高峰秀子『わたしの渡世日記』(上・下)、新潮文庫、2012年


 高峰秀子さんが亡くなられたのは2010年の年末でした。正直に言うと、それまで高峰秀子さんの主演映画は一本も観たことがなかったのですが、年明けに数本続けて鑑賞しました。『浮雲』『放浪記』『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾年月』などです。さらに言えば、日本映画にはあまり関心を持っていなかったのですが、高峰秀子さんを入り口に古い日本映画を積極的に視るようにもなりました。その際ナビゲーターとなったのが、高峰秀子さんの書かれた『私の渡世日記』でした。これは大分前に書かれた本ですが、亡くなられてから一年ほどたった時期に新潮文庫から新版が出されました。


 この自伝的エッセイは1975年から『週刊朝日』に連載され、朝日新聞社から同じタイトルで出版されていました。驚くべきことに、高峰秀子さんは、小学校すらまともに通ったことがないのだそうです。5歳で松竹のオーディションに合格してからというもの、最初は人気子役として、後にはドル箱女優として日本映画の黄金期を支えるスターでしたから、学校には通いたくても叶わなかった訳です。しかし女優という職業は、脚本家の書く台本を暗記するだけではなく、その意味に相応しく表現するという仕事で、しかもその仕事を約半世紀もの間続けておられたのですから、高峰秀子さんはエッセイストとしても一流でした。


 このエッセイを読んで、高峰秀子さんを銀幕でしか知らなかった映画ファンの中には、彼女がどういう生まれで、どんな人生を歩んできたのかを知って、衝撃を受けられた方も少なくなかったのではないでしょうか。高峰秀子という芸名は、函館出身の養母平山志げの女活弁士時代の芸名だったのだそうです。料亭などを営んでいた平山家にあって、志げは家族の中に居場所が無いと感じ、家を脱出するために、仕事でふらりと函館にやってきた荻野市治という活弁士と駆け落ちして東京の鶯谷に住むようになります。ところが二人には子供ができませんでした。平山志げは、兄嫁が第四子を妊娠すると、まだ実母の胎内にいる時から養子として引き取ることを予約し、生まれると、その養女となるはずの赤ちゃんに自分の芸名から秀子と名付けたのでした。ところが志げの兄夫婦の子供は男の子三人で、兄夫婦は四人目に生まれた女の子を自分たちで育てたいと言い始めて秀子を手放そうとしません。しかし運命のいたずらとでも言うのでしょうか、秀子がまだ三歳の時に実母が結核で亡くなり、結局秀子さんは志げに引き取られることになったのでした。最初に書かれている出生の事情を要約して書いたつもりですが、この説明も、何がなんだかさっぱりわからないかもしれません。それ位、複雑な家庭環境の中で、高峰秀子(本名平山秀子)さんは生まれたのでした。大正13年のことだそうです。


 東京に移ってから初めて養父母と一緒に出掛けた先が松竹蒲田撮影所でした。その日たまたま「母」という映画の子役オーディションがあり、着飾った子供たちが列を作っているところに、養父の荻野は突然秀子さんを並ばせます。太った監督が、一人一人順番に首実検していたのですが、秀子さんの所に来ると立ち止まり、そこで子供の列は解散となりました。何と彼女が子役に抜擢されたのです。出演した映画は大ヒットし、この時から彼女の映画人生がスタートしたのでした。


 最初の数章を読んだだけでも、高峰秀子さんの数奇な人生は、読者を驚かす逸話に事欠きません。10歳になった時、たまたま共演した歌手の東海林太郎が、秀子さんを養子にしたくなり、東海林夫妻の子供として生活させられることになったのでした。母の志げは東海林家住み込みの女中となります。しかしそんな思い付きの養子縁組がうまく行くはずもなく、裕福な芸能人の娘としての生活は、2年余りで終わることになります。高峰秀子さんには、人生の中でお父さんと呼ぶ人、お母さんと呼ぶ人が、それぞれ3人ずつでてきしまうことになったのでした。


