G. K. チェスタトン『正統とは何か』(新版)安西徹雄訳、春秋社、2019年


 以前このコーナーでC. S. ルイスの自伝『喜びのおとずれ』を紹介しましたが、ルイスがキリスト教信仰を回復する上で重要な役割を果たしたのが、ギルバート・キース・チェスタトンの著作でした。恐らくルイスは、今回取り上げる『正統とは何か』(Orthodoxy)も読んでいたことでしょう。


 G. K. チェスタトンは、日本ではブラウン神父シリーズを書いた推理小説作家として認知されていると思いますが、20世紀の初めに健筆をふるったカトリック信徒の英国人でした。この本が書かれたのは1908年のことですが、19世紀後半にヨーロッパや英国に広がっていた唯物論や進化論、そしてニーチェなどに代表される厭世的な現代思想に対して、チェスタトンはカトリック信仰の立場から批判的に応答する本を書きました。それがこの『正統とは何か』です。


 ルイスの信仰に影響を与えた本ということで、この本も以前から読みたいと思っていました。今回ざっと通読したのですが、私にはかなりレヴェルの高い本だと感じました。使われている言葉はそれほど難しくはありません。けれどもチェスタトンは、彼の論争相手の思想を、シニカルに諧謔的な喩えを用いながらリフレーズしているようです。槍玉にあげている著作や文章をあまりはっきりと明示している訳ではありません。だからこの本が書かれた時代に欧州や英国の知識人に知られていた当時の著作家たちの新しい思想について、あまり予備知識のない私が読んでも、ウィットとユーモアに富んだチェスタトンの散文の面白さを十分に鑑賞する所までは行かなかったのだと思います。


 チェスタトンの議論を辿ることはかなり骨の折れる作業ではありますが、その大筋は比較的シンプルだと思います。彼は同時代の現代思想が、彼の様な保守的な思想、あるいはカトリック信仰の持ち主からすると、狂気であるとさえ言えるほど均整を失ったものであると批判します。そしてキリスト教の世界観、即ち世界は神によって創造されたという前提に立って考えることの重要性を論じます。彼は創造論が、むしろ被造物としての人間に自由を与えるはずだと説きます(135頁)。一方で彼は、民主主義者や社会主義者が当然のことと考える、人類の進歩という考え方に懐疑的です。それは彼が、人間観に関してキリスト教の原罪論を受け入れているからです。彼は社会を変革することの必要性は認めますが、それは改造(reform)に依らなければならないとします(190頁)。しかもリフォームとは、本来あるべき良いものを回復するためになされるべきだというのです(198頁)。このリフォームを実現するための制度として、民主主義の有効性を一応承認するのですが、この制度が全てキリスト教的である訳ではないとも述べます。リベラルな民主主義政体を確立することが、キリスト教信仰と完全に一致すると思い込んでしまっている人は、次のチェスタトンの言葉に耳を傾けるべきかもしれません。


「ことさらに反キリスト教的であり、特別に非キリスト教的である観念は何かと言えば、それはカーライルの考え方である。つまり、自分に統治の能力があると自信する男こそ統治の任にあたるべきだという思想である。他の一切がキリスト教的であるとしても、こればかりは確実に異教的と言わねばならぬ。もしキリスト教信仰が政治に関して何らかの意志表示をするとすれば、このカーライルの政治論とは正反対のことになるはずだ。自分に統治の能力があると自信しない男こそ統治の任にあたるべきである。」(215頁)


(確かにイエスがご自分の後継者に選んだのは、ガリラヤ出身の無学な若者たちでした。そういう指導者選出の基準は、考えてみれば非民主的です)さらにチェスタトンは、政治的なリベラリズムだけではなく、宗教上のリベラリズムにも言及します。19世紀の主にドイツから広まった自由主義神学は、科学的・自然主義的な世界観に立って、聖書に記録されている奇蹟をフィクションとみなし、正統信仰の柱であるキリストの神性さえも否定するようになりました。けれどもチェスタトンは、聖書の奇蹟、三位一体の教理、イエス・キリストの神性、キリストの十字架の救済論的な意味など、正統信仰が継承してきた主要教理を擁護します。むしろこのような信仰を維持することは、道徳と秩序の維持だけではなく、実は真に望ましい社会改革も可能にするのだと主張します。最後の章では、自分がなぜ正統的キリスト教信仰を信じ続けるのかを説明し、信仰の弁明を行って、この本を締めくくっています。


