今回はC. S. ルイスの『四つの愛』を取り上げます。C. S. ルイスの本は『喜びのおとずれ』と『銀のいす』を以前このコーナーで取り上げたことがありましたので、改めて紹介するまでもないかとは思いますが、彼は20世紀英国の英文学者で、オックスフォード大学モードリン学寮の研究員を長く務めた後、ケンブリッジ大学中世・ルネッサンス期英文学講座の教授となった人物です。これはケンブリッジ大学がルイスのために用意した講座であったそうです。しかし作家ルイスの名前をイギリス、そして世界に知らしめたのはキリスト教や神学に関する一般読者向けの著作をによって、さらに『ナルニア国物語』シリーズの児童文学者としてでした。『四つの愛』もルイスのキリスト教に関する著作の一つです。原著は1960年に出されました。この年はルイスが晩年に結婚したジョイ・デヴィッドマン・グレシャムに先立たれた年です。
ジョイ・デビッドマン・グレシャムは、ユダヤ系アメリカ人の女性で、ルイスの著作の愛読者でした。以前は無神論者で共産党員であったこともありましたが、事情があって米国を離れ、英国に滞在していた際、ルイスと出会います。二人は1956年に結婚しますが、その時既に彼女は骨髄癌に冒されており、1960年に亡くなります。ですからこの本は、恐らくはルイスとジョイとのわずか4年ほどの結婚生活の時期に書かれたということになります。
愛に関する思索を展開した著作としては、恐らく古典とも言えるのがプラトンの『饗宴(シュンポジオン)』ではないでしょうか。キリスト教的愛についての思索を行った著作としては、スウェーデンの神学者ニーグレンによる『アガペーとエロース』という本がすでに出版され、広く知られていました。訳者後書きによれば、ニーグレンがキリスト教的愛をギリシャ語のアガペーに代表させ、プラトン主義的エロースと対置させて、両者を峻別して理解したのに対して、ルイスは、人間が人間に対して抱く四つの愛(愛着[ストルゲー]、友愛[フィレオー]、性愛[エロース]、恵愛[アガペー])の特徴を示しつつ、それらの内、どれが最もキリスト教的であり、どれがキリスト教的ではないか、というような分析は行わないのだそうです。つまりキリスト者も四つの愛のいずれかを経験する可能性があることをルイスは認めていたということでしょう。ただ通読すればわかりますが、ルイスもニーグレン同様に「恵愛」(アガペー)を重視していることは明らかです。
この本は『四つの愛』というタイトルですが、厳密に言えば五つの愛について語っています。上にあげた四つの愛に加えて、第二章で「人格を持たないものに対する好みと愛」について論じているからです。「人格を持たないものに対する好みと愛」は、人間ではないものを対象とする愛についてのエッセイです。この章では、主に自然に対する愛と祖国愛が論じられます。特に愛国心についてのルイスの論評が優れていると感じました。例えばルイスは愛国心を育てるとされる歴史教育についてこんな風に書いています。
「有害であると思われること、長く記憶されれば悪質な愛国心を培うと思われることは、明らかに誤りと分かる歴史や偏見に満ちた歴史を若者に大真面目に教唆すること、英雄譚を教科書的史実に見せかけて若者に吹き込むことである。」(39頁)
歪んだ愛国心はしばしば歪んだ歴史教育に基づくものであることをルイスは知っていたのでしょう。そして真の愛国心を育てるためには、国家・民族について真実を国民に教えることの重要性を、ルイスはさらに次のような比喩で説明します。
「『もし外見上のイングランドが本当のイングランドであるなら、我々は直ちにイングランドを見捨てる。しかしそれは本当のイングランドではない!』愛がこのように語ったことは一度もない。それは子供に向かって『良い子であるならば』その時だけ愛するということであり、妻が美しさを保っている限り愛するということ、夫が有名で仕事が上手く行っている限り愛するということと同じである。あるギリシャ人が『誰でも自分の国が偉大だから愛するのではない。自分の国だから愛するのだ』と言った。真に祖国を愛する人は、祖国が没落し、退廃しても愛するものだ。」(42頁)
ここには、愛国心を養うための歴史教育が自国にとって都合の悪い真実を隠蔽してはいけない理由が示されていると思います。もし母国を虚像によって愛しているのだとすれば、それは真の愛国心とは言えないはずだからです。
第三章で論じられる「愛着(attachment、ストルゲー)」は、ルイスによれば、最も一般的な愛であり、母親が子を愛する母性的な愛などのことです。この愛は「与える愛」の形でありながら、愛を注ぐ対象を必要とするという意味で「求める愛」でもあります(47頁)。ルイスの主張によれば、人間の自然的な愛が絶対化される時、それは悪に転じるとされます。「愛着」を注ぐことに熱心な人は、「愛着」を絶対化しないように留意することが必要だということなのでしょう。そして「愛着」を絶対化しない、ということは、他の自然的な愛においても同じなのですが、「愛着」を「神の愛」によって補完・変革するということでもあるとされているようです。それはつまり「与える愛」の対象を自分の意のままにし続けようとする願いを抑制し、自分の願いを捨てて、対象にとっての真の最善を願う愛に昇華させる必要があるということなのではないでしょうか。
