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山口淑子・藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫、1990年


 最近はK-Popアイドルがグラミー賞を受賞し、『イカゲーム』がエミー賞を獲得するなど、エンターテイメントの世界で隣国の躍進が目立っています。韓国は1990年代の通貨危機の後、エンターテイメント産業による外貨獲得の努力が国策として進められるようになり、音楽や映像ソフトの輸出を政府が積極的に支援して来たのだそうです。この分野でも日本の立ち遅れは否めません。


 日本のエンターテイメント産業は、潜在的には可能性を秘めていると思うのですが、現在の政府にとっては、この分野への支援は優先度が低いとされているのでしょうか。今年のカンヌ映画祭の最優秀男優賞などを受賞した「ベイビー・ブローカー」を撮った是枝裕和監督は、最近、日本映画産業の将来を危惧する発言をされ、韓国と日本のエンターテイメント産業従事者に対する支援の規模の違いについて懸念を表明しておられました。現在の日本の映画製作者への経済支援体制では人材は育ち難く、この産業に従事する人々が普通に結婚し、子供を育て、生活を営むことができるようにして欲しいとのことです。資源の少ない日本は、エンターテイメントも含む多くの分野で人材に投資し、一人でも多くの才能のある人材を育て、支える以外に、これからの時代に生き残る道はあるのだろうかと思います。そしてこの国にはエンターテイメントの分野で誇るべき先駆者がいたことが忘れられているかも知れません。その先駆者とは、戦前の満州映画専属女優であった李香蘭、あるいは山口淑子です。


 私は李香蘭の映画は一本も見ていませんし、これからも観たいとは思いません。ただ李香蘭/山口淑子は中国人にも認められた日本人歌手・女優として、その名を歴史に刻む存在ではないでしょうか。1943年に彼女が主演し、アヘン戦争を描いた映画「萬世流芳」は中国映画として初の大ヒットを記録したそうです。中国人が作詞・作曲し、李香蘭の歌でレコーディングされた「夜来香」(イエー・ライ・シャン)は、今でも中国人や台湾人の歌手によって歌われ続けている名曲です。彼女は日本の敗色が濃厚となっていたにもかかわらず、1945年5月に上海でリサイタルを挙行すると、劇場一杯の中国人の観衆が集まり、大変盛況でした。日本統治下とはいえ、彼女の才能と人気を裏付けるエピソードです。


 日本人の歌手や俳優が海外に挑戦しようとする場合、その最大の障壁はやはり語学力でしょう。ところが李香蘭/山口淑子という方は、映画やレコードといった新しいメディアが登場して間もない時代に、完璧な北京官話を話し、戦前の中国映画の中心地であった上海で女優として、また歌手として活躍し、中国人から高い評価を受けることができた稀有の女性でした。当時の日本人は誰もが彼女を生粋の中国人と信じ込んだ程でした。お父さんは満洲鉄道職員の中国語教師であったため、彼女は小さい頃からお父さんの教える中国語教室に出席し、大人たちとともに中国語の勉強をしていただけではなく、北京の女学校に中国人の養女として学びました。そういう意味では恵まれた環境で語学を習得することができた面もあったかとは思いますが、それでも美しい中国語を話すために彼女が払った努力には敬服すべきものがあると思います。


 ただ彼女の生きた時代は、中国に生まれ育ち、中国人を愛していた日本人女性にとっては不幸な時代でした。当時の彼女は日中友好のために貢献する道を歩むことはできず、むしろ大日本帝国の国策に利用されて行きました。1931年に満洲国が建設されると満洲映画社が設立されます。彼女は満映の専属女優となり、そこで撮影された「支那の夜」などの大陸三部作で、日本人にとって都合の良い中国人女性を演じることになりました。後に山口淑子は、そのような国策映画に出演したことへの後悔の故に、李香蘭と訣別して日本人山口淑子として後半生を生きることにしたと語っています。


 彼女の自伝『李香蘭 私の半生』を読むと、満州事変が起きていなければ、日本と中国の関係は別の可能性もあったかもしれないと感じさせられます。もし日本が日露戦争と第一次世界大戦で得た権益だけに踏みとどまっていれば、もし日本が国民党政府と関係を構築することができていれば、もし中国の親日派の人々との良好な関係を維持することができていれば、もし張作霖爆殺事件がなければ…。そのような幾つものifが脳裏を掠めます。けれども特に満州事変を契機として関東軍の独断によって進められた愚かな大陸政策によって、日本が隣の大国との良好な関係を維持しながら、ともにアジアの近代化のために協力して行くという理想は永久に潰え去ったのだと思うと、戦後育ちの自分のような者でさえも、悔恨の念を抱かざるを得ません。中国を自分の故郷としてこよなく愛していた山口淑子の苦悩はいかばかりであったでしょう。


