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チャールズ・ディケンズ『クリスマス・ブック』小池滋・松村昌家訳、ちくま文庫、1991年


 毎年クリスマスの時期になると、クリスマス礼拝で何を話すかは悩みの種の一つです。恐らく多くの牧師たちが一度は例話に使ったことがある「鉄板ネタ」とも言えるのが、ディケンズの「クリスマス・キャロル」ではないでしょうか。私も最初に奉仕した教会のクリスマスで、「クリスマス・キャロル」を意識しながら礼拝メッセージを話したことがありました。明治期東京の三大貧民窟について書かれた、松原岩五郎の『最暗黒の東京』という本をメッセージの中で紹介したのでした。しかし礼拝の後、来会者の一人から、クリスマス礼拝には貧民の話を聞かせるのではなくて、もっと心が明るくなるような話をして欲しい。そういうご意見を頂いたことがありました。クリスマス・メッセージに期待するものというのは人それぞれ違うものだなと思わされたものでした。


 今回紹介する『クリスマス・ブック』は、本来はチャールズ・ディケンズが1840年代にクリスマスの時期にあわせて公表していた五つの小品を集めた短編集であったようです。英国で出版された同じタイトルの本から、その内の二つの短編小説「クリスマス・キャロル」と「鐘の音」を翻訳して収録したものです。今回久しぶりに読み返しました。


「クリスマス・キャロル」については、改めて紹介するまでもないかもしれません。スクルージ・アンド・マーレー商会の経営者であるスクルージは、クリスマスであろうがなかろうが、貧乏人に寄付するなどまっぴらごめんのケチな男で、雇人の事務員には12月25日に休みを与えることさえ渋るような男でした。しかしある年のクリスマス・イブの夜に、かつての共同経営者マーレーの幽霊が現れて、これから三人のクリスマスの精霊が現れると予告されます。最初の精霊は過去、二番目の精霊は現在、そして最後の精霊は未来の精霊でした。三人の精霊が見せた幻によって、スクルージは改心します。そしてクリスマスの翌日に、うっかり遅刻してしまった事務員のボブを許した上に、気前良く彼の給料を二倍にしてやるのでした。


 もう一つの「鐘の音」という小説は、「クリスマス・キャロル」に比べると、あまり知られていないのではないでしょうか。最初に読んだ時、この小説の印象は薄く、内容も忘れていました。読んだのは1990年代の終わり頃のことでした。その後2000年代に3年ほどイングランドに留学し生活する機会が与えられました。英国は今も階級制度が根強く残っていると聞いてはいました。実際にそこに行ってみて、こういうことなのかと感じたことがありました。当時家族で集っていた教会は、主にミドル・クラスの人々が集まる小さな長老教会でした。些細なことではありますが、この教会の人々が町中にあるカフェに行く場合、清潔で上品なCosta Coffeeのお店に行くことが多かったようでした。偶然そこで、教会の方と鉢合わせになったこともありました。イングランドでは使用するレストラン、使用するパブ、使用するコーヒーショップにも、階級によって区分ができてしまうようなところがあります。「鐘の音」は、そういう英国の階級社会を皮肉まじりに描写している小説だと思います。


 主人公のトビー・ヴェック(あだ名はトロッティ)は公認配達業という個人事業の郵便配達員のような仕事をしている貧しい男でした。妻に先立たれた彼は、一人娘のメッグを男手で懸命に育てて来ました。そんな彼に力を与え、励ましを与えていたのは、いつも定時に鳴り響く教会の鐘の音でした(187頁)。メッグは器量の良い娘に育ちました。仕事がなくて食べ物にも困っている父のために、好物のトライプ(羊や牛の胃袋に臓物のミンチなどを詰めた庶民の食べ物)を買って来て、父を喜ばせる気立ての良い娘でもありました。彼女は近く、鍛冶屋のリチャードと結婚することになっていました。


 娘にもらったトライプをトビーが石段で食べていると、扉が開き、中から市参事会員キュートが出てきます。尊大なキュートは、ひとしきりトビーに説教を垂範してから、国会議員のサー・ジョゼフ・ボウリーへの手紙を託しました。トビーはそれを上流階級の人々の多く住む地域にある邸宅に届けます。手紙の内容は、浮浪者のウィル・ファーンと言う男への懲罰に関するものでした。サー・ジョゼフも嫌味な性格の人物で、トビーの前では自分は貧民の味方だとうそぶくのですが、市参事会員キュートが浮浪者ウィル・ファーンを豚箱に入れてしまおう提案したのに対して、サー・ジョゼフもこれに賛同する返信を目の前でしたため、トビーに託すのでした。


 この企みを知ったトビーは、偶然街角で子供を連れたウィル・ファーンに出会います。トビーは、ウィル・ファーンが捕まる前に、彼とその姪リリアンを我が家に迎え、匿ってやるのでした。毎日の食事にも困るようなトビーでしたが、ウィル・ファーンとリリアンに食べ物と寝床を提供します。


