C. S. ルイス『銀のいす』瀬田貞二訳、岩波少年文庫、1986年


 ちょうど一年前に、C. S. ルイスの『喜びのおとずれ』を紹介しましたが、今回、同じ作者の『銀のいす』を紹介します。子供の頃、ナルニア国物語を読んで育ったという方は少なくないと思いますが、私もその一人でした。私が一番好んで読んだのは『カスピアン王子の角笛』でした。これは中世騎士物語のようなお話で、ピーターをはじめとする人間界の四人の兄弟の活躍によって、最後にはナルニア国の正統な王家の血を引くカスピアン王子が勝利を収め、王位に就き、ナルニアに平和が回復されるというストーリーでした。


 ナルニア国物語の中で、どちらかというと敬遠していたのが『さいごの戦い』と、今回取り上げる『銀のいす』です。あまり好きになれなかったのは、両方とも全体的に暗く重苦しい雰囲気のお話と感じられたからです。


 ただ最近、C. S. ルイスの神学思想に興味を持つようになって、彼がなぜ『銀のいす』を書いたのか理解できるようになりました。『銀のいす』には、ルイスが無神論者の立場を捨てて、有神論を受け入れるようになった理由が、物語の形で描かれているのです。ルイスとしては、彼の信仰の中心的な主題を、子供にも分かるような物語のスタイルで表現したいと考えたのでしょう。しかし残念ながら小学生の頃の私には、ルイスの伝えようとしていたメッセージは難しすぎてわかりませんでした。


 岩波少年文庫版の『銀のいす』の解説は、井辻朱美さんという方が書いておられます。児童文学の研究者で、白百合女子大学の教授をされている方です。この方は高校時代に『さいごの戦い』と出会って、ナルニア国物語にはまったと書いてありました。井辻さんは『さいごの戦い』に描かれる世界観も、プラトンの世界観の影響を受けていると解説しておられます。この解説を読んで、私も『さいごの戦い』の意図を了解したように感じました。というのも、私はずっと『さいごの戦い』をキリスト教の終末論をベースにした物語としてしか読んでいなかったからです。勿論そうではあるのですが、井辻さんという方は、仮想的な「フレームが乗り越えられる」ことの大切さをルイスは伝えようとしているのではないかと言います。考えてみるとキリスト教神学の終末論も、この世界に起きている現象を相対化する視点を得るための教えとして語られる必要があるということを、改めて覚えさせられたのでした。


 ルイスがナルニア国物語で描こうとしているのは、人間にとっての真の幸福は何かということではないだろうかと思います。そこには当然キリスト教の救済論が根底にはありますし、一つ一つの物語もキリスト教信仰と深く関連していますが、でもそれだけではないのでしょう。『馬と少年』の主題は、つまり人間にとって自分が何者であるのかを見出すことが真の幸福につながるということではないでしょうか。『カスピアン王子の角笛』は、正統性/正当性を欠いた政治・社会体制の抑圧からの解放を描いているのでしょう。より多くの人々に幸福な社会が実現するために、時に圧政と戦う必要があると訴えているように思います。『朝開き丸東の海へ』に登場するユースチス・スクラブの改心は、人間が自己中心性から解放されることの大切さを描いていると思います。『さいごの戦い』は、井辻朱美さんの指摘される通り、この世界が実は影の世界に過ぎず真の世界が存在するという思想を描こうとしているのでしょう。


 では『銀のいす』は何を描いているのでしょうか。私は二つのメッセージが込められていると思います。一つは、良心に従って生きるとは記憶を取り戻すような面があるということ。もう一つは人間のイマジネーションの大切さです。


『銀のいす』で中心的な役割を果たすのは少女のジルです。なぜならナルニアの世界に移って、最初にアスランの住む世界、高い山の頂きで、アスランから4つの命令を受け取ったのはジルだったからです。ところがナルニアの世界で、ユースチスと泥足にがえもんと共に荒地を旅している時に、偶然出会った貴婦人(実は魔女なのですが)から、巨人の都に行けば暖かい食事を頂くことができると甘いに言葉に惑わされて、ジルはアスランの命令を忘れてしまいました。その結果ジルたちは巨人の城で危うく「人間パイ」の材料にされ、殺されそうになります。アスランが与えた4つの命令には、恐らくシナイ山でモーセに与えられた十戒やキリストの山上の説教との類比が認められます。同時にこれは、人がレーテー(忘却)の川を渡って現世に来るという、プラトンの『国家』にも出て来るギリシャの神話とも関係があるかもしれません。


