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木谷明『刑事裁判の心』(新版)法律文化社、2004年


 最近、袴田事件の特別抗告を東京高検が見送り、再審が確定したというニュースが報じられました。再審が速やかに開始されて袴田さんの存命中に無罪が確定して欲しいと願わされます。冤罪事件は、地域社会で評判の良くない人物が犯人に仕立て上げられてしまうことが多いので、普通の人は自分には関係がないと考えてしまいがちです。そのために日本の刑事訴訟制度が、冤罪を生み出し易い構造的な問題を抱えていることを認識されている方は案外少ないのではないでしょうか。けれども日本の刑事訴訟制度には、依然として古い慣行が多く残存しており、警察・検察の裁量権が大きく、違法な捜査や取り調べがかなりの頻度でなされて来た恐れがあるだけではなく、現在もなされているのではないかとの疑念もあり、これらを改善しなければ、今後も冤罪事件は発生し続けるように思われます。


 最初に刑事司法の抱える問題を認識したのは、高校の政治経済の授業を通してでした。私の通った高校の社会科(現在の地歴と公民)には良い先生が何人かおられました。政治経済を教えて下さった先生は、ご自身が自ら入手された新聞記事などを紹介しながら過去の具体的な事例に即して憲法学に関わる事柄を教えて下さいました。日本の刑事訴訟制度の問題点を教えられたのは、この先生からでした。例えば代用監獄の問題、逮捕後の勾留期間の長さの問題、これが自白の強要や冤罪の温床になっているという問題、また長期間の勾留と自白の強要がなされる要因の一つに別件逮捕・余罪の追求の問題があるといったことなどです。


 ただ当時は、欧米における刑事訴訟制度については良く知りませんでした。日本の制度が欧米と比較して被疑者の人権を犠牲にして行われている面があるということについては、インターネット・ニュース・サイトであるvideonews.comの番組を通して認識するようになりました。今回紹介する『刑事裁判の心』という本も、最近このサイトの番組に著者の木谷明さんが出演され、この本が紹介されていたので、購入して読むことにしたわけです。


 キリスト者の観点から見ると、木谷明さんが裁判官としてのキャリアを通じて取り組まれてきた事実認定の適正化の努力とは、聖書の十戒の第九戒「偽証してはならない」(旧約聖書出エジプト記20:16)という教えがこの国の司法制度の中で遵守されるようになるための努力であったと言えるように思います。なぜなら日本の刑事訴訟においては、以下に記すように、特に警察・検察が被疑者・被告人に有利な証拠を隠蔽したり(これも広い意味で偽証に当たると思います)、被疑者にとって身に覚えのない自白調書に署名させてしまったりする(これは被疑者自身に偽証をさせる行為です)というケースが、一定の頻度で発生している可能性があるからです。そのような行為は違法であり、十戒の第九戒にも反するものです。このような不正が是正されずに放置されていると言うことは、この国が如何に経済的に豊かであったとしても、また表面的には秩序が保たれているように見えたとしても、内実としては公正な国であるとは言い難い面があると言うことではないでしょうか。あるいは以前このコーナーで取り上げた、丸山真男の言う「抑圧の移譲」が依然としてこの国で常態化していることを示す事例であるようにも思います。そのような中にあって、事実認定の適正化の努力を続けられた木谷明さんの業績は、一人のキリスト者日本人としても、とても励まされるものであると感じます。


 木谷明さんのように良心的に刑事裁判に取り組んでおられた裁判官であっても、その主張や実践は、より高い理想を追求する研究者たちから、そして犯罪の現場で取り調べにあたる警察官や検察官の双方から批判を受けて来たそうです。例えば木谷明さんは、拘束中の被疑者の取り調べ受忍義務を認める立場をとっておられますが、この立場に対しては一部の研究者からの批判があるそうです。所謂人質司法を許容しているのではないかという批判です。しかし木谷さんは、現段階では取り調べの違法性を判決文で主張したとしても、既に最高裁判所によって積み上げられてきた判例によって、上級審で簡単に覆されてしまうと考えておられます。そのような現実認識に立って、漸進的な改革を目指すためには現状ではこれを許容する以外に方法はないとの立場なのだそうです。実際、警察官による5日間連続の取り調べや、徹夜で22時間連続して行われた取り調べの結果得られた自白調書に関する「自白の任意性」(任意性の認められない自白は裁判において証拠能力がない)は最高裁判例によって容認されています(55頁)。それでも木谷さんの見解は、一部の研究者たちから批判されているのだそうです。