 その一方で、李香蘭/山口淑子の自伝は、川崎賢子『もう一人の彼女: 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ』(岩波書店、2019年)という研究によって補われる必要があります。李香蘭の自伝を読むと、山口淑子の父親は、明らかに日本の特務機関や外国の諜報員と思われるような人々との接点を持っていたこと、そして山口淑子自身もそのような世界の人々と接触していたことに気付かされます。自伝に登場する日本陸軍特務機関の山家少佐にして然り、また東洋のマタハリの異名をもった川島芳子にして然り、そして李香蘭の命の恩人とされる白系ロシア人のルーバという女性の家族にして然り。ということは、恐らくお父さんの山口文雄も、満洲鉄道の中国語教師という肩書きの裏には諜報員としての顔も持っていた可能性はあったように思われますし、同じことは山口淑子にも当てはまるのかもしれません。


 敗戦後の山口淑子は、拠点を日本に移して、しばらく日本国内の映画に出演していました。しかしその後、1950年からニューヨークのアクターズ・スタジオで演技を学びながら英語とフランス語を学習し、シャーリー・ヤマグチの名前で幾つかのハリウッド映画に出演するようになり、さらにはブロードウェーの舞台にも挑戦した時期がありました。それはちょうど中国の内戦が終わり、共産党政権が成立してからのことです。彼女のアメリカでの挑戦は、純粋に役者としての挑戦であるとともに、日本や中国を取り巻く東アジア情勢がまだ流動的であった時代に、アメリカの極東政策に関わる情報源に近づこうとする意図もあったのかもしれません。私も含めて日本人は1945年によって、戦前と戦後とが峻別され、明確に異なる二つの時代を日本は歩むことになったと考えてしまいやすいですが、実は戦後日本の1950年代という時代は、現代の我々の生きている日本とは異なる道を歩む可能性のあった時代であって、当時はまだ東アジアの国際政治上の枠組みも固定されていない状態にあった捉える方が真実に近いようです。『もう一人の彼女』という研究は、その様な東アジア史の複雑な様相の一断面を明らかにしています。


 しかし1960年に日米安保改定がなされたことによって、日本はより明確に対米従属の道を歩み始めることになりました。あるいはそういう国際情勢も関係していたのでしょうか。山口淑子は、アメリカでの挑戦を諦めて、1958年に日本人外交官と結婚し、駐ミャンマー大使夫人としてラングーンで生活しました。ミャンマーという場所で、彼女がどんな人々と接触をしていたのかについて、李香蘭/山口淑子の自伝は完全に沈黙しています。この時期、彼女が中国本土の旧知の人々とも接触や連絡を続けていた可能性はあっただろうと思います。その後、帰国して「3時のあなた」のMCとなられてから、例えば日本赤軍の重信房子にインタビューを敢行されたことにも、彼女の隠された一面が垣間見えているように思います。

ですから山口淑子という方は、李香蘭の名前を捨てた後も、国際的な諜報活動に何らかの形で関係し続けていたのかもしれません。そのような道を選んだ理由の半分は、彼女の贖罪意識に基づくことだと思いますが、しかし半分は、おそらく彼女の父親の存在や、父親の周囲にいた人々の多くが諜報活動に関わる方々であったこととも関係があったのではないかと思います。多分、山口淑子の自伝は、恐らく彼女の人生の一面しか紹介していないものだと思います。彼女の行動の全てが日本の国益に叶うものであったのかは、私にはよくわかりません。


 そういう彼女の裏の顔は別にして、現代の日本人は、山口淑子から学ぶべきことが少なくないと思います。というよりも、これからも、山口淑子のような人を、この国は多く輩出して欲しいと思います。彼女のように美しい外国語を正確に話し、外国の食事を好み、外国の文化を愛する日本人が、もっと多く必要ではないでしょうか。山口淑子のように正確で美しい北京官話を話す能力を持ちながら、さらに米国のアクターズ・スタジオに留学し、ハリウッド映画に挑戦するような日本人がいてもおかしくないのではないでしょうか。中国語や英語に限りません。同じように正確で美しい広東語、韓国/朝鮮語、ロシア語、タガログ語、ベトナム語、インドネシア語、タイ語などに挑戦する方々がもっと多く現れて欲しいと思います。「AIがあれば将来外国語習得は必要なくなる」など妄言です。自分の国の言葉を正確に話そうと努力する外国人を見て感銘を受けない人はいません。そういう努力なしに文化や国境を越えて深い交流をすることはできないでしょう。アジアの国でヒットソングを出そうとするような日本の若者が出てほしいと思います。東アジアの国境を超えて映画やドラマに出演する若い世代が登場して欲しいと感じます。最近少しずつ、そうした才能が開花しつつあるようにも思いますが、日本人にも、そのような可能性があることを恐らく最初に実証した方が、戦前の李香蘭、戦後の山口淑子であったのではないでしょうか。


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