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トーマス・ホッブス『リヴァイアサン』(三)・(四)、水田洋訳、岩波文庫、1982-85年



 ホッブスの『リヴァイアサン』は、イングランドが内戦状態に陥ったことへの反省から、将来どのようにして政治的無秩序を回避することができるのかという切実な課題に対して、ホッブスが科学的な分析に基づいて提示した処方箋が示されている書物です。17世紀イングランドに固有の政治的状況に基づいていることや、彼が想定した自然状態に関する議論の抽象性などのゆえに、本書は既に過去の政治思想書と見做されるかもしれませんが、ホッブスの主張には、日本のような近代社会の成熟途上にある国では依然として傾聴すべき内容が含まれています。前回そのようなことをこのコーナーで書きました。


 例えば人の自然権(自由)を拘束する法は自然法もしくは実定法でなければならない、というホッブスの主張の意義を果たしてどの程度日本人が理解しているでしょうか。これは個人の自由を縛るルールは、誰もが受け入れている普遍的な法であるゆえに文書化する必要がない場合か、或いは主権者によって定められた法律(実定法)である場合かのいずれかでなければならない、という主張です。なぜホッブスがこのような主張を行ったかと言えば、それはチャールズ1世が行なった失政を明確にする為であったからなのでしょう。事前に告知されていない法によって人が犯罪者とされてはならない。権力者は、自分の支配下にある人間を恣意的に支配してはならず、処罰を与えるのは、事前に通知しているルールに違反した場合だけでなければならない。全てのルールが文書によって明示され、全ての人に開示されている、そのような社会でなければならない。ホッブスはそのように論じつつ、チャールズ1世の専制政治の誤りを正そうとしたのだと思います。


 しかし日本では、17世紀イングランドでホッブスが不正であると看做したような事例が、依然として後を絶たないのではないでしょうか。例えば、2002年に背任と偽計業務妨害で有罪となった元外務省の主任分析官であった佐藤優さんは、小泉政権の時代に当時の田中外相が巻き起こした騒動の最中に、佐藤さんや鈴木宗男氏を疎ましく思っていた人々によって、極めて軽微な事柄で犯罪の嫌疑をかけられ、国策捜査によって有罪とされてしまいました。控訴審では外務省ロシア・チームのかつての上司であった東郷和彦氏によって、佐藤さんが行ったことは全て外務省の決裁を経ていることであり、外務省が組織として行ったものであったとの証言もなされていました。それにもかかわらず、この問題に関する外務省の決裁資料は廃棄されてしまっており、裁判官は東郷和彦氏の証言を考慮して判決を下すことはなかったのでした。こういう国策捜査が行われ、当時の外務省首脳にとって都合の悪いと思われた人物を、手続き上は合法でも、極めて公正さを欠く方法で(というよりも公文書を勝手に廃棄するという不正によって)訴追され、失脚させられてしまうという現在の日本の司法制度も、ホッブスなら自然法にも市民法にも反する制度であると厳しく批判したことでしょう。日本の司法制度にはまだ前近代の遺風がかなり残っているのです。


 とはいうものの第一部・第二部もそうではあるのですが、殊に『リヴァイアサン』の第三部と第四部を読むことは多くの日本人にとっては一層骨の折れる作業です。なぜなら第三部のテーマはキリスト教的コモンウェルスであり、西欧キリスト教社会(Corpus Christianum)における政治を論じる部分だからです。異教社会を背景とする日本人にとっては、キリスト教会と世俗国家とが密接に関連していた中世から近世の西欧キリスト教国の状況をイメージすることは容易ではありませんし、特に17世紀イングランドにおいて教会と国家の関係に関して、どのような問題が存在していたのかなどは、多くの日本人にはほとんど知るよしもありません。しかも第一部・第二部の議論で、ホッブスの政治に関する科学的研究はほぼ尽くされているように思われるのであって、そもそも第三部・第四部は何のために書かれたのか、という疑問を感じる日本人読者は少なくないことでしょう。実際、日本のようにキリスト教の伝統の存在しない国では、第三部・第四部の議論は省略しても、ホッブスの主権国家の設立に関する主張を理解するのには支障はないと思われるかもしれません。


