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見田宗介『現代社会の理論』岩波新書、1996年



 昨年夏の猛暑は地球温暖化が予想を超えるスピードで進行していることを強く感じさせられるものでした。秋には関西でカメムシの大量発生という奇妙な現象もあり、年末には海中酸素濃度の低下に伴う海水魚の大量死が立て続けに発生していました。2023年も異常気象の深刻さを痛感させられた一年でした。気候変動に対処できる時間がそれ程多く残されてはいないことを直視させられた一年であったのではないでしょうか。新年早々には能登半島地震がありました。そんなこともあって今回は見田宗介『現代社会の理論』を取り上げることにしました。

 

 見田宗介は2022年に亡くなられた著名な社会学者です。この本が出版されたのは、冷戦の終結と資本主義・自由主義陣営の勝利が確定したと思われた1990年代でした。しかし見田は、20世紀の資本主義体制が抱えている構造的な問題が未解決のまま放置されているとして、本書で警鐘を鳴らしておられました。この本では環境の限界・資源の限界・貧困などを理由に、現代の大量生産・大量消費を許容する社会が持続可能ではないことを見通しています。そして近年、本書が懸念していた問題は、より一層顕著になり、深刻になっていると言えます。特に環境の限界に関しては、この本ではそれほど具体的には語られていなかったのですが、現在我々は、温室効果ガス削減・脱炭素社会の実現という、より緊急性の高い課題に直面させられるようになっていると思います。


 読んだ感想としては見田宗介の文章はかなり難解でした。著者にとって連続しているはずの思考のまとまりを相互に関連づけている論理の道筋が、必ずしも常に一般の読者に明示されている訳ではないために、なぜその話題の次にこの話題がくるのか、フォローし切れない箇所が多くありました。ですから見田の主張していることは大まかにしか捉えることはできていません。それでも主張されていることの重要性はある程度理解することができたように思います。


 見田宗介は厳密にはマルクス主義者ではないと思いますが、この本の理論的基礎にはマルクス主義経済学の影響が認められると思います。それは本書の一章で情報化/消費社会の問題が論じられているからです。20世紀中期頃まで、マルクス主義経済学が一定の評価を受けていた最大の理由は、産業革命後の社会が抱えている問題についてマルクス主義経済学者たちが優れた分析を行なっていたからでしょう。T型フォードの生産において実践された大量生産は、需要をはるかに超える商品を市場に大量に供給し続けてしまうために、資本主義社会は常に生産過剰によって周期的に生起する恐慌のリスクに晒されている。このような資本主義批判をマルクス主義経済学は展開していた訳です。これに対して資本主義体制は、ケインズの考案した国家財政による有効需要の創出や、アメリカのジェネラル・モーターズに代表される経営戦略において実践された方法ですが、マス・メディア(情報)を駆使したマーケティングによる購買欲求の刺激によって、過剰な生産を過剰な消費によって埋め合わせる形で産業社会の抱える構造的問題を隠蔽し、あるいはその解決を先延ばしして来ました。


 他方、そのような大量生産を可能にするために、産業社会にはもう一つの仕組みが必要でした。それは植民地支配、あるいは経済的な支配と従属の関係を内在するシステムの創出です。19世紀に欧米列強は植民地支配を強化し、欧米の豊かな社会を維持するために、植民地側に大量生産のための原材料を安価に供給する役割を押し付けて、それによる抑圧と搾取を続けてきました。かつてのグローバル・サウスの貧困は、この地域の人々が、自分たちの伝統的な生活様式を維持するための農業生産などを続ける代わりに、欧米列強の経済的な支配によって、安価な原材料の生産を押し付けられたために発生した問題でもあります。このような地球規模のシステムは、植民地が政治的には独立した後も、世界経済システムとして残念ながら存続してしまっている問題でもあると思います。


 しかし、21世紀も四半世紀が経過しようとしている今、今後も20世紀型の大量生産・大量消費を続けてしまうならば、近い将来、破局的な自然災害や食糧危機が地球規模で発生しかねない、それ位に事態は深刻化しているのではないでしょうか。


 20世紀型の大量消費社会が持続不可能であることは、既に1960年代から一部の人々には予見されていました。その代表的な例は、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』であると見田は指摘します。春が来ているのに、春に聞こえるはずの鳥の鳴き声が聞かれなくなっている。それは農薬の大量使用によって、鳥の餌となる昆虫が失われてしまったからである。そのように、カーソンは、現代のアメリカ式の農業が、持続不可能であることを1962年に訴えていました。この『沈黙の春』が出版されて既に半世紀以上が経過していますが、カーソンが警告した事柄は解決されたのではなく、『沈黙の春』で書かれている現象が、現在ごく当たり前の日常になってしまったために、人々は「沈黙の春」という現象にさえ気づくことができなくなってしまっています。