 そんな風にして迎えた年の瀬に、トビーが新聞を読んでいると、貧しい母親の心中記事に衝撃を受けます。その後、トビーは眠りに落ちるのですが、夢の世界で教会の鐘楼に登り、鐘のある所までたどり着くと、そこでトビーは鐘の霊と出会い、なぜここにいるのかと問われます。いつも鐘の音に励まされてきたので、ついここに登って来てしまったと答えると、鐘の霊はこう叱責します。


「誰であれ、我々の鐘の音を聞いて、諸々の悲しみを担う人々の望み、苦しみ、嘆きに対して、無関心ないしは冷淡を一言でも感じたものは、また、人間らしく生きることさえ叶わぬような、惨めな食い物を数字で計量するのはまだしも、人間の熱情や愛情まで計量しようとするような主義に対して、我々が同調しているように感じたものは、我々に不正を犯しているのだ。その不正をお前は我々に犯している。」(262頁)


この鐘の霊の言葉は、むしろキュートやサー・ジョゼフに当てはまるように思われます。トビーのように、貧しく誠実に生きている者に、鐘の霊はなぜ叱責するのかと思われるかもしれません。でも実はキュートやジョセフ・ボウリーが持っていた貧民に対する偏見や軽蔑(それはトビーの場合、劣等感というべきかもしれませんが)をトビー自身も心の中に秘めていたのでした。貧しさの中で、懸命に生きていながら、しかも差別や軽蔑と戦いながら、トビー自身の心の中にも、構造的で拭い難い、醜く歪んだ意識が巣食っていることを、鐘の霊によって示されるのでした。


 その後、夢の中で、トビーが心の中に抱く価値観に沿った世界が展開され、トビーの娘のメッグやリチャードも、ウィルファーンもリリアンも、不幸な人生を送る様子を見せられます。メッグは一人娘と共に川に身を投げようとするほど追い詰められているのですが、すんでのところで思い留まりました。夢の最後で、トビーは鐘の霊に向かって語りかけます。


「私たちのための遺産は『時』がちゃんと護ってくれているのだ。いつか、『時』の大津波がやってくる。そうなったときこそ、今、私どもを虐げたり、抑えたりする連中は、子の葉も同然、一たまりもなく押し流されてしまうのだ。その日はもう目の前に来ている。私たちは信頼と希望を持たねば。自分たちを疑ってはならない。」(325頁)


この台詞をトビーが鐘の霊に向かって語り終わると、トビーは夢から醒めるのでした。


 目を醒ますと、そこは大晦日の我が家でした。隣には娘のメッグがおりました。そして予定通り、翌日の新年最初の日にメッグとリチャードの結婚式が行われます。そこにはトビーが未払金を残している雑貨商のミセス・チキンストーカーさんもやってきて、メッグとリチャード、そしてトビーを祝福してくれるのでした。


 ディケンズは小説の最後に次のメッセージを読者に向けて書いています。「どうか、これらの苛酷な現実をしっかりと肝に銘じて頂きたい。そして各自の生活領域において . . . それを是正し、改良し、緩和すべく努力をして頂きたい。」そんな風に労働者階級の生活改善を訴えて、小説を締めくくるのでした。


 19世紀と言えば、産業革命によって、英国は飛躍的な経済成長を遂げて、世界に冠たる大英帝国を築き上げて行った時代です。そのような富める国でありながら、国内には大変な格差が存在し、労働者階級や低所得層の生活は厳しい状況にありました。上流階級の人々は労働者階級に対して教えを垂れ、権威を揮うのが使命であるかのように心得ていたのでしょう。キュートやサー・ジョゼフは、腹立たしくなる程傲慢な態度で労働者階級の人々を見下しているのでした。そんな19世紀後半の英国の差別的な社会の実像を、労働者階級への共感を示しながら描いたのが「鐘の音」というお話でした。「クリスマス・キャロル」と比べて、「鐘の音」の方が、当時の社会的な問題に食い込んでいます。貧しい人に施しさえすれば解決できるほど問題は単純ではない。ディケンズがこの小説で表現しようとしたのは、そういうことだったのではないでしょうか。


 ところで新約聖書のクリスマスの記事は、神の子であるイエス・キリストが、ガリラヤ出身の貧しいユダヤ人として誕生されたことを伝えています。その意味で、ディケンズが「クリスマス・キャロル」や「鐘の音」で訴えた格差是正と無関係ではありません。けれども同時に福音書全体と結びつけてイエス・キリストの誕生を理解しようとするなら、そこに語られていることは、ただ貧しい人を援助すべきであるとか、貧困を生み出す社会構造やそれを支える意識を克服する必要があるとか、そう言うことには留まらないメッセージが込められています。キリストの誕生が伝えていることは、暗闇に閉ざされている全ての人に、イエス・キリストが光として来られたということです。そしてこの方によって心の内側が新しくされる道が開かれていると言うことではないでしょうか。クリスマスは、そのことを心にとめる機会であると思います。

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