 ではなぜホッブスは第三部・第四部を書いたのでしょう。それは第一部・第二部で展開した社会契約に基づく主権国家の設立が科学的な政治学の根本理論であり、平和な国家の維持のために必須であるという彼の主張を、聖書によって裏づけるためです。第一部・第二部でホッブスは、主に人間論に基づいて彼の政治理論を確立しようとしたのですが、第三部・第四部では、法のもう一つの源泉である神の啓示の書(聖書)に基づいて、彼の理論を立証しようとしたのです。ホッブスの聖書解釈によれば、聖書も第一部・第二部の主張を支持するとされます。このように社会契約思想の形成には聖書とキリスト教神学も影響を与えていますし、そのことを最も明瞭に示しているのが『リヴァイアサン』第三部です。と言うことは『リヴァイアサン』第三部・第四部は、特に日本のキリスト教会が、キリスト教社会倫理や教会法を考える上で示唆に富む内容を含んでいるはずです。21世紀日本という国で『リヴァイアサン』第三部・第四部を読むことで恩恵を受けるのは、主にプロテスタント・キリスト教徒ではないでしょうか。


 そんなことを思いつつ、今回は『リヴァイアサン』第三部と第四部を紹介致します。


 第三部・第三十二章は「キリスト教のコモンウェルス」について論じます。キリスト教のコモンウェルスとは、つまり当時のイングランドのようなキリスト教社会(Corpus Christianum)のことも想定しているのでしょう。キリスト教のコモンウェルスについて議論する際に、ホッブスはまず啓示から出発します。これは自然的コモンウェルスを議論する際に、まず人間論(自然的原理)から出発したことに対応しています。神の啓示には超自然的な事柄が含まれるにもかかわらず、それが人間の自然理性に反するものではないとホッブスは理解します(3:26頁)。ただ啓示のうち、直接啓示はもはや真の啓示であるかどうかを判断することができないために、神の啓示としては「聖書のみ」を参照すべきであることを明言します。この点でホッブスはプロテスタント宗教改革の神学をある程度受け入れる思想家であったと言えます。


 第三十三章で、ホッブスは正典としての旧新約聖書の範囲を確定した上で、聖書を批評的に分析し、旧約聖書の書物の中には、それが記録している時代よりも後代に成立した書物があると考えます。そして聖書が神の言葉であるということをもはや奇跡的な方法で裏付けることができない以上、人間の自然理性に一致する限りにおいて聖書の内容を神の言葉と受け入れるべきであると考えます。なぜ自然理性に一致する限りにおいてなのかと言えば、それはこの時代の西欧知識人・思想家たちが、人間に与えられている理性こそが、神の似姿に形作られた人間に神の属性として付与されている部分であると考えられていたからなのでしょう。


 キリスト教のコモンウェルスを考えるために、聖書についてかなりの分量を割いて論じられる理由は、教会の中で聖書が「正典」(Canon=規範)と称され、キリスト教社会における神の定めた規範を示す書物であると理解されて来たからです。ですからホッブスは聖書をキリスト教社会における法の源泉の一つだとみなしています。第一部と第二部では、ホッブスはすでに自然法と信約に基づいて設立された主権者の定める市民法(実定法)について論じていました。ホッブスとしては、この第二部までの議論で、自然的コモンウェルスにおける法の基盤を解明したと考えていたのでしょう。ただ当時のイングランドのような西欧キリスト教社会においては、もう一つ法の源泉がありました。それが旧新約聖書です。ホッブスは、第三部において、キリスト教的コモンウェルスの法の源泉としての聖書を理性に照らして解釈し、既に第一部・第二部で展開した議論を聖書も支持していることを明らかにしようとします。


 第三十五章では「聖書における神の王国、そのほかの意味について」論じられます。ホッブスは、聖書における「神の国」が同時代の神学者たちが考えていたように霊的・比喩的な存在ではなく、現実的な王国であると解釈します(3:85頁)。ホッブスの時代の神学者たちの中には、イエスが「私の国はこの世のものではありません」(ヨハネによる福音書18:36)と言われた言葉に基づいて、イエス・キリストの説いた「神の国」が霊的な存在であり、字義通りの地上の国家ではないと考える人々がいたのでしょう。しかしホッブスは、「神の国」とは、モーセの指導のもとに成立した古代イスラエル国家のように地上の王国であると主張します。そして旧約聖書における神の国の成立について論じるにあたって、ホッブスは、まず創世記2-3章のエデンの園における神の命令と人間の堕罪に言及します。その後でホッブスは、旧約聖書の神の国の起源としてアブラハム物語について語り始めるのです(3:79頁)。このホッブスの論述の流れには「業の契約」と「恵みの契約」という概念によって旧約聖書の原初と族長の歴史を解釈したピューリタン契約神学の影響を認めることができます。