 この『正統とは何か』という本は、そのタイトルから、古色蒼然たる内容のように思われるかもしれませんが、現代の読者にも読む価値があると思います。この本の価値を高めている要因は、実はチェスタトンが正面から、キリスト教の創造論のような古風な信仰を擁護している点にあるのではないでしょうか。もちろんキリスト者から見ても、自然界の生成の事実はただ一つです。ただ自然の生成を、神の創造という信仰に立って観ることは、例えば核の問題を考える上で重要ではないかと思います。物質の基本的な構成要素である原子という存在には神の創造の秩序が隠されていたように思われます。それを崩壊させることが人為的に可能となり、それによって放出される莫大なエネルギーを利用することも可能になったからといって、核兵器や核燃料の使用によって人類は進歩したと言えるのかと問われれば、Yesと答えることは難しいでしょう。むしろ神が創造された通りの自然のあり方を保全することの方が、人間にとって幸福であったのかもしれません。こういう事例を考えると、チェスタトンの創造論に関する主張は説得力があるように思います。


 チェスタトンによる創造論の擁護については、日本人の読者、特に日本で保守主義を標榜する人々に対しては挑戦的な面があると思います。西欧人がキリスト教神学に基づく思想に従って生きることが西欧の保守主義であるなら、日本の保守主義は、日本の伝統的な宗教思想を尊重して生きることであると考えられることが多いかもしれません。ただチェスタトンの思想は保守主義に位置づけられるとは言っても、それが万物の創造主なる神を信じるゆえに、その思想は普遍主義的な傾向をも帯びることになります。彼は、キリスト教が「全人類に共通の理想だったことは明らかである」(130頁)とさえ述べています。彼の保守主義を西欧の保守主義全般に一般化することはできないかもしれませんが、でも西欧においては、リベラル・デモクラシーの擁護者や社会主義的な思想の持ち主だけではなく、実は保守主義者の中にも普遍主義を唱える人がいるのです。


 そういう意味で、この本で展開されているチェスタトンの主張を全面的に受け入れられるという日本人読者は決して多くはないかもしれません。ただそうであっても、この本には、他では味わうことのできない喜びを見出せる面があると思います。私が、チェスタトンのペンから次々と生み出される比喩の中で一番気に入ったのは、次の箇所でした。


「こういうわけであるから、進歩の目標となる理想についてまず第一に必要なのは、それがみだりにぐらつかないということである。ホイッスラーは、絵の下書きに何度も何度もモデルのスケッチを繰り返したものである。例えば二十枚のスケッチを破いてしまっても困りはしなかった。だがしかし、画面から目をあげて、モデルを見るたびに、二十回見上げれば二十人、全く別のモデルが平然として座っているのを見たら大いに困ったに違いない。同じことで、人類が理想に近づこうとして、たとえ何度失敗したところでそれは大して困らない。何度繰り返したされてもこの失敗は、皆何らかの結果を生むからだ。けれども、もし人類が理想を何度でも変えるとなると、これは実にものすごく困るのだ。. . . いかにすれば肖像画家は、自分の描いた肖像画を窓から放り出すことはあっても、モデルの方を窓から放り出すという、もっと自然で人間的な行為に及ばずにいられるか。問題は、要するに、いかにすれば我々はこういう条件を確実に満たすことができるかということだ。」(194-95頁)


進歩主義者たちは、社会の理想とするモデルをどんどん取り替えてしまう。それが却って社会に混乱をもたらすのです。それは喩えるなら、肖像画家が、理想の肖像画を求めて、次々と肖像画のモデルを窓から放りだすような狂気であると言えます。チェスタトンはその狂気を表現する時に、わざと「より自然で人間的な行為」と諧謔的な言い方をしています。彼は、進歩主義者たちが自分達のやっていることについて使う表現をそのまま使用したのでしょう。進歩主義者らが「より自然で人間的な行為」と考えていることが、実は狂気となる危険性があるのではないか。この肖像画家とモデルの比喩は、そのことに気づかせるための見事な比喩です。このような比喩を思いつくことができるチェスタトンは天才的だと思います。