大学時代に所属していた演習を担当されていたのは、イギリス近代史の先生でした。この先生は当時主にコレラなどの感染症・伝染病の流行とそれに伴う英国の公衆衛生の歴史の研究をされている方でした。大学を卒業した後、私立高校の非常勤講師をしながら大学院への進学の可能性を求めていた頃に、この先生と何回かお会いし、進路の相談にのって頂いたことがありました。ちょうどその時期に、先生が演習で教科書に指定していたのがミシェル・フーコーの『監獄の誕生』でした。原題は「監視することと処罰すること(Surveiller et punir)」です。邦題は原著の副題に基づいています。
先生がフーコーの著作を演習の教科書に選ばれたことには、先生ご自身が研究の視点をフーコーに負っていた面があったからなのでしょう。それと同時に、当時の日本の人文学の潮流も反映されていたのではないでしょうか。前回取り上げた『近代市民社会の成立』の中で紹介されているようなホッブス、ロック、モンテスキュー、ルソー、アダム・スミス、カント、ヘーゲルなどの思想家たちは、その受容の必要性について濃淡の違いこそあれ、それまで日本人も当然受け入れるべき思想家たちであるかのように考えられていました。しかしそうした傾向への反省や批判が1980年代の日本の大学の教師たちの間に広がっていたのではないでしょうか。先生は、フーコーのようなポスト・モダンの思想家たちが洞察するようになった西欧近代社会の負の側面について演習に参加する学生たちに認識を促しておられたように思われます。それは日本の研究者たちが、西欧近代社会を日本が模範とすべきモデルとしてではなく、むしろ一つの文化的類型として捉えるようになったことの結果であったとも言えるのでしょう。
フーコーは、本書の冒頭、第一部・第一章で、1757年にノートルダム大聖堂の前で行われたダミアンという犯罪者に対する残酷な刑罰の描写から始めます。彼の手足は四方から四頭の馬によって引かれて四つ裂きにされたのでした。このような残虐な刑罰の執行はフランス革命後には廃止されます。それまでの刑罰は犯罪の重さや量刑に応じて身体に苦痛を与えるものでした。しかし革命後にはそのような身体刑は消滅し、犯罪者の身体には触れず、代わりに精神を矯正するための刑罰に変えられます。本書はそのような革命前後のフランスにおける刑罰の歴史を辿るのですが、フーコーは本書の目的を次のように説明します。「近代精神と新しい裁判権の相関的な歴史。処罰権がその根拠を入手し、その正当性と諸規則を受け取り、その影響を及ぼし、その途方もない奇怪さに仮面を被せている。こうした現今の科学的で司法的な複合体の系譜調べ。」(27頁)つまりフーコーは、身体に苦痛を与える刑罰が廃止される上で近代精神がどのように作用したかを明らかにした上で、近代的司法が身体刑を廃止したからと言って、刑罰を課す近代的政治権力が人間的に振る舞うようになったなどと考えるのは幻想であることを明らかにしようとしているのだと思います。
フーコーは、マルクス主義の観点からなされたルーシェとキルヒハイマーの先行研究を参考にしながら『監獄の誕生』を書いたようですが、近世における刑罰を、身体への「政治的技術論」(34頁)、つまり政治権力が国民を支配するための方法として、犯された犯罪の深刻さの度合いに応じて人間の身体に対して苦痛を与える一種の政治的技術であると捉えます。近世の政治権力による刑罰をそのように規定し、それと対比することによって、フーコーは近代の政治権力の特徴を明らかにすることを目指しているのでしょう。
フランス革命以前の刑罰は1670年に出された王令によって規定されてきたそうです。その王令の規定していた懲罰の段階は「死刑、証拠留保を伴う拷問、有期のガリー船における漕刑、加辱刑、追放」となっているそうです(37頁)。つまり近世の刑事罰の量刑の段階は、身体への苦痛の度合いによって決められていたわけです。ですから前近代の身体刑は、常に受刑者の受ける苦痛の時間や程度を計算しながら刑罰が実施されていたのでした。しかし中世後期から近世にかけて行われていた刑事司法における前近代性は、刑罰の実施の方法だけに限られていたわけではありません。この時代、被告人には犯罪の証拠も課せられる量刑も実際の刑罰が行われるまで秘密にされていたのだそうです。「司法官はただ自分一人で、しかも全権をもって真実を組み立て、その真実によって被告人を攻囲するのであった」(40頁)とされています。つまり前近代の司法権力には、被疑者に刑罰を課すにあたって、その犯罪を確かに被疑者が行ったという事実を歴史学的・科学的に立証する責任を果たす必要はなかったというのです。これはちょうど、刑事事件の容疑者が検察官によって作成された自白調書に署名するまで保釈が認められない前近代的な現在の日本の刑事司法制度と類似しています。