 アブラハムに始まる古代イスラエル民族の歴史が、旧約における神の国の歴史ということになるのですが、ホッブスはこの旧約における神の国は特定の国民に対する神の政治的主権であると説明します。なぜなら神とアブラハムとの契約(信約)は、モーセを仲介者としてシナイ山で更新されますが、このシナイ契約によって、神は主権者となられ、モーセを神の代理人とする主権国家が形成されたとホッブスは考えるからです(3: 80-81頁)。彼の主張の根拠となるのは出エジプト記19:6です。共同訳聖書では「あなた方はわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」となっていますが、古来このテキストには、ヘブライ語本文においても古代訳聖書においてもいくつかのバリエーションがありました。「祭司の王国、神聖な国民」というフレーズは、特に地上における神の国を体現するとの自負を持つローマ・カトリック教会にとって有利なテキストのように思われますが、ホッブスはこれを「祭司的な王国」と解釈し、文字通り祭司が統治する王国であるとは考えません。一見些細なことのように思われるかもしれませんが、ホッブスはこのような解釈によってエリザベス1世の国王至上法を擁護しているのでしょう。英国王こそがイングランドの主権者であると同時にイングランド国教会の首長でもある。そのような体制を旧約聖書の神の国は支持しているとホッブスは考えるのです。このホッブスの出エジプト19:6の解釈は、第四部においてキリスト教会を神の国と同定することに反対する議論とも関連します。


 第三十九章は「聖書における教会という語の意味について」です。なぜ教会について論じなければならないかと言えば、イングランド王国の歴史においてイングランド宗教改革が持つ意味が大きかったからなのだと思います。ヘンリー8世の時代に出され、エリザベス1世によって確認された国王至上法(首長令)によって、イングランド国内のキリスト教会は、全てイングランド国王の支配下に置かれることになりました。しかし西方キリスト教の歴史において、このようにキリスト教会が全面的に世俗権力に従属するという状態は、常にあった状態ではないし、また望ましい状態と見做されてきた訳でもありません。11世紀に始まるグレゴリウス改革は、中世前期の大陸のキリスト教会や修道院が世俗権力者たちの支配下に置かれた状態にあったことによって教会や修道院に腐敗や堕落がもたらされたと理解し、キリスト教会を世俗権力から独立させる運動を推進したのでした。当然のことながら、このようなキリスト教会の動きは、領域主権の確立を目指した近世の王権と衝突することになります。さらに宗教改革運動は教会と国家の問題をさらに複雑にする面がありました。


 ですからホッブスも、イングランドにおける教会と国家の問題を改めて整理する必要があると感じていたのではないでしょうか。ホッブスは、イングランド宗教改革によって確立された国王至上法を擁護します。なぜこれを擁護するかと言えば、聖書によればキリスト教会は、一人の主権者であるイエス・キリストによって統治されるべき合議体であることが示されているからだとされます。それがキリスト教会の存在形態である以上、イングランドにおいても、一人の主権者(国王)の元に教会が合議体を形成するということは妥当であるとされました。そして一人の主権者(国王)に服従しない合議体(エクレーシア)は合法的にイングランドに存在してはならないとも主張します。これによってホッブスは、ピューリタン革命/内戦期に議会軍内部で頭角を表すようになった急進派ピューリタンたちの教会論を退け、国教会体制を守ろうとしている面があるのかもしれません(3:164-66頁)。


 しかし同時に、ホッブスは、イングランド宗教改革の大義を擁護するために、ローマ・カトリック教会をイングランドから排除する議論も展開します。そのようなホッブスの意図は、地上には「普遍的な教会」というものは存在しない、という主張に込められています。確かに聖書は、教会が一つであると教えてはいるものの、ホッブスは、それが天上の教会の姿、あるいは来世的な教会の姿なのであって、現実に地上に存在する教会は、たとえばローマ・カトリック教会のような普遍的教会に統合されなければならない訳ではないと主張します(3:166-67頁)。さらにホッブスは、国教会体制を擁護するために、自然的(世俗的)国家とキリスト教的コモンウェルスとは合同であると主張するのです(3:167頁)。もしそうであれば、第二部で市民的国家に関してホッブスが展開した議論は、ほぼそのままキリスト教的コモンウェルスの統治にも適用されるということになります。そしてホッブスの教会と国家に関する立場は、教権に対する俗権の優位を論じたエラストス主義であったと言えます。