第四章の友愛(friendship, フィレオー)に関するルイスの分析は、女性からすると、男性中心の視点から書かれていると感じられるかもしれません。この章を読むと、ルイスは友愛のモデルを、彼自身がオックスフォード大学の同僚と持っていたインクリングスの集まりでの経験に求めていたのかもしれないと感じます。インクリングスというのは、1930-46年に、ルイスや、彼の友人で『指輪物語』の作者として知られるJ. R. R.トールキンなどが中心となって、毎週火曜日の夜に、ルイスの研究室に集まって行われた文芸批評の会で、ルイスの作品やトールキンの『指輪物語』の一部がこの会の中で朗読されたことでも知られています。
男性にとって、このような「同好の士」の集まりは、一定のテーマがあって初めて成立し可能となります。けれども、ルイスによれば、女性の場合は、そのような共通のテーマというものは、必ずしも必要はないのかもしれないとされます(106頁)。いわゆる「女子会」という名前で気の合う女性同士が集まることの方が、あるいは女性にとっては自然なのかもしれません。
第五章のエロース的な愛(Eros、エロース)は、あるいはルイスが考えるもう一つの概念、ヴィーナス的な愛と混同されているかもしれません。ルイスはエロース的な愛ではなく、むしろヴィーナス的な愛の方が、現代人の愛の中心になっていることを指摘します(136頁)。現代語におけるエロスの元になっているギリシャ語のエロースは、性欲を満たす愛であると思われるかもしれませんが、ルイスはそのような愛を、むしろヴィーナス的な愛と表現して、エロース的な愛と区別します。なぜこの区別が可能なのか、そのルイスの説明には、彼による愛の分析の真骨頂が発揮されているような気がします。
「我々の内にエロース的愛が宿る時、我々は最愛の人と不幸を分かち合うことを心から願い、別れて幸福になることを願わないものである。」(149頁)
この洞察は、ルイスがジョイとの結婚生活を通して強く感じたものであったのかもしれません。ルイス自身がジョイに対して抱いた愛は、このようなものであったのではないでしょうか。
最後に第六章でルイスは「恵愛」(Charity、アガペー)について語ります。この愛は、無条件に与える愛であり、この愛を十全な意味で保持しておられる方は、神以外におられないとルイスは考えているのでしょう。だから人は「恵愛」を身につけるために神を知る必要があるとルイスは考えているのではないでしょうか。この「恵愛」と関連して思い起こされるのは新約聖書ヨハネの手紙第一4章8節の言葉です。
「愛のない者は神を知りません。なぜなら神は愛だからです。」
世界を創造された唯一の神とは、与える愛に満ちた方であり、愛そのものである。それがこの手紙の作者の確信するところでした。
キリスト教信仰は、このヨハネの手紙第一4:8で語られているように、神は愛なるお方であり、完全な愛は神の属性であると信じます。ということは、人間が自然的に持っている愛は、全て不完全なものであるということです。その不完全さのゆえに、自然的愛に基づく行為は常に正しいわけではありません。それが絶対化される時には、悪に転化してしまう危険性があるということでもあります。このことを語っている箇所として、ルイスは、新約聖書ルカによる福音書14章26節を上げます(167頁)。この箇所は、家族以上に神を愛する者が神の国にはふさわしくないと書かれている箇所です。自然的な愛には、常に「偶像崇拝」と類似した、唯一の神を第一とするものとは異なる思いへ傾いてしまう危険性が伴うということなのでしょう。
そして自然的愛は「恵愛」とも言い換えられる神の愛によって変革・再編される必要があるとルイスは言います。それは条件付きの愛から無条件の愛への変革だとされます。
「しかし神の『与える愛』は完全無私のものであって、愛の対象にとって最善のことだけを欲する。また自然的な『与える愛』は愛する者にとってもともと愛すべき性質の者であると感じる相手にしか向けられない . . . 。しかし神の『与える愛』が人に与えられる時、自然的観点から見ると全く愛らしくないものを愛することを可能にする。」(179-80頁)
さらにルイスは、そのような無条件の与える愛を、人が他者に対して与えることができるようになるために必要なことについて次のように書きます。
「人間の本性が最後の宝としてすがりつくあの幻想、つまり我々は自分のものを何か持っているという幻想、自分の中に神が価値を注ぎ込んで下さっていて、それは一時間でも自分の力で保持できるという思い込み、この幻想がある限り、我々は幸福になれない。. . . 我々は生まれつき本来自由を持っている、力を持っている、あるいは価値を持っているという主張を完全に捨てる時に、本当の自由、力、価値が我々の者となる。なぜならまさに神がそれらを与えておられるからであり、我々もそれらが自分の『所有』ではないことを知るからである。」(184頁)
聖書は、究極的には、創造主なる神が、今も世界の全ての人々の命を保ち、支え、導いておられると教えます。そのような確信に立つということは、自分に与えられている健康も、財産も、能力も、その他、自分の価値を高めると思われる一切のものが神によって与えられているとの信仰に立つことになります。もしそうであれば、神に与えられているものや能力を、必要としている他者のために捧げることは自然であり当然のこととなります。そのように無条件に相手の幸福を願う「与える愛」によって、自然的な愛の陥る危険性を回避することができるとルイスは考えているようです。
