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大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』岩波文庫、2014年 [初版1986年]


 今年の3月3日に大江健三郎が亡くなられました。大江健三郎の小説は、大学生の時に短編集『奇妙な仕事』を読んだのですが、当時はその文学的価値を理解することができずに、それ以来ずっと読むことはありませんでした。しかし戦後日本の文壇が生んだ優れた小説家の作品を、この機会に読むべきではないかと思って、訃報に接した後、書店に平積みされていた本書を購入しました。


 大江健三郎はノーベル文学賞授賞式の講演で、ご自身の創作を次のように振り返っておられるそうです。彼の創作活動とは、近代日本人の受けた傷、即ち伝統的日本が西欧化によって引き裂かれたために受けた傷を癒そうとする努力であったとのこと。そのような作者の意図は『M/Tと森のフシギの物語』にも認められると思います。


 この小説は、大江健三郎が少年時代に祖母から聞いた話に基づく小説です。冒頭には、僕(大江健三郎)が、戦時中に経験したエピソードが掲げられています。当時通っていた国民学校の新任教師から「世界の絵」を描けとの課題を出されたことがありました。それで健三郎少年は自分の郷里、愛媛県大瀬村(現在の内子町)のイメージを絵に描きました。森に囲まれ、真ん中に谷川が流れる盆地の村に、大女と一人の男が立っている。そのような絵を描いたのは、祖母から聞かされた故郷の伝承の中にユニークな男女が登場していたからでした。ところがこの絵を見て、新任教師は健三郎少年を殴ったのだそうです。教師は、当時の軍国主義政府が提唱していた八紘一宇の世界を生徒たちに描かせようとしたようなのですが、健三郎少年が全く関係のない絵を描いたことに腹を立てたのでした。


 この冒頭のエピソードは、この小説の一つの主題を暗示していると思いました。この小説の第一の主題は、小説の書き出しからも分かるように「人間とは何か」という、恐らくは全ての小説に共通する普遍的テーマに関わるものです。でも同時にこの小説によって、大江健三郎は、天皇制のイデオロギー的基盤である記紀神話を相対化させるかのように、自分自身のことを、故郷の村の開拓と自治に関する神話的伝承の記述者として、恰も古事記を筆記した太安万侶のような存在として、言わば大瀬村の太安万侶として描き出そうとしたのではないかと思うのです。


 小学生だった彼が描いた一人の男と大女とは、故郷である愛媛県大瀬村で、明治維新政府に抵抗して投獄された亀井銘助という男性と、その義母と思われる女性なのだそうです。この小説のタイトルに出てくるMは英語のmatriarch(女家長)の頭文字であり、Tは英語のtrickster(トリックスター)の頭文字なのですが、Mは銘助の義母だけではなく、この小説の前半に登場するオーバーやオシコメと呼ばれた昔の大瀬村の女性たちをも意味し、Tは銘助だけではなく、この村の開祖である「壊す人」なども含んでいます。


 序章では亀井銘助と童子の物語が綴られます。銘助は、かつて村を代表して藩と交渉した人物でしたが、投獄され獄死してしまった悲劇の人です。しかし彼の義母は、銘助の死後、銘助の生まれ代わりのような童子を産み、この童子が後に「血税一揆」と呼ばれる一揆の指導者となって、新政府の郡令を自決に追い込んだのでした。しかもこの童子の最後は不思議なもので、回転しながら天上に登っていったと云い伝えられています。その後、成人してから、大江健三郎はアメリカ先住民に関する文化人類学の研究を読みました。この研究を通して、銘助や童子に類似したtricksterが、アメリカ先住民の神話にも存在することを知るのでした。この研究に出会ったことによって、大江健三郎は、祖母から聞いた故郷の伝承を人類学的視点で捉え直し、一つの小説に描き直すという作業に取り組むことにしたようです。


 第一章の「壊す人」は、大瀬村(通称、甕村)の開拓伝承に基づく物語です。村の開祖は「壊す人」とその兄嫁のオーバーという美しい女性です。大江健三郎はこの二人を元祖tricksterおよびmatriarchとして提示します。後に大瀬村となる場所と、以前からの定住地域との間には、人の往来を妨げる大きな岩があったのだそうです。ところが「壊す人」という人物が、この岩に爆薬を仕掛けて破壊することに成功します。それによって大瀬村への移住が実現するのでした。村の開祖となった「壊す人」を移住者たちは畏敬の目で見るようになります。しかし生活基盤が確立されるようになると「壊す人」は長老たちから疎まれるようになりました。長老たちは、知的障害者のシリメという男に「壊す人」の殺害をけしかけ、それを受けてシリメは野草を集めて毒物の準備をするのですが、長老たちはその猛毒を彼自身が試すように促し、言われた通りに服毒した結果シリメは死んでしまいます。しかしシリメが残した猛毒を使って、村の長老たちは「壊す人」の殺害に成功したのだそうです。