 このエラストス主義の教会論を擁護するために、ホッブスは第四十章で、旧約聖書の古代イスラエルの歴史に訴えます。確かに古代イスラエルとはまさに市民的国家と宗教的国家とが一体となっていた国家でした。そしてこの章で、神とアブラハムとの信約が、アブラハムの子孫(イスラエル民族)に世襲的に伝承されて行った事実を創世記に基づいて指摘します。ここまで来ると、なぜホッブスが第三部でキリスト教のコモンウェルスについて多くの頁を割いて聖書から論じようとしたのか、その理由が明らかになります。つまりホッブスはイングランド国教会の首長が世俗君主たる国王であることを擁護したかったのでしょう。さらに言えば、アブラハムへの信約は、世襲制のイングランド国王が教会の首長であり続けることをも正当化してくれる面があります。


 旧約聖書における神の国の起源はアブラハム契約に求められるのですが、同時に旧約聖書の神の国は、シナイ契約において古代イスラエルというコモンウェルスの「設立」(Constitution)によって実現したとも説明されます(3:172頁)。ホッブスは、シナイ契約におけるモーセの役割を重視します。モーセの権威は、アブラハムの世襲による権威を継承したのではなく、モーセが神の言葉を取り次いでいることをイスラエルの民が承認した出来事に基づいて設立されたと解釈されます。ですから旧約聖書の神の国において神の代理人であったモーセは、イスラエルの民との間の信約によって設立された主権者であるとみなすことができるとされています。このようにシナイ契約の出来事は、ホッブスの社会契約説を支持する重要な聖書的根拠と見做されるのです。


 第四十一章は「我々の祝福された救世主の職務について」論じます。この章で、ホッブスは、旧新約聖書の救済史に関して一つの見通しを提示します。その見通しによれば、イエス・キリストが文字通り王となる王国は、キリスト再臨後に到来するものであって、現在の時代の王国ではないとされます。その結果、キリスト再臨までのキリスト教社会(Corpus Christianum)は、基本的に旧約聖書のイスラエル国家の延長線上に存在するものとされることになる訳です。この章において、ホッブスが前章で論じていた、古代イスラエル王国におけるアブラハム以来の世襲的な主権者による支配と、シナイ契約以後のモーセによる市民的主権者による支配とが混在する国家であるとの見方が、より明確に示されます。なぜならホッブスによれば、第二神殿期ユダヤ教の国家は、「モーセの座」、すなわち市民的主権者が、外国の支配者によって簒奪された状態であるとされ、キリストの時代のユダヤ教の国家においては、ローマ帝国が「モーセの座」を占めているとされるのです(3:193)。


 第四十二章では「教会権力について」議論されます。この章が、第三部で最も多くの紙面を割いて論じられている章です。第四十二章でホッブスが主張した重要な論点の一つは、旧新約聖書がそれ自体ではキリスト教的コモンウェルスの法ではなく、旧新約聖書の命令がコモンウェルスの法と定められるためには、主権者による承認を必要とするという点にあると思います(3:242, 249頁)。ホッブスはそのことの論拠として、旧約聖書に関しては、モーセ五書の権威の背景には、政治的主権者でもあったモーセとアロンの存在の裏付けがあること、また旧約諸書が実質的に法的規範として承認されたのは捕囚後のエズラの時代にまで降るとされ、エズラのような祭司たちによるユダの支配のもとで旧約聖書の法的権威は確立されたことなどを挙げています。一方新約聖書に関しては、コンスタンティヌス体制の成立以降に、教会の新約正典が定められたことを根拠としています。そのように論じることによって、キリスト教社会においても、神の権威だけを根拠として、聖書の法的規範をキリスト教社会の法とすることはできないのであり、聖書の法的規範が社会において強制される為には、キリスト教国の主権者の承認が必要であると論じる訳ですが、この点からもホッブスがエラストス主義を擁護していたといえます。ただ聖書の規範が、主権者の承認なしには法律とはなり得ないというホッブスの主張は、後でも触れますが、現代のキリスト教会が聖書に基づいて組織運営を行う場合に意味を持つ主張であると思います。