ただルイスは、そのような人間の自然的な愛の絶対化を断ち切る方法があると断っておきながら、同時にアウグスティヌスが『告白』の中で書いていることについても紹介します。アウグスティヌスの自伝『告白』の中には、愛する友人ネブリディウスが死別した時に書いた文章があるのだそうです。アウグスティヌスは、やがて失われる存在である人間に自分の全てを賭けてしまうことは愚かであると『告白』の中で書きます(168-69頁)。しかし老齢のルイスは、この本を書いている時期に、病を負っていたジョイの看病をしていたからなのでしょう。そのようにパートナーを愛することはイエス・キリストへの信仰と矛盾しないと考えたかったようでした。見方によっては、ルイスがジョイに対して持っていた自然的な愛も、絶対化の危険性、すなわち偶像崇拝化の危険性を秘めたものということになります。
しかし裏を返せば、このような『四つの愛』の終章における、ルイスの矛盾を孕んでいるかのようにも見える文章は、晩年の数年間を共に過ごしたジョイ・デビッドマン・グレシャムという女性に対するルイスの深い愛情を、やや理性を失ったかのような形で表現されているものであって、このような自己矛盾それ自体が、ルイスの不完全さと共に、彼の、またこの本の魅力ともなっているように思います。
自己矛盾ということなら、神の愛について論じておりながら、『四つの愛』の最後には不信仰とも取られかねない内容も書かれています。ルイスは、愛する人との天国での再会という希望は無意味だと書いているからです(193-94頁)。なぜルイスはこんなことを書いたのでしょうか。これは推測の域を出ないことですが、これを書いている時期、ルイスはジョイの死を覚悟していたのかもしれません。しかしそのような時に、キリスト者の友人がかける慰めの言葉に彼は憤慨していたのかもしれません。キリスト者の友人は、ジョイとの別れの時が迫っていたルイスに向かって、「天国で再会する希望がある」などと言って励まそうとしたのかもしれませんが、そのような言葉を聞いても、ルイスにとっては何の慰めにもならなかったのかもしれません。
さらに言えば、ルイスという人は複雑な心の持ち主でもあったのでしょう。彼は9歳で愛する母との死別というトラウマ的な経験をさせられた人物でした。少年時代にはルイスの感情を理解しない父親との難しい親子関係によって、心はさらに深い傷を負い、非常に複雑な精神構造を持つ人物となったのかもしれません。そういう彼にとって、晩年になって出会ったパートナーが病に苦しめられるという経験は、とりわけ苦渋に満ちたものであったのではないでしょうか。『四つの愛』の結びは、一見不信仰とも取られかねない、難解で矛盾を含んだ文章になっていますが、そこにはそのようなルイスの複雑な心情が表れていたと捉えるべきなのかもしれません。
ルイスは最初、この本を、自然的な愛を補完・変革する神の愛(アガペー)の必要性を訴え、それによって読者が神の属性である超越的な愛の必要性と必然性に目覚めてほしい、つまりはキリスト教的愛を受け入れてほしいと願って書き始めたのではないかと思います。しかしこの本の最後で、ルイスは、彼自身の人間的な脆弱さを露呈することになってしまったかのようです。それでもルイスは、自分の心に偽らない形で、この本を書き終えようとしたのではないでしょうか。
ルイス自身、ジョイに対するエロースの愛(自然的愛)ゆえに、自分が盲目となってしまっていたことを十分に自覚し、自分を客観視することができなかったのかもしれません。ルイスはジョイの死後、『悲しみを見つめて』という本を書くことになるのですが、この本の中でルイスは、愛するパートナーの死によって完全に打ちのめされてしまっていた心境を率直に書き表しています。かつて『痛みの問題』という本の中で、彼は、この世に存在する悪のゆえに神の存在は疑わしいという疑問に対して、野心的な議論を挑み、神への信仰を擁護していました。あの時の彼の力強さは、この『悲しみを見つめて』という本からは感じ取ることができません。『四つの愛』という本も、ルイスという、弱さを抱えた不完全なキリスト者の、愛についてのやや混乱したエッセイとなってしまっている。そういう読後感を残す面があります。
それでも、私はこの『四つの愛』で教えられていることには多くの真実が含まれていると思います。特に完全な愛は、ただ唯一の神にのみ属するものであり、神の愛を知ることなしに、人間は、人を真に愛することが難しいということなどがそうです。そのような完全な神の愛は、神がイエス・キリストという方をこの世界にお遣わしになることによって、私たちに示されたのでした。
そもそもこの世界に完全な愛などというものは存在しない。初めからそういう思想的前提を変えるつもりのない人は、この『四つの愛』を読むことには意味がないと感じられるかもしれません。けれども、たとえ現在はそのような思想的前提を持っている方であっても、そのような前提を絶対視せず、ルイスの語るキリスト教的愛の思想に傾聴することのできる方には、この本はお勧めしたいと思います。
Comments