 第二章の「オシコメと『復古運動』」は、「壊す人」が殺され、神のごとく祀り上げられてから、しばらくして、村に「大怪音」と言う問題が持ち上がる所から始まります。村に響き渡るブーンと言う音に耐えかねた幾つもの家族が、村を離れ、別の場所に移住すると言うことが起きます。この「大怪音」が収まる頃に、オシコメと言う女性が村で影響力を持つようになるのでした。ところが、その後さらにオシコメによって、人々が移住した後の村の全ての家屋が焼き払われるという事件が起き、オシコメの影響力が失われる結果となりました。


 第三章の「『自由時代』の終わり」は、幕藩体制のもとにありながら、これまで藩の支配の届いていなかった大瀬村(甕村)に藩の支配が及ぶようになるお話しです。この谷間の盆地の集落に、ある時、重い年貢を逃れて土佐藩に逃散しようとした農民たちがやってきます。これを食い止めようとする藩の部隊と甕村の武装した農民との間で衝突が起きるのですが、亀井銘助の調停で両者は停戦し、逃散農民を藩に帰すことになります。この事件がきっかけとなり、甕村の存在は藩の知るところとなり、藩の支配下に置かれてしまうのでした。甕村は、長年にわたる蝋の生産・販売によって富を蓄積していましたが、藩はこの富に目をつけたのでした。やがて藩の強欲に怒り、銘助を始めとする村人たちは一揆を起こします。それは一定の成果を上げるのですが、一揆を指導した銘助は逃亡して、一時京都の摂家の庇護の下にあったものの、やがて藩に引き戻され、牢内で死ぬことになります。しかし銘助の義母でmatriarch的存在であった女性は、銘助の生まれ変わりのような童子という男子を出産します。この童子によって率いられて血税一揆が起こされるのでした。これは新政府の徴兵令に抵抗した一揆であったそうです。この一揆によって甕村を担当していた郡令は自殺に追い詰められます。一揆が沈静化した後も、甕村は二重戸籍というカラクリを使って、新生児の出生数を半分しか政府に申告せず、日清・日露の戦争の際も、甕村から出征した兵士の数は、普通の村の半数でしかなかったのだそうです。


 第四章の「五十日戦争」は恐らく大江健三郎が自ら創作した物語です。「五十日戦争」は、戦時下の非常時局にあって、二重戸籍によって徴兵と納税の義務を低く抑えていた大瀬村に、陸軍の中隊が治安出動するという出来事が発端でした。これに対して大瀬村の人々はダムを破壊して鉄砲水を起こし、中隊を全滅させてしまいます。さらに二回目に派遣された中隊に対しても、村人は武装して抵抗するのですが、その最中、一人の村の老人が陸軍兵士らに演説を行います。「この先、国際法にもとる犯罪行為が行われた場合、わしらは容赦せぬ」(310頁)。戦時下の大瀬村で高齢者が、国際法違反を理由に、大日本帝国陸軍に抵抗するという何とも奇抜な物語が展開されるのでした。この戦闘の帰趨はもとより明らかであり、村の反乱は鎮圧されてしまいます。しかし同胞を虐殺した罪責に苛まれたのか、陸軍の中隊長は、かつての血税一揆の時の郡令のように、自殺してしまったのでした。


 第五章の「『森のフシギ』の音楽」は、作者の大江健三郎自身と障害のある息子の光が、二人とも頭に傷を持つことから、同じく頭に傷のあった銘助さんや童子と霊的因果で結ばれているのではないかとの着想のもとに、大江健三郎と彼の家族も大瀬村の民間伝承の世界に包摂されて行くお話しです。養護学校を卒業した光は、作業所の仕事が始まる前に大瀬村の祖母を一人で訪ねることになりました。その時光も、祖母(大江健三郎の母)から「壊す人」の伝承を聞かされます。それで光は東京の自宅に戻ると「Kowasuhito」という曲を作曲するのでした。やがて光の祖母は手術が必要な病気を患い、谷間の村から松山市の病院に入院することになります。病院に行く途中、かつての「頸」、つまり「壊す人」の破壊した巨大な岩のあった場所を過ぎたところで、祖母は自動車を停めてもらい、谷間の村を囲む森を眺めるのですが、その時、祖母は光の作曲した「Kowasuhito」という音楽が聴こえたような気がするのでした。