 第四十二章には、イングランド国教会体制を擁護し、ローマ・カトリック教会のイングランドにおける復興に反対する狙いも認められます。例えば使徒言行録によれば、ユダが裏切った後に生じた12使徒の欠員を補充する際に、エルサレムに集まっていた120人のイエスの弟子たちは、マッテヤという人物を選任しますが、この選任に当たって、確かにローマ・カトリック教会が重視する使徒ペテロが主導的な役割を果たしたものの、マッテヤを選ぶ方法は資格のある人物をくじ引きで選んだのであって、使徒ペテロの権威によって使徒の補充が行われた訳ではありませんでした。ホッブスはその事実を指摘することによって、使徒の権威を持つ人物(聖職者)の選任は会衆の合議に基づくのであって、使徒ペテロの権威に由来するものではないと主張します(3:252頁)。さらにホッブスは、マッテヤに限らず、初代教会における聖職者の選任は、各都市のキリスト教会という合議体の選挙に基づいてなされた事実に言及します。このような古代教会における選挙による聖職者の選出については、すでにカルヴァンが『キリスト教綱要』4.4.11において指摘していました。あるいはホッブスもそのようなカルヴァンの記述を受け入れていたのかもしれません。このように初代・古代教会における聖職者の選任が合議体の選挙に基づいていたと指摘することによって、ホッブスは、キリスト教国家における主権者の設立も、自然的国家における主権者の設立も、本来同じ方法によってなされていることを示そうとしているようです。


 続く箇所(3:268頁以下)で、ホッブスは、キリスト教国におけるキリスト教信徒である主権者が、その国のキリスト教会における役割は何であるかを論じます。結論から言えば、ホッブスは、主権国家における臣民の聖職叙任は、主権者のみに属する権能であるとします。つまりホッブスは、11世紀のグレゴリウス改革以来、西方教会においてローマ・カトリック教会が主張してきた教皇による聖職叙任権総覧の主張を退け、聖職者の任免権は、その国の主権者に帰属するとの議論を展開します。ホッブスは国王のような国家の最高主権者には、神的権能と政治的権能の両方が与えられていると考えているようです(3:272頁)。恐らく、このような主張の故に、ホッブスは絶対王政のイデオローグであると誤解されていたのでしょう。しかしホッブスは、このような神に由来する権能の議論を、あくまでの聖職叙任権に関連する議論の中でのみ行っています。ホッブスは、イングランドにおいて国王のみがイングランド国内の聖職者の任命権を持つことをここで正当化しようとしているように思われます。そしてこの主張の根拠には社会契約説も関連します。なぜならホッブスは、キリスト教会の聖職者の任命権が必ずしも神にのみ由来するのではなく、主権者を設立した臣民から委託されている権能としての側面も併せ持つと考えているからです。


 第四十三章のテーマは「人が天の王国に受容されるために必要な物事について」です。ホッブスは、イングランド内戦の原因が、神への服従と人への服従とが対立するケースにあると考えていました。内戦期に国王に反乱を起こした人々は、神への服従という大義を掲げていたからです。ホッブスは、キリスト教徒が神への服従を優先させて、国王への服従を拒否することが許されるケースは、国王の命令に従った場合に天の王国に入ることができなくなるケースに限られることを示し、むしろキリストへの信仰と法への服従は、本来互いに矛盾するものではないことを主張します。


 この章でホッブスは、キリスト教の救済に必要な信仰は、ただ「イエスはキリストである」という言葉を信じるのみであると述べます(3:345頁)。ホッブスは、イエス・キリストの十字架による贖罪や復活による永遠の命の希望など、この「イエスはキリストである」との信仰に集約されると考えます。そしてこの信仰と主権者の定める法への服従とは矛盾しないと主張します。ホッブスがなぜそう考えるのかといえば、イエスをキリストと信じ、イエス・キリストによる神の国の到来を信じる者は、悔い改めの姿勢をももつはずだからであり、キリストにある悔い改めは人を法への服従に導くはずだからです。この議論をするにあたって、ホッブスは、プロテスタント宗教改革の神学的突破口であった「信仰義認」の問題を意識しながら信仰と法への服従の両立を論じます。ルターが主張した「信仰義認」は、人が行いによらず、ただイエス・キリストへの信仰によってのみ義とされるとの確信に立ちます。ただしばしば指摘されるように、ルター的な信仰義認論を受け入れるなら、キリスト者が法への服従によって義を行うことが軽視されかねない面もありました。ルターの場合は律法から福音へのシフトが重要であったからです。それに対してカルヴァンにおいては律法の第三用法として救いへの感謝の応答として律法に従う生活をするということの意義が強調されていました。ですからホッブスの主張、即ちイエスをキリストと信じる信仰と法への服従は矛盾しないとする主張は、どちらかというとカルヴァンに近いと言えるかもしれません。


