J. R. R. トールキン『指輪物語 第二部 二つの塔』瀬田貞二訳, 評論社, 1977




 中学生の頃、トールキンの『指輪物語』にトライしてみたのだけれど、第一部をしばらく読んだ所で挫折してしまった。もう少し忍耐して読み進めていたら自分もトールキアンになっていたかもしれない。それからだいぶたって、2001年から2003年にかけて、映画『ロード・オブ・ザ・リング』(三部作)が公開された。私の場合、映画は第二作の『二つの塔』からDVDで観ることになった。最初9人で出発した「指輪の仲間たち」は、ガンダルフの脱落とボロミアの死後、オークの襲撃を受けて三グループ(フロドとサム、アラゴーンとレゴラスとギムリ、そしてメリーとピピン)に分かれてしまう。『二つの塔』では、三つのグループが別々に様々なドラマを経験するのだが、なぜ別々に行動しているのか分からないまま、それでも引き込まれるように観ることができた。それで今度こそは原作を読もう。映画を見終えてからそう決意したのだが、『二つの塔』の終わりまで辿りつくことができたのはようやく最近である。


 映画と原作とでは所々違いがある。重要な相違はストーリーの全体的な配置の違いだと思う。映画ではヘルム峡谷での戦いが終盤の山場になっている。一方原作はフロドとサムにゴクリが加わって、三人でモルドールの滅びの山を目指す旅が長く綴られた後、ゴクリに欺かれたフロドが、最後に巨大な毒蜘蛛シェロブのひと刺しで瀕死の傷を負ってしまう場面で終わる。続く第三部『王の帰還』で、フロドはサムに助けられ、使命を全うすることができるのである。


 フロドとサムの旅は、何かバニヤンの『天路歴程』(The Pilgrim’s Progress)を想わせる面があった。『天路歴程』は、17世紀ピューリタン分離派の信仰に触れる上で価値ある書物だし、同時代の庶民に訴えるバニヤンの語り手としての才能は、その時代の英語話者としては卓越したものがあったのだろう。けれどもキリスト者の生き様のリアリティーという意味では『二つの塔』に優れた文学性を感じる。ファンタジーの世界でありながら、キリスト者の現実をリアルに描いていると感じられるのである。


 暗に語られているのは、フロドにとってサムのような友人と共に旅をすることが、イエス・キリストを友とする歩みに比べられるということではないだろうか。勿論キリスト者にとって主イエス・キリストは友を超えた存在ではあるものの、誠実な従者サムによってフロドは使命を果たし得たように、目には見えないけれども今も生きておられるキリストが、誠実な友の如く、私と共に人生の旅を歩んで下さっている。フロドの冒険は、そのようなキリスト者の信仰に通じるものがある。聖書の言葉を引くなら「私たちが誠実ではなくても、キリストは常に真実であられる」(テモテへの手紙第二2章13節)という箇所がふさわしいだろうか。『指輪物語 第二部』から、そういうことも読みとれるように思う。

​取手キリスト教会

茨城県取手市台宿2-27-39

電話:0297-73-3377

Copyright (C) Toride Christ Church All Rights Reserved.