第一部・第二章「身体刑の華々しさ」の中でフーコーは、身体刑が近世の君主制国家において果たしていた機能を分析します。フーコーによれば身体刑は、司法権力と犯罪者との間で犯罪の真実を明らかにする「合戦」(45頁)であるとされます。また犯罪行為によって一旦傷つけられた「君主権を再興するための儀式」(52頁)であるとも表現されます。その為に身体刑には典礼的(Sacramental)な性格が伴うのです(53頁)。さらに身体刑は、君主が犯罪者に対して司法によって懲罰する権力を持つことを示すと同時に、君主が同じ剣によって(あるいは処刑に立ち会う兵士によって)国家の敵と戦う軍隊を指揮する権力を持つ存在であることを臣民に周知させる儀式でもありました(54頁)。しかし19世紀以降、このような身体刑の執行は残忍極まりないことと見做されるようになり、より「人間的」な刑罰の執行が普及するようになります。けれどもフーコーは、より「人間的」な刑罰の執行においても、身体刑において内在していた権力者側のロジックの多くが、そのまま引き継がれて行ったことを明らかにしています(60頁)。
第二部・第一章「一般化される処罰」は、残虐な身体刑から「人間的」な刑罰への移行がなされる時期が、フランス革命前後の「非行(decadance)」の時代と重なる点に注目します。この時期は、旧制度の権力に対する嘲笑的・愚弄的態度が広く社会に広がっていた時期でもあったのでした。革命前におけるそのような非行の要因は、そもそも君主制という政治体制に起因するものでした。君主制は、一方で刑罰による際限のない権力の誇示を行う一方で、家臣(民衆)の犯罪を放置する傾向をも有するからです(90頁)。そして身体刑とは、国家権力に対する民衆の抵抗の一形態としての犯罪に対する、君主の無制限な権力の行使が結び合わされる結節点となっていたのでした。ですから進歩的な改革派は、検察権力の縮小や、被疑者に判決が下されるまでは彼を無罪とみなすことなどを要求するようになります。そして革命後の19世紀において、君主の無制限な権力の行使という問題は解消されたわけですが、一方で民衆による恒常的な逸脱行為としての犯罪は存在し続けることになります。したがって19世紀のフランスにおける刑罰は、全ての(民衆の)犯罪を排除するためのシステムとして機能したのではなく、犯罪を「差異に留意しつつ管理する」ためのシステムとして機能するようになったのでした(92頁)。19世紀以降に成立する近代的刑罰システムとは、より「人間的」な刑罰という言い方をされていながら、実際には「経済的効率性」に基づいて、犯罪行為を司法が評価し決定しているシステムに転換されたに過ぎないのです。
またかつて身体刑が行われていた時代には、見物人に恐怖心を与えることによって犯罪を抑制することを目指していたのですが、近代精神に基づく権力は、犯罪者に対して、犯罪によって得られる利益以上の苦痛を与えることによって、そしてその苦痛を記憶させ犯罪が経済的合理性に欠けることを印象付けることによって、犯罪を抑制しようとするようになったのでした(97頁)。刑罰の表面的な方法は変化したとはいえ、しかし司法権力が刑事罰を課す場合の論理自体は、本質的には変わりがないし、より巧妙になったに過ぎないということになります。
第二部・第二章の「刑罰のおだやかさ」において、身体刑に代わって重罪に対する刑罰の象徴となる監獄が、ナポレオン帝世期に成立したことへの言及がなされます(119頁)。以後、監禁することが懲罰の基本的形態となったのでした。そしてこの時期にフランス全土には留置場や監獄が瞬く間に整備されます。この大規模な転換は20年ほどのごく短期間で実現したのでした。また興味深いことに、この時期フランスに導入された監獄などの設計は、同時代の英米などですでに建設されていた矯正施設を参考にしてなされていたのだそうです。そして矯正施設(監獄)による刑罰の目的とすることは、犯罪の防止であり、そのために矯正施設(監獄)は、犯罪者の矯正を行う役割を期待されることになります。第二部・第二章の結びには、身体刑から監獄への移行についての分析が示されます。身体刑を課していた政治権力は、刑罰権力の作用を社会空間全体に広げていたのに対して、監獄を生み出した政治権力は、刑罰権力の作用を犯罪人個人に集中するようになったのでした(132頁)。監獄による処罰とは個人に対する国家権力の強制権を行使するための技術でもあったのです。