 一方、木谷明さんのように、犯罪の事実認定を厳密に行い、警察・検察の提出する証拠や自白調書を厳密に審査して、場合によってはそれらの採用を却下するような刑事裁判の進め方には、現場の警察・検察官から「捜査の実情からかけ離れている」との批判を受けることもあるようです(69頁)。しかしそのような批判に対しては、裁判官の重要な役割は被疑者・被告人の人権を守ることにあるとの信念に基づいて、批判を受けても裁判の方針を変えるということはなさらなかったそうです。そのような姿勢を貫くことには、様々な困難が伴うのではないと思うのですが、裁判官としてのキャリアを通じて、一貫した姿勢を取り続けておられることには敬服させられます。


 この本は、法律文化社という専門家向けの出版社から出されていることからもわかる通り、刑事司法に携わっておられる現場の方々に向けて書かれたものです。その内容は実際に刑事訴訟を審理されている方々にとって有益な情報が多く含まれていますから、木谷明さんの経験に基づく具体的な提案の内容について、素人の自分がどの程度その意義を理解することができたかは解りません。しかも法律用語が多用されている本ですから通読するのも骨が折れます。あえて言うなら第一章・第一節の「裁判官生活を振り返って」と第一章・第三節の「事実認定における検証の重要性について」だけでも読む価値はあります。


 第一章・第一節の「裁判官生活を振り返って」には、木谷さんが担当したいくつかの刑事裁判のことが紹介されています。その中には警察による証拠の隠蔽が行われていたことが疑われるケースもあったそうです。それはある覚醒剤譲り受け事件の裁判の中で浮上した問題であったそうです。この事件の被告人は逮捕前に一度、逮捕後に一度、警察によって採尿をされており、裁判の中で、その鑑定結果を明らかにするように求めたのだそうです。ところが検察側は、一回目の採尿については警察が紛失し、二回目の採尿については実施していないとの虚偽の説明を行ったのだそうです。この検察の説明を受けて、木谷裁判官はすぐに科捜研に調べさせたところ、実際には二回目の採尿は行われており、二回目の採尿による検体からは覚醒剤は発見されていなかったと報告して来たのでした(27-28頁)。被告人は覚醒剤の使用に関しては無罪となりました。もし木谷裁判官が、科捜研に確認するという手続きを怠っていたとすれば、不当に有罪とされてしまった可能性があった訳です。


 また第一章・第三節の「事実認定における検証の重要性について」では、夜間検証の重要性を示すいくつかの最高裁判例が紹介されていました。刑事訴訟で審理される犯行が、仮に夜間に行われていた場合、自白調書の記述に基づいて同一時間帯に犯行現場で再現・検証をしてみることがいかに重要か、ということを木谷さんは力説しておられました。そのような再現・検証が実際に行われると、自白調書通りの犯行の再現など到底不可能であることが判明したケースが、木谷さんが確認しただけでも最高裁判例で4件あるそうです。つまり自白調書が創作されていた可能性のあるケースで最高裁まで争われたケースがこれまで少なくとも4件あったということです。仮に最高裁にまで至らなかった下級審の膨大な判例を、幅広く調査することができるのであれば、そのように自白調書が警察・検察によって創作されてしまったケースはかなりの件数にのぼる可能性があると推測できます。警察や検察も多忙なのでしょう。発生した事件を出来るだけ短時間で解決しなければならないとプレッシャーを常に受けているのだと思います。そのため警察や検察は、被疑者を犯人と断定するために、警察・検察の考えた筋書きの自白調書を創作し、被疑者を長期間の勾留と過酷な取り調べによって拘束し、自白を強要するのではないでしょうか。そのような拘束を受けた被疑者が耐えかねて自白調書に署名をしてしまう。そういうケースがこの国では一定の頻度で発生して来た可能性が高いということだと思います。