 この最終章で、大江健三郎は、かつて少年の時にウグイの群れを見ようとして岩場に頭を挟まれながらも母親に救われた経験、また神隠しに遭ったフシギな経験、これら幼少期の経験のゆえに、祖母は大江健三郎に大瀬村の伝承を聞くための霊が与えられていると信じて、その役割を自分に与えられるようになったのだと述懐します。Matriarch的存在でもあった祖母は、大江健三郎もまた「壊す人」や銘助の霊を継ぐtricksterであると考えたのでしょう。そして村の伝承の聞き手に選ばれたことが、やがて自身が作家として身を立てることに繋がったと振り返っているようです。一方、小説の最後で大江健三郎の母もまた大瀬村のmatriarchとして、大江健三郎の息子である光に村の伝承を物語るのでした。つまり「M/Tと森とフシギの物語」というのは結局大江健三郎の祖母と母をMとし、大江健三郎自身と息子の光をTとする家族の物語として締めくくられるのです。


 ですからこの小説は故郷の神話的伝承と著者の自伝的物語を繋ぐ小説です。作家大江健三郎自身の精神的・霊的ルーツを、大瀬村の開祖であった「壊す人」などに求めるお話しであるからです。あるいはtricksterである「壊す人」の霊魂が、その死後も森の中で存在し続け、やがてその霊魂がまた新しい生に乗り移ることによって、大瀬村にtricksterが存在し続けるという物語なのです。一人の人間の存在とは、そのような不滅の霊魂の連鎖を繋ぐものであることを、この小説は表現しようとしたのでしょう。だからこの小説は一人の人間が出身地の共同体やその自然とは無関係に存在することはできないことを描こうとしているのだと思います。そのような人間観や世界観の背後には仏教的、あるいはアニミズム的な思想が流れているのでしょう。


 ただ私はむしろ本書のサイドストーリーの方に惹かれるものがありました。愛媛県の山間部に伝えられていた民間伝承の世界を描くことによって、大江健三郎は、愛媛県の民衆の間に、体制に抵抗しつつ自立と自治を求める伝統が存在してきたことをも明らかにし、そのような伝統の精神が自分の中に生きていることを示そうとしたのではないでしょうか。そして日本の各地に、多様な神話的伝承が密かに伝承されているはずであることも暗示しているような気がします。それによって全国各地に存在するであろう無数の「フシギの物語」の多様性の中に、それらと同様に未開社会的「フシギの物語」である記紀神話を位置づけようとしているのではないかと思います。そのように記紀神話を相対化することによって、この神話を支配の正統性の根拠とする近代天皇制のイデオロギー的基盤をも相対化しようとしているのでしょう。


 とはいえ、この小説は故郷の伝承を決して美化している訳ではありません。孤立した集落は、長い間、藩の支配から自由ではありましたが、その内部では殺人があり、オシコメという女性を監禁するようなハラスメントもありしました。大江健三郎は、伝承の世界を包み隠すことなく描いていると思います。


 しかしそうであっても、大瀬村の伝承が伝える共同体形成の物語では、異能の男女の活躍による奇想天外なドラマが繰り広げられ、それ自体が固有の神話的価値を有することが読者には印象付けられます。だから冒頭に出てくる新米教師が、M/Tによって形成された大瀬村の神話的世界を自分の世界として描いた少年を殴ったということが、いかに狭量で乱暴で公平性を欠く行為であったのか、それに対して「M/Tと森とフシギの物語」が、いかに大瀬村の文化やそこに住む人々の生に深く刻印を残す物語であったのかということが浮き彫りにされているように感じられます。


 少し飛躍していると思われるかもしれませんが、大江健三郎は『M/Tと森のフシギの物語』の創作によって、一人の生が、いかに地域共同体やその自然と深く結ばれているかを表現しながら、間接的には日本の地方に民主主義や地方自治が定着することを願っているようにも感じます。日本人が、どのようにして民主主義的価値や自治の精神を形成することができるのか、あるいはできないのか。日本の民主主義は、日本古来の民衆文化の延長線上に形成すべきものなのか。あるはそういうことはできないのかどうか。そういう疑問や課題に向けて、大江健三郎は、地方共同体の口頭伝承と個人の繋がりを言語化したのではないかと思います。それは「傷を癒す」ためであったと同時に、近代日本に負わされた分裂・分断を超えて日本における民主主義や真の地方自治を目指すという遥かな目標を見据えた創作でもあったのではないでしょうか。


