春名純人『キリスト教哲学序論』教文館、2018年


 この本は、キリスト者ではなくても、哲学に関心がある方には手にして欲しいと思う本です。哲学を専門的に学んだことはない私にとっては、とても難解な本でしたが、それでもいくつか大切なことを教えられました。


 まずこの本から確認したことがありました。それは無前提の学であることを標榜する哲学であっても、前提をもっているということです。そしてキリスト教哲学の一つの使命は、そのような哲学の前提を明らかにすることにあるのではないか、ということです。キリスト教哲学は、当然ながら、有神論的な前提に立ちます。キリスト教徒ではない方には、そのようなキリスト教哲学と同じ土俵に立つことは難しいかもしれません。ではそのようなキリスト教哲学はキリスト教徒にしか意味がないのでしょうか。実はそうではないのだと思います。キリスト教哲学は、一般の哲学的な営みの批判者として重要な役割を果たしうるからです。その役割の一つは、どのような哲学にも、かならず前提が存在していることを明らかにする点にあるのではないでしょうか。第二章の冒頭で、春名先生はデカルト哲学の前提について次のように書いています。


「宗教は、これだけは譲ることの出来ない真理であるとか、教義の体系をもっているのに対して、哲学は、あらゆる前提を疑うことから始まる無前提の学である、という公理が通用している。哲学は理性の学であり、理性はあらゆることを疑うことから出発する。デカルトは確実な一点、アルキメデス点を求めて、凡てを疑う方法的懐疑を説いた。彼は『疑っている自分の存在』は確実であるとし、『我思う、故に我あり』(cogito ergo sum)と述べたのである。このコギトの原理が近代哲学の出発点となった。…しかし、よく考えてみると、デカルトは、客観的中立的健全な自律的理性の存在を無批判的に前提しているように思われる。」(58頁)


「デカルトの批判者パスカルは、デカルト的幾何学的精神においては、理性が明晰・判明に思惟しないもの、繊細の精神やこころの問題は、存在・実在の世界から排除されていくことを見抜いていたのである。」(59頁)


これはデカルトの前提についての分析ですが、こうした哲学の前提に関する批判的な分析は、恐らくどのような哲学者の思想に対してもなされうるものでしょう。有神論的な前提に立ち、聖書的世界観や人間観を知るキリスト教哲学者であればこそ、ある特定の哲学を的確に批判することができる場合もあるのではないでしょうか。


 それからもう一つ、この本から教えられたのは「解釈共同体」という概念です。カール=オットー・アーペルというドイツ人の哲学者が用いていた概念だそうですが、この概念は日本で福音宣教に取り組む者にも示唆を与えるのではないでしょうか。


「一つの民族を解釈共同体と考えるとき、伝道の困難性はこの点から説明することができる。神、罪、贖罪などの概念やそれに関係する命題を説教するとき、それを日本人は歴史的に継承している精神性の文脈の中で聞くことになる。言語遂行論がプラグマティークであるのは、概念や命題を長い時間の中で習得していく『言語のアプリオリ』を問題にするからである。日本人が『神』『罪』『贖罪』概念にアプリオリに付しているコンセンサスは、聖書の概念と微妙にずれているところがある。日本人が聖書信仰に徹底できない困難の一つはこの点にある。」(70頁)


日本語の使用と日本文化の伝統によって形成される解釈共同体の中で、聖書のメッセージをより良く伝えるためには、日本人が特定のことばによって前提としている事柄を、よりクリアに意識することから始めなければならないということなのでしょう。他方、新約聖書の記者たちも、ユダヤ教の中に誕生した初代教会という一つの解釈共同体の中で新約聖書を書いたことになります。しかも新約聖書の世界では、単に文化的な事柄についてのみ語られているのではなく、信仰に関わる事柄について、神学的な事柄について語られてもいます。そのような新約聖書の著者たちの世界の中で、アプリオリに受け入れられている事柄を見極めることも必要になって来ます。宣教の言葉を獲得していくためには、異なる解釈共同体の間を架橋する言葉を見出す作業を地道に続けなければならないのだと思わされました。


 最後に、この本のあとがきには、春名先生の研究者としての歩みが綴られていましたが、そこからも、大切なことを確認しました。それはキリスト者にとって、人生の意味とは、神様の召命を信じて生きることの内にも見出される面があるという点です。召命は、聖職者のみに与えられるのではなく、世俗的な職業に就くものであっても召命によって歩む道が備えられている。この確信は、カルヴァン派の信仰の伝統の核心をなすものだとのことです。春名先生も、ご自身の研究者としての歩みや、優れた研究者たちとの出会いが、召命を信じて歩んだことの結果であったと述べておられるように思います。21世紀は、ますます変化の激しい時代になりつつあります。かつて宗教改革者たちが教えたような、世俗的職業への専心という道を文字通り生涯歩み続けられる人は、だんだんと少なくなっていることでしょう。けれども、そういう時代の中にあっても、神様は一人一人の人生に必要な出会いを与え、導きを与え、使命を与えて下さるのではないか。この本を読みながら、そのように感じました。

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