 しかし不正確な事実認定に基づいて誤った判決が出されてしまう原因は、警察や検察だけに責任がある訳ではないようです。第二章の「裁判官から見た弁護人活動」を読むと、刑事訴訟の被告の弁護人たちが常に適切な弁護活動を行なっているとは言い難い状況にあることも明らかにされていました。木谷さんもこの講演の中で認めておられますが、犯罪事件の被疑者・被告人は、自分の弁護人に立てられた人物に対してさえも、容易に心を開いて真実を語ることは少ないことでしょう(102-103頁)。そのような被告人の弁護をすることには相当のコミュニケーション能力が必要とされますし、何より熱意と忍耐力が求められます。ただ困難だからといってこれを軽視することは許されません。弁護人が真剣に弁護活動をしないことによって被疑者の人権が著しく毀損されてしまう恐れがあるからです。


 第三章の「犯人の特定」において、木谷明さんは、最高裁判所の判例について検討を加えながら、事実認定を適正に行うために、犯人特定のための重要な判断材料である目撃証言、状況証拠、物的証拠、被告の証言、自白、アリバイなどを検討する場合、裁判官はどのような点に留意しなければならないのかを解説しておられます。特にこの章では、被疑者・被告人の自白の信用性をどう評価するかについて書かれた部分が重要だと思いました。この問題に関する最高裁判所の判例は、以前は被疑者・被告人の自白に矛盾があったりしたとしても信用性は総合的に判断すべきである、つまり自白の信憑性を緩やかに判断する立場が主流であったようですが、近年はより厳格に検討・検証するべきであるとの立場が広く受け入れられるようになっているとのことです(230頁)。ただこの立場が受け入れられるようになってはいても、下級審と上級審との間で、見解の不一致などがあり、依然として改善の余地は多く残されているそうです。


 第四章の「いわゆる臭気鑑別書の証拠能力」では、警察犬の嗅覚を利用して得られた証拠・データを裁判の証拠として利用する場合に、どのような点について注意すべきかについて、判例に基づいて刑事訴訟の裁判官たちと情報の共有を目指しておられました。


 木谷さんという方の裁判官としての手腕について驚かされるのは、刑事裁判の下級審でかなり無罪判決を書いたけれども、その無罪判決が上級審で覆ることはなかったと自負しておられることです(24-25頁)。そのような精度の高い判決文を書くために、木谷さんは、ご自分が担当された裁判に関して、検討すべき事柄は検討し尽くし、現段階ではこれ以上に可能性を想定することはできない所まで証拠や資料の検討・検証を丁寧に行なって来られたと説明されていました。しかしそのような努力をするためには当然時間がかかり、多忙を極めたとのことです。ということは、冤罪事件が発生させてしまうもう一つの原因は、裁判官の多忙さにあるのでしょう。日本では、発生している刑事訴訟を処理するのに十分な数の裁判官が任官されていないということなのかもしれません。一人の裁判官が処理しなければならない案件が多すぎるために、例えば自白の任意性の確認などのためにかけることのできる時間や労力が多くなってしまうと、裁判官の仕事量が過重になり過ぎてしまう現実があるようです。司法制度がより良く維持されるために、国は予算と人材を増やさなければならないのかもしれません。


 ただそういう制度的な問題に加えて、刑事訴訟における人権侵害の問題は、この国が司法制度を支える社会通念や意識の面において、依然として近代化の途上にあることを示しているのだと思います。「近代社会」とか「近代化」という言葉を使うと無条件に西欧的な価値を受け入れていると批判されるかもしれませんし、西欧中心の進歩史観を前提に語るべきではないとの指摘も当然あることでしょう。ただこの国で冤罪が頻繁に発生してしまうという問題は構造的で、解決困難ではありますが、それでもこの問題は是非とも改善されなければならない課題であるはずです。このような構造的な問題が改善されるためには、日本国民全体の司法上の問題に関わる思考が、時代劇のような感覚から脱却する必要があると思います。そのためには、近代西欧社会が確立してきた制度や価値観の意義を、より多くの日本人が理解し、それら参考にする必要があるのではないでしょうか。