 ですから大江健三郎がこの小説で描いた愛媛県の山村の自治を巡る物語の記述は、実は日本の全ての地域・集落にも適用可能な試みであると思います。日本の山村の成り立ちから言って、恐らく愛媛県大瀬村と類似した自治の精神をもって体制に逆らい、共同体による自治を貫こうとした集落は他にも多数存在するのでしょう。そう考える理由は、家内の実家での経験とも関係しています。私の家内の実家は岩手県一関市にあります。北上川の支流である砂鉄川の両側に美しい水田が広がる集落の中にあり、この集落の菩提寺とも言える曹洞宗のお寺の裏山から、夏にこの川沿いの景色を眺めると、それは美しい風光明媚な場所です。家内の実家は専業農家ではありませんが、この流域にある水田の一画で毎年稲を栽培してきました。ある年に実家を訪ねた際に驚いたことがありました。それは毎年同じ集落に属する人々が、それぞれの家が田植えをする区画の割り当てをローテーション制で行っているということを知ったからです。毎年集落の責任者の人々が話合って、各家に対する区画の割り当てを決めているのだそうです。


 私は戦後の農地改革によって、てっきり個別の農家に田畑の区画が完全に私有地として割り当てられ、一戸の農家が毎年同じ私有地に稲や作物を植えるということが行われているのだと思っていました。しかし家内の実家の集落ではそうではなく、おそらく戦前からの共同体慣行に基づいて、稲作の栽培地の割り当て制度というものが存続してきたのでしょう。


 そもそも自作農による農地の私有と、私有地の自由な耕作というアメリカ的な発想に基づく戦後の農地改革が、日本の農村共同体でそう簡単に実現する訳はないのです。19世紀米国のホームステッド法によって、アメリカ先住民が占有していた北米大陸の大地は、強権的に合衆国の論理によって開拓農民に割り当てられました。収奪された土地は東部から移住してきた農民によって切り拓かれ、そのようにして農業大国アメリカは形成されたのでした。以来独立自営農民がアメリカの農村地帯における地方自治と民主主義の担い手となって行った訳です。占領軍は、そういう制度を日本に持ち込もうとしたのでしょうが、日本の農村共同体は、そのような個人主義的農業経営とは対極にある、地域集落の非常に濃密な関係を前提として成り立って来ました。無論、戦前の不在地主などによる小作農からの収奪が廃棄されたことは戦後農地改革の成果であったのでしょう。けれども戦後改革の目指したドラスティックな目標は到底達成できるものではなかったのだと思います。ですから伝統的な共同体慣行が、多少の修正のみで継承されたというのはごく自然なことかもしれません。占領軍による農地改革というものも、結局は大瀬村(甕村)の人々にとっての「藩」や「維新政府」による支配と同じように、上から押しつけられたものだと受け止められた面があったのでしょう。


 ただそういう共同体的慣行は、21世紀の日本で、どのように継承したら良いのでしょうか。家内の実家のある集落を初めて眺望した時には、砂鉄川の両側はほぼ全て美しい水田で埋め尽くされていたのですが、最近ではかつて水田であった場所のあちこちに「箱物」が虫食いのように建てられるようなりました。勝手な想像ですが、そのように水田が潰されてしまったのは、この集落の水田全体を維持するために必要であった労働力、あるいは必要であった世帯数を維持することができなくなってしまったからなのではないかと思います。過疎化が抗い難く進行する中で、それぞれの地域はどのように伝統を継承すれば良いのでしょうか。


 かつて伝統的共同体が志向していた自治とは、外部権力から強制される法律や制度の外側で、あるいは秘匿された領域で追求される性質のものであったのではないでしょうか。しかしそのようなある種の歪みを持った古い形の自治や抵抗のスタイルが、21世紀における地方集落の公正で開かれた自治の確立のために妨げになりかねないようにも思います。別に名案がある訳ではありませんが、そういう問題を考えるためにも、まず現状を記述することから始めなければならないように思います。


 これからの日本では、大瀬村のような集落は徐々に失われていくのかもしれません。それは、かつて幕藩体制を逃れ、密かに自由と自立を求めて山に拓かれた集落が失われて行くということです。そして日本の地方の文化的多様性が失われるということでもあるのでしょう。他方、日本における都市的・近代的な世界は確実に地方に拡大・浸透し続けるということになるのかもしれません。それでも、大江健三郎が本書で試みたように、日本のそれぞれの地方共同体で行われてきたことが、その地域に育った個人にどのような影響を与えてきたのか、それを言語化することには、今後も意味があると思います。


 そういう努力は、別に地方集落だけに必要なのではないのでしょう。同じことは都市の集団においても、学校においても、そしてキリスト教の教団教派においても必要なことのように思われます。都市であっても集団の担い手である人々の心には、今も伝統的な共同体の心性が残っていると思われるからです。現行憲法によって保障されている国民主権や基本的人権の尊重などの理念と、日本の伝統と現実との間に存在する埋め難い断絶を前にして、大江健三郎が目指したこと、つまり傷を癒すと同時に分断に架橋する努力は、これからも続けられなければならないように思います。

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