 もう一つ、『銀のいす』はイマジネーションの大切さを教えていますが、このテーマは物語のクライマックスで泥足にがえもんが語る言葉の中に込められています。地下の世界にリリアン王子を幽閉していた魔女は、王子を解放しにやって来たユースチス、ジル、そして泥足にがえもんに向って、地上の世界や太陽など、空想上の産物に過ぎないと語り、彼らをも地下の世界に閉じ込めてしまおうとします。その魔女に向かって、泥足にがえもんがこう語ります。

「けれどもそれにしても、どうしてもひとこと、いいたいことがありますとも。よろしいか、あたしらがみな夢を見ているだけで、ああいうものがみな、つまり、木々や、草や、太陽や月や星々や、…頭のなかにつくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。…だとしても、その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。」(『銀のいす』268頁)

このセリフの直後、魔女は本性を現し、醜い大蛇に変身して、リリアン王子を殺そうとしますが、地上から助けに来た3人が剣で大蛇の首を切り落とし、事なきを得たのでした。


 この本のプロット、つまり地下に囚われている王子が解放されて、地上の国ナルニアに戻るという筋書きのベースには、プラトンの『国家』第七巻の冒頭に語られる「洞窟の比喩」があることは衆目の一致するところでしょう。ただルイスは「洞窟の比喩」に加えて、偽りのフレームから抜け出す手がかりは、人間の想像力にあるということを泥足にがえもんの口を通して語っているのだと思います。ルイスはなぜ、児童向けに書かれた物語に、このような哲学的なテーマを書くことにしたのでしょう。それはやはりルイス自身が、人間の想像力の不思議さに目覚めたことによって、キリスト教信仰に導かれたからだと思います。


 ルイスがどのように無神論から有神論に傾斜して行ったのかについては、ルイスの自伝『喜びのおとずれ』の中で説明されています。ルイスの説明は非常に長く、彼の思索を正確に辿ることは容易ではありませんが、以下の部分が重要だと思いました。

「死すべき運命の人間は、科学によって教えられ、日常の経験によって察せられるとおり、ただの『現象』的存在にすぎない。だがそれは『絶対的なもの』を宿す『現象』ではないだろうか。人間が真に存在する限り…究極的な存在と言える『絶対的なもの』を根にもっているのだ。私たちが喜び〔ルイスの「喜び」は精神の渇仰が満たされること〕を経験するのはそのためである。人間は個々の『現象』的存在であるのをやめないかぎり、決して到達できないあの統一性に憧れるのも当然なことである。」(早乙女忠・中村邦夫訳『喜びのおとずれ』ちくま文庫、291頁)

ここで言われている『絶対的なもの』は、やがてルイスの中で、神に、さらにはキリストに置き換えられて行きました。この一節だけで、十分に語り尽くされている訳ではありませんが、ルイスが神の存在を信じるようになったきっかけは、神のような超越的な存在を人が心に宿すことができるという事実の不思議さだと思います。あるいは人間だけが神という存在をイメージできるという神秘です。無神論的・唯物論な世界観・人間観によって、このような人間の超越的な存在へのイマジネーションを説明することは案外難しいことではないでしょうか。このことに気づいた時に、ルイスは聖書の神の存在を、一つの可能性として受け入れるようになったのでした。


 もちろん、そう考えたのは、もともとルイスの育った環境にキリスト教的な背景があったからだとは言えます。日本人のように、多神教的、アニミズム的宗教観の背景に育った者が、ルイスと同じように考えるとは限らないかもしれません。けれども少なくとも言えることは、自然主義や唯物論的な世界観を貫徹して人間や自然を理解しようとすると解決困難な疑問に突き当たる面があるということではないでしょうか。ルイスの『銀のいす』は、そのような人間の想像力のもつ深みを、子供たちに伝えたいと願って書かれたのでしょう。


 ルイスのそのような意図は、残念ながら小学生の頃の私には把握することができませんでした。井辻朱美さんという方は、高校生の時に『さいごの戦い』を読んで、この世界の現実を影として描くというルイスの意図をすぐに了解したとのことです。井辻さんという方が博識で明晰な高校生であったからでしょうけれども、つまりナルニア国物語のシリーズは、ある程度の年齢になって初めて理解できる内容も盛り込まれているので、大人になってから読み返す価値のある児童書だと言えるのではないでしょうか。

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