 例えば日本人の多くは、警察や検察が誰かを逮捕した瞬間に、その人が真犯人であると考えてしまう傾向があると思います。これは多くの日本人が伝統的に権威者の発言を、無批判に受け入れる権威主義的な体質を今も持ち続けていることの結果であると思います。そもそもこういう発想は前近代的で思考の怠慢です。逮捕や起訴は、国家権力と被疑者との間の刑事事件を巡る係争が開始されたことを示すに過ぎないのであって、公正な裁判の結果、逮捕・起訴された人が有罪となれば、その時点でその人の罪が社会において確定するはずです。そのような司法手続きを理解せず、そのような制度を理解した上で人の行為を判断するということを怠って、逮捕された被疑者の人権を毀損しかねない危険性のある思い込みを、何の疑いもなく平気で持ち続けるということが如何に有害で知的怠慢であるのか、公民教育に携わる人々は繰り返し訴える必要があると思います。そういう思い込みの弊害がいつまでも是正されないのは、日本の公民科教育が、こうした潜在的な人権侵害の問題を真剣に取り上げて来なかったからなのでしょう。


 また警察・検察から受け取る情報を一方的に流布させるだけで、現状を変革しようとしない大手メディアも構造的な問題の一部かもしれません。警察と検察は、記者クラブに属する主要紙・大手メディアの社会部記者に対して、警察・検察に有利な情報を有利となる形で伝えることによって世論をコントロールし、裁判を有利に進めることのできる影響力を保持しています。記者クラブに属する大手メディアは、警察・検察から得られる情報を広く国民に伝達することによって経営が成り立っている面がありますから、主要メディアは公権力の専横を抑制する役割を果たすよりは、公権力に協力してしまっている側面がかなり強いのでしょう。日本の主要メディアにはそのような傾向がある、ということについても、より多くの方々が認識を持つ必要があると思います。


 もう一つ、司法制度の近代化・適正化のために、日本人の思考の変化が必要な領域があると感じます。それは事実認定の適正化の方法論的基礎を提供する実証的な歴史研究の方法論が広く認知されることです。つまり近代歴史学が確立した文書資料に基づく事実検証・立証の方法が日本国民の共通理解や常識となって行く必要があるということです。これは高校などの歴史教育において求められる課題なのかもしれません。


 ただ残念ながら、現在のこの国の流れは、司法制度をも含む日本社会の変革をさらに進めるというよりは、むしろ伝統に回帰し、国家権力の力を増大させる方向に進んでいるように感じます。私は戦後改革によって制定された教育基本法のもとで教育を受けた古い世代に属します。当時は、公民科と地理歴史科は分けられておらず、社会科教育を主権者教育として行うことを目指している時代でした。しかし1994年に社会科が地理歴史科と公民科に分割され、主権者教育としての社会科(公民科)の役割は時間数の上でも大幅に限定されるようになりました。さらに2006年には教育基本法も全面的に改正されて、日本におけるかつての社会科教育の理念は瀕死の状態にあると言えるのかもしれません。日本という国に必要なことは、人権だの、平等だの、法の支配だのということを追求するのではなく、むしろ主従関係や所属団体における忠誠、上位者・年長者への敬意、共同体成員に対する礼節などを守ることにある。そのような良き伝統を保持することの方が、これからの日本のために有益であると考える人は今後も増えていくのかもしれません。そう考えると、この本で語られていることがより多くの人々に傾聴されるようになることを願うというのは実際には難しいことなのかもしれません。


 けれども、この本の中には少なくとも高校の公民科教育の中で是非とも教えられるべき内容が含まれていると思います。例えば逮捕勾留中に別件の取り調べについて被疑者は取り調べ受忍義務を負う必要はないという国民全員に保証されている権利を、全ての日本人が知るべきだと思います。そのような基礎知識を全ての日本人が持っていれば、捜査の過程で、被疑者の無知を利用して、警察・検察が別件に関する自白を引き出そうとする、またそれによって当初逮捕した事件とは別の事件で有罪犯に仕立て上げてしまうという違法な捜査(66頁)が行われてしまうことは、是正されて行くようになるはずだからです。この国が、より公正な国となるために、取り組むべき課題は、まだまだ沢山あるのではないでしょうか。

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