第三部・第一章「従順な身体」では、「人間=機械論」に関する論述から始まります。ここからフーコーが、初期マルクスの思想の影響を受けていることを読み取ることができます。マルクスの思想は初期の「疎外」(alienation)を中心とする思想と、中期以後の「史的唯物論」(historical materialism)を中心とする思想に区分されますが、フーコーが監獄の誕生のプロセスの中に見出している問題も、マルクスが近代社会の抱える問題として洞察した「疎外」、すなわち人間が機械のように扱われ人間性を喪失してしまう問題と同じであると言えるのではないでしょうか。近代的な刑罰(監獄による処罰)とは、「規律・訓練(discipline)」による犯罪者の矯正を目指す刑罰です。フーコーは、近代的な権力による「規律・訓練」の起源を、近世の学校教育、常備軍、そして17世紀の科学革命に求めます。「規律・訓練」によって人を権力者に服従させるという近代的なやり方は、奴隷制のように他者の身体を主人が所有することによって服従させるのではないという点で、より巧妙です(143頁)。そしてこの「規律・訓練」を政治の世界において貫徹させた人物こそがナポレオン・ボナパルトであったとされます。
さらにこの章では、支配のための四つのテクニークが提示されます。(1)まず「規律・訓練」は、空間をその目的のために設計する作業と不可分であり、従って「規律・訓練」の求められる機関・制度(学校、病院、工場、軍隊の兵営など)は、必然的に類似したフロアプランや構造を持つようになります。従って監獄の空間も、こうした近代的な機関のために設計される建築物と共通の機能を持つようになりました。(2)また「規律・訓練」は近代的な諸機関・制度の活動を時間によって管理することも一律に実践するようになります。遠く遡れば修道院で行われていたような、毎日反復される行為の時間割は、軍隊・学校・工場などで等しく実践されるようになりました。軍隊においては、兵士の行進や銃の取り扱いに至るまで定められた「拍子」で行うことが定められるようになります。(3)さらに近代的諸機関・制度においては「段階的形成」によっても構成員に対する「規律・訓練」が課せられます。一定期間に一定の成果を上げた人物に昇進が許されるような仕組みです。最後に(4)フーコーは、近代的権力が服従を強制する「規律・訓練」の四つ目の方法として「力の組み立て」(力の結合)を挙げます。この方法は、例えば1人の労働者が12時間労働を12日間行なった結果得られる生産量よりも、12人の労働者が同時に12時間労働することによって得られる生産量の方が多いという労働生産性に関する法則を利用するような場合に用いられている手法です。これら四つが組織内の人間に服従を強制する近代的方法であるとされます。ただしこの章の最後に、フーコーはこのような手法を用いた「規律・訓練」による服従の強制というものが、実は古代ローマ帝国における法学者や軍人たちが用いた手法に共通する面があることを指摘し、近代的権力というものが必ずしも進歩的かつ人間的なものではないことを印象付けています(171頁)。
第三部・第二章「良き訓育の手段」は、近代的権力が、国民・組織の構成員に対する服従を強制するための教育的手段について解説します。それは階層秩序と規格化を伴い、これらの技術は特に国民・構成員に試験を課すことによって結び付けられます。