 以上のように第三部は信仰義認に関する議論で締めくくられています。ホッブスは、特にイングランドにおいてプロテスタント宗教改革の伝統を継承していたピューリタンたちに対して、キリスト教君主への服従がプロテスタント信仰と矛盾しないことを訴えようとしたのでしょう。


 第四部の「暗黒の王国」は、そのタイトルから、異教・異端などが支配的な国家について論じているかのような印象を与えます。この「暗黒の王国」には、ホッブスの聖書解釈とは異なる聖書解釈に基づき、神の国などに関して異なる立場に立つ人々を批判する内容も含まれています。ホッブスがこの章で主なターゲットとしているのはローマ・カトリック教会です。


 第四部・第四十四章は「聖書の間違った解釈からくる霊的暗黒について」論じられます。この章で批判されているのは、やはり地上のキリスト教会が神の国と同一であるとするローマ・カトリック教会です(4:21頁)。ホッブスがローマ・カトリックの見解を批判する理由には、イングランドを「エリザベスよる調停」(Elizabethan settlement)に基づくプロテスタント国家としての体制を維持するという意図があったからなのでしょうが、同時にホッブスは、キリスト教会が十分の一税の徴税権を、世俗権力による徴税権とは別個に保有しているという議論を退けようとしている面もあるのではないでしょうか。ホッブスは、キリスト教会を神の国と認めてしまうことによって、イングランド国民の租税負担が過度に重いものとなること反対しているように思われます。さらにホッブスは教会法の問題について、キリスト教会が神の国であると主張することによって、市民法とは異なる法体系としての教会法が存在することになりかねないことを懸念しているのだと思います。教会においてのみ有効な教会法の存在を認めてしまえば、イングランドの国内に主権者の制定する法律が及ばない領域が生じることを認めてしまうことになります。ホッブスはそのような主権者の実定法からは独立した教会法の存在を認める立場は取らなかったのでしょう。


 続いてホッブスは、聖職者などを聖別する叙階の秘蹟には、何ら霊的効力がある訳ではなく、このような秘蹟に魔術的・呪術的意味を認め、聖別された人物に特別な神の力が宿るかのように理解することを批判します。この点でホッブスは、16世紀の宗教改革者たちが、カトリックの聖餐における実体変化説を批判した神学的立場を受け入れていると言えます。さらにホッブスは、ローマ・カトリック教会の神学者ベラルミーノが擁護した煉獄の教理には聖書的根拠がないことを論証します。


 この第四十四章後半の議論は、第四十五章は「魔物学(Daemonology)およびその他の異邦人の宗教の遺物について」と関連しています。ギリシャ語Δαιμῶν(ダイモーン)は一般的な「霊」という意味です。しかしキリスト教の観点からはギリシャ語のダイモーンは悪霊を意味し、悪霊の背後にはサタン(悪魔)が存在するとされています。この章で主に批判されているのは、従って、正統的プロテスタント・キリスト教の立場から悪霊の働きと見做される事柄であり、それは例えばローマ・カトリック教会における異教的な伝統の残滓とされる聖画像崇拝、列聖などであるとされます。またローマ教皇が古代都市ローマから継承したPontifex Maximus(最高神祇官)の称号も異教の名残とされます。従ってこの章での批判の対象もローマ・カトリック教会の教義や伝統です。