 地球規模の破局を回避する処方箋について、見田は、情報と消費の自由を禁圧しない形で、環境の限界・資源の限界、貧困の問題に対処するには、現在の資本主義体制と異なるシステムを構想するが必要があると考えているようです。見田の表現によれば、将来のために望ましいシステムと現在の情報化/消費社会のシステムの「位相差を切開する」ことによって明示しなければならない、と述べられています(124頁)。痛みを伴う事実の開示と現実についての正確な認識が必要だということなのでしょう。そのような努力の一つは、しばらく前に公開された映画「不都合な真実」などにも認められるのかもしれません。また将来を見据えたシステムの一つは、温室効果ガス排出を規制する国際的な枠組みであるCOPなどによって現在国際社会において構想され、実現のための努力がなされているのかもしれません。


 本書は、仮にそのようなシステムの修正・転換が実現すれば、自由な幸福追求を認める消費社会を維持することは可能であるとの立場に立っています。その理由としては、現代の消費行動を分析すると、消費者が高い対価を払って購入する商品が、必ずしも常に大量の資源を消費している訳ではないという現象が見出されるからだとされます。資源の大量消費とは異なるideaの消費とも言えるものが、現在の市場経済の中で大きな位置を占めつつあるということです。そうであれば、現在の市場経済を維持しながら、資源・化石燃料の消費を抑えつつ、人々が幸福追求のために、あるいは欲求の充足のために、高価な商品を購入するということは実践されうることだと説明されています。またエネルギー効率の高い建造物などを建設することへのインセンティブを与えるような仕組みができれば、人々は多少費用がかかっても、そのような建造物の建設を選択することになるでしょう。また20世紀後半の日本の生産性の向上は、それ程資源を大量に消費することなく達成されているそうです。さらに最近の新興国の経済成長や世界の人口増加に伴う資源消費量の増大は、比較的低い水準を保っているとのこと。これらの統計的な数字なども、市場経済を維持しつつ、持続可能な社会を構想することができると考えられている理由であるとされています。


 そういうシステムを実際に構築できればそれに越したことはありません。それに対して現在は、さらにラディカルな変革を必要とすると言う主張もなされていると思います。ただ結局のところ、私たちができることは、かつて過剰生産に伴う恐慌を抑止しようとした時と基本的には同じような方法しかないのではないでしょうか。それはつまり温室効果ガスの排出を国家権力によって抑制すること、また消費の欲望を過剰に刺激する情報の有害性を一般に周知し、そのような有害な情報操作に国家権力によって一定の制限を加えるということ、あるいは環境負荷の低い商品・環境や貧困問題にも配慮した商品についての情報が消費者により良く開示されるような制度が創られること、これらが今後必要になるのではないかと思われます。

 

 いずれにせよ、この本を通して、私たちは現在よりも石炭・石油・天然ガスを燃やすことを大幅に控える必要があるということを改めて認識させられました。今後は、できれば化石燃料をなるべく燃やさない生活を目指すべきだと思わされます。今後二酸化炭素を簡単に分解するような技術でも発明されない限り、現在のレヴェルの化石燃料の消費を続けることはできません。そしてどう考えても現在のエネルギー消費を再生可能エネルギー(renewable energy)によって賄うことなど物理的に不可能だと思います。ですから私たちはかつて1960年代頃までの日本人が続けていた生活のスタイルのある部分を、もう一度回復することが必要になるのではないでしょうか。それは同時に経済成長をしなくても維持できる国家や社会を作るということでもあると思います。それが現代の私たちが将来の世代のためにできる最善のことではないでしょうか。


 そのような社会システムの構築を目指すことには聖書的な根拠もあると思います。旧約聖書の申命記22:1-4には、神が古代イスラエル民族に対して与えられた戒め、即ち約束の地で構築する新しい神の国においては、他人の所有物である家畜が迷子になった時も、見つけた人はその所有者のために家畜を保護しなければならいという規定が記されています。この律法の規定は、より複雑化した現代社会において、世界経済システムや、あるいは世代を越えた環境の保護にも適用されるべき教えであるように思われます。申命記の教えによれば、私たちは他人の所有物をも尊重しなければなりません。問題の「外部化」によって見えにくくなっているとはいえ、これまで大量生産のための原材料供給源であった開発途上国の所有物をも私たちは尊重しなければならないという教えにつながるはずです。そして同じことは、次の世代の人々が所有するはずの自然環境や資源にも当てはまります。私たちは、次の世代の人々が、安心して生活することができる自然環境を保つ責任と義務を負っているのではないでしょうか。


 日本という国は、潜在的にはそういう社会を構築するために、恵まれた地理的条件を備えている国だと思います。我が国は化石燃料の資源が乏しい国ですし、温暖湿潤で樹木は自然に生育する地理的条件が備わっています。20世紀型の大量消費社会とは異なる社会を創出するアイディアを提案するのに格好の国土ではないでしょうか。あとは私たち自身が生活のスタイルや意識を変えさえすれば良いのだと思います。

 



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