さらに第三部・第三章「一望監視方式」では、功利主義者ジェレミー・ベンサムが開発した「一望監視施設」(パノプテイコン)に話題が移ります。「一望監視施設」では監視塔を中心点にして円周状に囚人たちの独房が配置され、監禁されている囚人たちは監視員から常時監視され続け、監視員とのみ対話が可能な状態に置かれますが、監禁されている者は隣の囚人と会話できないように壁で仕切られるのです。このような「一望監視施設」の監視塔に立って見張りをする者は、この構造によって自動的に監禁されている囚人たちに対する権力を保有するようになります。ここにも近代的権力の一つの特徴が示されているのです。この「一望監視」的なシステムは、学校などにも応用され、所属する構成員の監視のために役立てられるようになります。このシステムが最も効果的に用いられているのは、現代のテレビなどのメディアということになるのでしょう。メディアの背後にある権力は、まさに一望監視的なやり方で、国民に対して権力者に都合の良い情報を流し続けることができるからです。そしてこのような効率的な囚人監視システムが、皮肉にも功利主義者ベンサムによって考案されたということに、フーコーは注目しているのでしょう。英国の功利主義は、アダム・スミスの古典的自由主義経済学説の拡大にも影響を与えています。ですからフーコーは「一望監視方式」による監獄は、近代資本主義社会において誕生すべくして誕生したシステムであると考えているのではないでしょうか。第三章の最後で、フーコーは、近代の監獄が、近代の工場、学校、兵営、病院と類似した構造を持っていることを指摘し、それによって近代人の生活がいかに抑圧的なものとなっているかを暗示しています。
第四部・第一章「完全で厳格な制度」では、19世紀にフランスで誕生する監獄についての分析がなされます。監獄は、受刑者の時間を先取りすることによって極めて合理的に刑罰を課すことができます。時間は、つまり受刑者が社会生活を送っていた場合のその期間の収入などによって金銭的に計量化することが可能であるからです。そのような合理的な刑罰を課すことによって受刑者の矯正を目指すわけです。監獄は、他の規律・訓練のシステムと比較して、最も強力に受刑者を服従させる力を保有する機関でもあります。そういう意味で監獄は近代的権力が最も強力に、また最も典型的に行使される場所ということになるのでしょう。
第四部・第二章「違法行為と非行性」では、身体刑から監獄制度の導入に伴って、たとえば徒刑囚に課せられていた刑罰のやり方がどのように変化したかについて説明されます。かつては見せ物のように鎖に繋がれた徒刑囚たちを刑場に連れて行くというやり方が行われていましたが、これは七月王政の時代に廃止され、その後は独房のような部屋を備えた幌付きの囚人護送車を使用して連行するやり方に変化します。このような護送車を走らせることにも民衆に対する政治的効果が計算されていたのでした。けれども、本来精神の矯正を目的として導入されたはずの監獄制度も、残念ながら19世紀フランスにおける再犯率を低下させることには繋がりませんでした。地域によっては再犯率が50%にものぼることがあったそうです。つまり監獄はむしろ非行者を作り出している面もあったのでした。ですからフーコーは、監獄という制度が、犯罪者を矯正する力によってその存在意義を立証し、それによって存続し続けて来たのではなく、むしろ近代的権力による服従の強制のための「仕掛け」として、権力が必要とし続けていることに、根本的な存在理由があると指摘します(269頁)。「監獄」が違法行為を社会から減少させる目的のために存在しているというよりは、むしろ近代社会における違法行為や非行者を管理するためのシステムとして、近代社会の秩序の維持に必要とされているからだと説明されるのです。監獄のシステムは、種々雑多に現れる違法行為を分類し、刑期の長さなどによって規格化しているわけです。また19世紀フランスの支配層であるブルジョア階級は、非行者の存在を民衆から切り離す装置としても監獄を利用していたとされます。そのような限りにおいて監獄は近代的権力が犯罪司法に関して目指す目的に貢献しているのでした。