 第四十六章は「空虚な哲学及び架空の言い伝えから生じた暗黒について」論じています。ホッブスは、哲学的思索が文明社会には不可欠なものであると認めます。ではホッブスが古代ギリシャ哲学の伝統を高く評価しているのかといえば、必ずしもそうではありません。ホッブスにとってギリシャ哲学とは、近代科学の勃興しつつある時代にもかかわらず、アリストテレスの著作に基づいて思考し続ける旧態依然たる当時の大学のスコラ学を想起させるのだったのでしょう。そしてアリストテレス哲学の影響によるスコラ学の誤謬は、神学を通じてキリスト教会にも持ち込まれているとホッブスは考えました。従ってこの章でも、ホッブスの批判の矛先は、依然としてスコラ学の影響を強く受けていたカトリック教会の神学に向けられています。


 第四十七章は「そのような暗黒から出る利得について、及びそれが誰に帰属するか」について論じられます。ホッブスは、この章で、第四部で指摘してきた誤った教義によって利益を得ているのは誰かを問います。それは第一にはローマ・カトリック教会です。地上の教会が神の王国であると主張するカトリック教会は、教会を通してコモンウェルスの支配にも関与する口実を得ており、それゆえに神の国の誤った解釈によって利益を得ているのはローマ・カトリック教会であると指弾します。しかしホッブスは、イングランドにおいては、ローマ・カトリックと同じ誤謬を長老派ピューリタンも犯していると主張します。第四部の議論の中で、直接的に長老派ピューリタンの神学や実践を批判する内容は、ざっと読んだ限り、明瞭には語られていませんでした。ところが第四部の最後になって、ホッブスはいきなり長老派を「暗黒の王国」に加えてしまうのです。この論理の飛躍は緻密に論理構成されている『リヴァイアサン』の中でとりわけ説得力の乏しい部分ですが、ホッブスは余程長老派ピューリタンが嫌いだったのかもしれません。


 ただ長老派と共に国王処刑に加担した独立派ピューリタンへの批判はありません。それはホッブスが『リヴァイアサン』を書いた当時、イングランドを支配していたのが独立派のオリヴァー・クロムウェルであったからでしょう。ホッブスは内戦後の祖国イングランドに戻るために、あえて独立派への批判は封印する形でこの書物を出版したのかもしれません。


 『リヴァイアサン』第三部・第四部の議論はざっとこのようなものでした。通読して気付かされることは、社会契約思想の形成が聖書とキリスト教神学の影響抜きには語りないものであったということです。無論、ホッブスの議論や解釈の全てを日本のプロテスタント・キリスト者が受け入れることができる訳ではないことは明らかです。とはいえ人間の意志が理性に基づいて発揮される訳ではないという現実主義的な人間観などは人間の罪性を教える聖書の人間観と通底する部分もあります。また国家の指導者というものが、国民の総意を体現する人格であるとホッブスが考えた背景には、三位一体論における位格(persona)の概念や、イエスと言う人格に神性が受肉するというキリスト論の受肉神学の影響を認めることができます。もしイエスの人格に神性の受肉ができるのであれば、一人の主権者の人格に国民の総意が受肉すると言うこともまた可能であると考えられたのでしょう。さらにシナイ契約を民が受け入れたことによって、モーセを指導者とするイスラエル国家が成立したという記述、またサムエルの時代に古代イスラエル民族の要望を受けて、提示された条件に民が同意したことに基づいて、イスラエルに王政が設立されたと言う記事などは、確かに信約に基づく自然権の譲渡により主権者を設立するという「社会契約説」を裏付ける聖書箇所と解釈することも可能であると思います。加えて『リヴァイアサン』は、プロテスタント宗教改革の提唱した「聖書のみ」や「信仰義認論」も継受しているだけではなく、同時代のピューリタンたちの間に広がっていた契約神学(Federal Theology)の影響も受けていました。ですから歴史的正統信仰に立つプロテスタント・キリスト教徒が、政治思想に関して社会契約説を採用するということは必ずしも信仰と矛盾するわけではないと思います。


 ホッブスが『リヴァイアサン』の中で一貫して貫いている姿勢は、聖書を理性的に解釈することが可能であるという確信です。17世紀の思想家たちは人間の理性も聖書(神の啓示)も共に神に由来すると信じていたからです。歴史的プロテスタント信仰に立つ者は、もちろん、このホッブスのような前提を無条件で承認することはできません。人間の理性は、罪深い人間の性質の影響を受けており、仮に人間が正しく理性を用いているつもりであったとしても、そのような理性の使用によって導かれる考えや判断が神の御心と常に一致しているとは限りません。我々は理性を適切に用いることを退ける必要はありませんが、理性的な判断は常に神の啓示である聖書によって検証されなければならないと思います。


