以前より気づいていたように、新しい生、つまり真の自由の可能性にとっての神の言葉と聖霊は共に必要にして十分である。」(292頁)
言い換えると、リクールによって解明されたような形で福音書解釈を仮に実存論的に記述するにしても、その記述がキリスト者によってなされる福音書読解を通して経験される真に信仰上の体験を描写したものとなるためには、読者であるキリスト者が聖書を神の言葉として読んでいること、またその神の言葉を読む読者に神の聖霊の働きがあることを認めなければならない、ということを、ヴァンフーザーは補足しているのでしょう。
そのような神学的な補足は行ってはいるものの、ヴァンフーザーは、リクールの哲学的・解釈学的研究が、キリスト教学に、そして恐らくはキリスト教信仰にも有益であるとの肯定的な評価でこの書物を締めくくります。ヴァンフーザーは、リクールが、当然のことながらキリスト教の伝道者ではないものの、彼がイエス・キリストの到来を予告した「バプテスマのヨハネ」のような役割を果たしていると表現し、本書を結んでいます(381頁)。
ですから本書は、アメリカ福音派の神学者の中に、現代哲学の影響を受けた聖書解釈について、肯定的な評価を行っている人物がいることを明らかにしています。つまり聖書のテキストに対して現象学的アプローチに基づく解釈をおこなっているキリスト教哲学者の主張を、ただ現象学的アプローチを採用しているというだけの理由で切り捨てることはせず、神学的に補完することによって、そのような哲学的解釈からも学べる点があるとの立場に立つ人物が、米国福音派の神学者の中にも存在するということを示しています。そういう福音派の神学者は決して多くはないのかもしれませんが。
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