最首 悟『星子が居る』世織書房、1998年


 著者の最首悟さんという方は、かつて東京大学で助手をされていた時に、安田講堂の占拠につながった東大全共闘の運動に参加され、その後、和光大学や恵泉女学園大学などで教鞭を執られた方です。全共闘運動を特集する番組などがテレビで放送されると、しばしばインタビューに登場される方なので、ご存知の方もおられるかもしれません。


 なぜこの方の本を読んだのかというと、私のダウン症の妹が、最首さんの始められたカプカプという知的障碍者の作業所にお世話になっているからです。横浜市旭区ひかりが丘団地の商店街にあるカプカプひかりが丘です。ここは喫茶室とフリー・マーケットを開いている作業所で、喫茶室に入ると、木目の美しい大きな木のテーブルがあって、そこに座って一杯300円のコーヒーで、くつろぐことができる空間なので、団地の方などが、新聞や本を読んだり、おしゃべりをしたりして時間を過ごしておられます。そのような空間を提供することも、この作業所のMissionの一つなのでしょう。


 妹は、この作業所が開設された時からお世話になっています。養護学校を卒業するタイミングでこの作業所が開設されたからでした。両親は、のんびりしているのだか、いいかげんなのだかわかりませんが、妹の卒業が近くなっても、卒業した後のことについて、ほとんど何も準備をしていなかったようなのです。ところが、ふとした地域の出会いを通して、この作業所のことを知り、妹を受け入れて頂くことになりました。


 最首さんという方が作業所を始めようとされたきっかけは、ご自身の娘さんである星子(せいこ)さんが重度の障害を負っておられるからです。けれども、恐らくそれだけではなかったのでしょう。専門は動物学だそうですが、水俣病の問題にも取り組まれ、公害を生み出すような現代社会の構造的な歪みと格闘されて来たこととも関係があるのではないかと思います。


 この本の中に「星子と私と私の命」という文章があります。これはソーシャルワーカーの方々に向けて語られた講演に基づく文章のようです。その中でデカルト的な科学観とパスカル的な科学観とが対比的に語られていました。


「私たちの科学観というのは、ほとんど100%デカルト的だと思います。特に専門職に就いている人にとっては、日常的なことです。デカルト的立場とは、自分の営みが『世界』の明晰化につながっているという信念だ、といっていいと思う。世界という枠が決まっていて、もちろんその枠が無限大であり不可視にしても、『世界』というと『決まっている』という感じがある。『世界』はもう未知なもの、混沌としたものに満ちている。しかしそれを貫いている秩序がある。枠とは秩序です。その秩序を解いていくのが人間であり、人間として最高の営為である。そうして、人間が一つ努力をすれば、世界のわからなさは一つ減ると考える。…

 ところが、それに徹底的に対立するパスカル。彼は学問も止めて、ジャンセニズムというキリスト教の中でも神秘主義の方に行ってしまいます。…これは私たちの経験則と合っているような気がするのですが、一つの事実を明らかにしたとたんに、だいたい10の新しい未知が出て来るわけです。一つの実験に成功した時というのは嬉しいですけれども、同時に10ぐらいの課題を抱えてしまう。…」(164-166頁)


 デカルト的な科学観によれば、自然科学の研究は、確実に未知の領域に光を照らすことに繋がることになる。これは現代社会が科学研究の価値について抱いている前提ということなのでしょう。ところが研究の最前線に立つと、実は、そのようなデカルト的な科学観では説明しきれない現実が待っている。自然科学者は、研究対象について知れば知るほど、未知の領域が幾何級数的なスピードで広がってしまう。しかも、現代の科学者たちは、新しく知り得たことを応用し、その結果生じる事態に対して責任を取ることができなくなる程、既知の領域に対して、未知の領域が拡大してしまっている。このような科学研究の現実を、もしかしたら17世紀にパスカルはある程度見通していたのかもしれません。(蛇足ながら、ジャンセニズムを「神秘主義」とだけ説明するのは、少し不十分だとは思いますが。)現代の科学技術や産業社会が生み出している負の側面に向き合ってこられて、最首さんは科学研究の現実をそのように捉えるようになったのでしょうか。


 ただ、そういう話をソーシャルワーカーの方々に話された理由は、別のところにあったようです。人間や社会を考える場合にも、近代社会の抱える問題を考えなければならない。そのように考えておられるからなのだと思いました。愛する娘さんであり、重い障害をもった星子さんと生活していると、近代社会が前提としている個人の自由な選択とか、平等とか、権利とか、近代的な価値観などでは理解しきれない面が、本来人間には備わっていることを意識させられるのだと思います。近代が生み出した国家・社会制度は、国民的な軍隊であり、警察であり、司法制度であり、国民全員のための学校であり、営利を目的とした企業であり、そしてそれらの最上位に行政官僚機構があります。それらは近代社会の価値観によって生み出された制度ですが、ところがそうした制度によって人間や人間社会の存在のある部分は切り捨てられ、無視されてしまっているように思われます。だから近代の社会思想や制度からはこぼれ落ちるようなところに目を向ける必要がある。この本を読みながら、カプカプという作業所も、そういう理念で立ち上げられた場所なのかな、などと感じています。


 考えてみると、キリスト教会という場所も、それと似た社会的機能を果たすべき存在なのだと思います。使徒パウロの手紙には、教会をキリストのからだと表現し、人体に譬えながら説明する箇所があります。「それどころか、からだの中で他より弱く見える部分がかえってなくてはならないのです。」(新約聖書コリント人への手紙第一12章23節)人体を全体的に見ることが大切であるように、教会もそのように理解する必要があるとパウロは教えます。ただ、これは教会内のことに留まらないのではないでしょうか。キリスト教会は、社会全体の中でも「弱く見えるが、なくてはならない」存在とされていく必要がある、ということでもあるのでしょう。

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