 しかし同時に人間の理性に対して聖書の優位性を重視する立場は、もう一方の極端に振れてしまう危険性もあります。それは理性や法を無視して、利得や情念に動かされて聖書を利用するという極端です。この問題は、現代の日本のプロテスタント・キリスト教会の一部においても切実な問題であると思われます。プロテスタントのキリスト教徒の中にも、聖書の教えが即座に世俗法・市民法を超越するものであり、聖書を神の言葉と信じるキリスト教会は世俗法・市民法にとらわれずに直接的に聖書の教えに従うことが望ましいと考える人々が存在します。しかしホッブスは、キリスト教的王国における法の基盤である聖書の教えも、主権者の承認と制定がなければ法とはならないと論じていました。基本的に彼が第二部で論じた自然な国家における主権者による法の支配と同じ原理を支持していることを第三部で示そうとしたのでした。ですからホッブスは、聖書の権威を認めていても、彼の法思想において教会法と市民法の断絶は存在しません。


 ホッブスのようにイングランド国教会体制を擁護する立場で、しかもエラストス主義に立つのですから、そのような見解をとることは当然と言えます。異教国家の伝統を今も受け継ぐ日本においてキリスト者がホッブスと全てにおいて全く同じ見解を採ることはあり得ません。ただ、ホッブスの議論から法の理解に関して示唆を得ることはできます。法の問題に対する私の立場は、すでに前回述べていますが、キリスト者といえども、日本国憲法に基づく法体系の中に生活をしているのですから、憲法が保障する基本的な人権を尊重しなければなりません。そしてもしキリスト教会が、一つの組織の中で、世俗法・市民法とは異なるルールや規則を組織成員に適用しようとする場合には、キリスト教会やキリスト教団体にキリスト者が加入する前に、教会や団体は、加入予定者に市民法とは異なるルールや規則の存在を明示し、同意を得なければなりません。本来全ての日本人に付与されている自然権(自由)を、キリスト教会やキリスト教団体が信仰上の理由で制限したり放棄させたりすることを求めることは発生しうることですが、そのような自然権の制限・放棄が本人の同意や意思の表明なしに行われることは、近代憲法のもとでは不正であり違法であるからです。ところが現実には正当な手続きが無視されることがキリスト教会やキリスト教団体にはしばしば起こっているのです。その口実の一つに使われるのが、聖書は神の言葉であり、キリスト者は神の言葉に従う義務を負っているのだから、という論理です。しかしながら、ホッブスも指摘していたように、聖書の解釈は、人によって、また教派・団体によって異なる可能性があります。ですから特定の教会や団体に加入する予定の人物がキリスト者であり、聖書を神の言葉と信じているからと言って、その人物が当該教会や当該団体が採用しているのと同じ聖書解釈を保持しているとは限りません。特定の教会や団体は自分達の聖書解釈に基づくルール・規則を、加入予定者に事前に明示しなければなりません。それをしないで加入者を募り、市民法に反するルールを同意なしに強制するというのは不正行為であり違法です。


 こうした日本のプロテスタント教会に内在する問題のゆえに、私はホッブスの法に関する主張にある程度賛同します。教会内のルールの中には、市民法・世俗法のルールとは異なる事柄を要求するケースもあり得ます。しかしそのようなケースも、市民法・世俗法との「連続性」の中で、世俗法・市民法との「整合性」を保ちつつ、教会・団体の中での固有のルールや規則を定め、実践する必要があるはずです。


 最後にもう一つ、『リヴァイアサン』第三部からキリスト教会やキリスト者が参考にすべき点があると思います。それはもし近代国家の主権者が、国民から信託を受けた事柄についてのみ権力を行使することが許されているのであるとすれば、キリスト教会の運営責任者も、運営のための権限の行使に際しては、これに準ずる仕方で行うことが期待されているはずであると言うことです。牧師のような教会運営の責任者は、メンバーが期待し信託している事柄について忠実に職務を実行する必要があります。無論、牧師は、仮に信徒の多数が願っていることとは異なる選択が、神の御心に叶うと信じる場合、そのような確信を表明する勇気をも求められます。しかしながら、近代社会に存在するキリスト教会の運営責任者は、基調としては社会契約説と同じ論理に基づいて行動することが望ましいとされるのではないでしょうか。

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