 そういう人間模様も去ることながら、このエッセイには、1930年代から60年代にかけての邦画黄金時代を彩った才能が次々と登場します。田中絹代、原節子、杉村春子、古川ロッパ、徳川夢声、大河内伝次郎、長谷川一夫、森雅之を始めとする錚々たる俳優陣です。勿論彼らだけではありません。谷崎潤一郎、志賀直哉、『広辞苑』の新村出、画家の梅原龍三郎などもデコちゃんファンとして登場します。小津安二郎、成瀬巳喜男、木下恵介、市川崑と言った監督たちの横顔も紹介されています。彼女の活躍した時代、日本の映画界には優れた才能が溢れていました。現代日本の構造的な問題にも通じますが、才能が開花し、活躍できたのは、映画界の雇用が安定しており、長期的な視野にたって人材を育成するシステムが機能していたからだということもわかります。


 高峰秀子さんは最初松竹に所属していましたが、しばらくしてP. C. L.、後の東宝に移籍します。東宝では山本嘉次郎監督と出会いました。このエッセイによれば、山本監督との出会いが、高峰さんを女優として大成させるきっかけとなりました。ちょうど終戦間近かの頃、まだ十代であったデコちゃんは、山本監督作品のロケーションで千葉に来ていました。空襲警報で撮影ができず、暇を持て余していた彼女に、山本監督は近づいて話しかけます。「何でもいいから興味をもってごらん。なぜだろう?どうしてだろう?って……。」(上巻、350頁)このアドヴァイスを聞いて、彼女は今まで自分が漫然と女優業をこなしていたことを恥ずかしいと感じるようになり、「良く観察する」ことを実践するようになります。子役から大女優に成長するきっかけの一つが、山本監督の言葉であったのでした。


 東宝では、山本嘉次郎監督の助監督を務めていた黒澤明も一緒に『馬』という映画の撮影で山形に行ったこともありました。オフに宿舎で黒澤青年の部屋に行くと、彼は一人で、将来製作するつもりの映画のシナリオを書いていたのでした。うら若き高峰秀子さんと黒澤青年は、互いに魅かれ合うようになるのですが、その関係を断ち切ったのが、養母の志げさんだったそうです。当時は高峰さんの方が圧倒的に高額のギャランティーを得ており、志げさんとしては、助監督ごときに金づるを持っていかれてたまるか、という思いだったのでしょう。大分後になってから、今度は結婚を前提に交際していた映画会社の幹部から、ご自身のファンクラブの会費を横領され、おまけにその人物には別の交際相手がいることまで発覚するというひどい経験をされたこともありました。そういうことがあったからでしょうか、実際に相手を選ぶときには慎重でした。木下恵介監督から二人紹介されたそうですが、高峰さんは、二人のうち、あまりお金をもっていなかった松山善三さんを選んだのでした。


 このエッセイを読んで、何よりも驚かされるのが、高峰秀子さんにとっての養母の存在です。黒澤青年との関係を引き裂いたのも養母でしたが、養母との確執とも言えるエピソードとともに、二冊のエッセイには志げさんが度々登場します。それでも高峰秀子さんが偉いと思うのは、エッセイの最後を、養母に対する感謝の言葉で締めくくっていることです。「今さら母におべんちゃらを言ったところで始まらないけれど、母なりの母に、私は私なりに『かあさん、ありがとう』と言いたい。」(下巻、383頁)


 この言葉を読むと、アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの「平静の祈り」 (Serenity Prayer) が思い出されます。「神よ、変えられないことを平静に受け入れる恵み (grace) を、変えるべきことを変える勇気を、そして一方から他方を見分ける知恵を我らにお与え下さい。」英語の grace は「恵み」という意味ですが、「優美」とか「善意」と訳すこともできます。家族関係とは、まさに変えることのできないものです。けれども、というか、だからこそ、家族との関係は人生の中でしばしば重荷ともなります。戦前から戦後を生き抜いた方々が、私のような者より勝っていると思うのは、苦労の多い時代を生きながら、難しい関係の近親者に対しても優しさや礼節を保とうとする姿勢ではないかと思います。苦労しても関係を維持するという方は最近少なくなっているかもしれません。昔の人の方が確かに立派であったと思うことがあるとすれば、そういう所ではないかなと思ったりします。