最終章「監禁的なるもの」の書き出しで、フーコーは、フランスにおける監禁制度の完成の年月日を1840年1月22日とします。これは何の変哲もない日付ですが、この日、メトレー施設という、当時最も完成された矯正施設に収監されていたある少年が、臨終の苦しみの中で「こんなにも早々とこの集落施設(コロニー)に別れなければならないとはなんと悲しい」と語ったとされるのです。この少年の発言は、一人の若い違法行為者を近代的権力が完全に手懐けることに成功した事例として紹介されているのでしょう。このような時代区分の設け方にも、フーコーという人のシニカルな性格が現れているような気がします。そして本書は『ラ・ファランジュ』という新聞に無署名で書かれた記事の引用で締めくくられます。そこの記事には1836年当時のパリの見取り図なるものが記されています。この見取り図の中央部の第一の囲いには施療院・救貧院・狂人施設・監獄などがあり、その周りには兵営・裁判所・警察や議会・学士院・王宮があり、その外側には内側に食料などを供給する商業施設や工業施設、新聞メディアや下層民と非情な金持ちが配置されているのだそうです。この新聞記事は、本書冒頭の1757年にノートルダム大聖堂前でのダミヤンに対する身体刑による処刑の描写とは対照的です。この記事を書いた無名の新聞記者は、19世紀のパリにおいては、「規律・訓練」を行う装置としての「監獄」こそが、政治的権力の核心に位置付けられるべきだと、皮肉を込めて書いたわけです。
このように『監獄の誕生』によれば、近代的権力は階層化と規格化による服従のための教育を民衆・構成員に対して課すことによって、その権力を巧妙に行使するようになったわけですが、私はフーコーのこのような分析の中に、5-6月に取り上げたホッブスの『リヴァイアサン』が切り拓いた近代政治学理論との関連性を読み取ることができるように思われました。『リヴァイアサン』は政治理論を、人間論、特に人間の行動を導く心理学に基礎づけようとしました。ホッブスは、人間の行動が人の欲求と不安・恐怖心との間のせめぎ合いの中で決定されると分析していました。もし近代政治学理論が、そのような方法を出発点としていたとすれば、近代的権力が国民に服従を強制する場合、そのような人間を心理的に操作する手法が高度に発達するようになったことは、ある意味で当然の帰結であったのでしょう。近代社会が続く限り、権力者は国民を管理しようとし続けるわけですし、そのような巧妙な力によって発生する現象としての「人間の疎外」も、近代社会は避けることのできない課題であり続けるのではないでしょうか。
フーコーに代表されるポスト・モダンの思想などによって、19世紀から20世紀前半まで当然のこととみなされていた人類史の進歩という考え方は疑問視されるようになりました。近代社会の形成を支えていた理念、即ち基本的な人権や自由、法のもとの平等や法の支配、国民主権や民主主義などの理念について、それらのスローガンは近代的権力が表向きに支持している仮面に過ぎず、権力行使の実態はそのような崇高な理念とは異質な原理によって突き動かされている面がある。フーコーは近代社会についてそのような懐疑的な見方を提示したのだと思います。
では私たちは近代国家・近代社会の形成という未完のプロジェクトを放棄した方が良いのでしょうか。そして伝統的な民族主義や家産制的支配、あるいは権威主義的体制などに留まるべきなのでしょうか。私はそうは思いません。この問題に関して、橋爪大三郎という社会学者が語っていたことに私も同意します。もし300年ほどの年月をかけて西欧思想が築き上げた近代社会を支える思想を克服し、人類がこれに勝る理念を提示することができるようになったら、その時には近代国家・近代社会形成のプロジェクトを放棄して、新しい目標を目指せばよいのです。けれどもこれに勝る理念や思想を未だ見出せぬうちは、我々はこの近代国家・近代社会のプロジェクトを継続することの方が望ましいのではないでしょうか。
近年ヨーロッパやアメリカでは極右勢力が台頭し、近代社会の価値が揺るがされかねない状況が生まれつつあります。しかし極右台頭の原因は、中東やアフリカや中南米などの民衆が欧米に避難所を求めてやってきていることにあります。それはかつての植民地支配によって生じた歪みの結果と見ることもできますが、同時にこうした地域の政府が公正な政治を行うことができずにいる一方で、近代社会形成の努力によって積み上げられてきた欧米の政治と社会が、他よりも優っている面があるからでもあるように思います。ですからポスト・モダンの思想家たちの近代社会批判に傾聴しつつも、近代化のプロジェクトそれ自体を現時点で全て放棄する必要はないのではないでしょうか。むしろ近代社会の生み出す弊害を是正する努力を私たちは今後も続ける必要があると思われます。
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