斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年


 今、若いマルクス主義経済学者の書いたこの本が25万部もの売り上げを記録するベストセラーになっているそうです。昨年の秋から書店に並んでいることは知っていましたが、表紙の写真の著者の表情が気難しそうな印象であったこともあり、購入するのをためらっていました。けれども先々週インターネットのニュース番組を通して、気さくな人柄に触れることができた上に、なぜ今この本が注目されているのかを知って、急いで買って読んでみました。


 人新世という言葉は、最近地質学上の最も新しい地層年代を指す用語として使われ始めたのだそうです。この地層は、それまで自然界に存在しなかった、人間の生産活動によって生じた物質の痕跡が溢れている時代を示す地層として、将来認知されることになるだろうと予想されています。この地層年代を人新世と呼ぶことには危機意識も込められています。現在我々が行っている経済活動を続ければ、地球環境に致命的な影響を与え、黙示録的な状況が現実となりかねないのではないかという危機意識です。


 著者の斎藤幸平さんという方は、まだ30代の若い経済学者ですが、気候変動をいかに抑制するかをめぐる最近の経済学者たちの議論を整理したうえで、SDGsのような成長を前提とする気候変動対策は破局を食い止めることができないし、資本主義システムの問題の解決にはつながらないと論じます。例えば最近ではガソリン車の代わりに電気自動車にシフトすることが望ましいと考えられるようになっています。しかしある研究者の試算によると、電気自動車を導入することによって、CO2の総排出量が大幅に抑制できるとは限らないという意見もあるのだそうです。また電気自動車などに使用されるバッテリーには、リチウムという物質が必要ですが、この物質を採取するためには地下水を大量に組み上げる必要があり、大きな環境負荷をかけてしまいます。環境に配慮する目的で開発される技術が、本当に環境への負荷を軽減できるかどうかは、注意深く吟味しなければいけないのだと思わされました。


 この本を読んでいると、今まで自分の頭の中でもやもやとしていた色々な問題が明快に言語化されていて、読んでいてスッキリしたと感じる箇所が多くありました。特に資本主義体制によって生じる矛盾が、これまで「外部化」されることによって、資源大量消費国の消費者から見え難くされて来たのだという指摘などは、その通りだと思いました。資本主義システムは、このシステムによって生じる貧困や環境破壊を、開発途上国、自然環境、また将来世代などに外部化することによって増殖を続けてきました。けれども、もはや外部化し続けることができない程まで、資本主義システムは、収奪をし尽くしてしまった感があります。ところが、それにもかかわらず、このシステムは、それ自体の中に破局的事態を回避する機能が組み込まれていないため、このままでは地球環境の破局的変動を回避できないばかりか、仮に破局的変動が生じた場合でも、このシステムは、人類全体の願いとは裏腹に、人や自然界を犠牲にしながら、ひたすら利潤のみを追求して生き延びてしまう可能性すらあります。


 では我々には、どんなオルターナティブがあるのでしょう。著者によれば、残されている唯一の道は、脱成長コミュニズム以外にないとされます。そして実はこのような道を目指す社会・経済思想は、すでに晩期マルクスの思想において示されていたのだそうです。近年新たな資料の発掘によって明らかにされてきたカール・マルクスの晩期の経済思想は、21世紀の地球環境問題に直面する我々に、解決策を示している。高橋幸平さんはそのことをこの本で訴えておられました。


 マルクス主義経済学は、冷戦の終結とソ連・東欧の共産主義体制の崩壊によって、もはや過去のものとなったと見なされてきました。しかし、それは『資本論』第一巻にみられるような前期マルクスの思想に基づいて、経済成長を一党独裁体制によって導こうとした政治的な試みが挫折しただけであって、マルクスの思想の全てが意味を失ったと限らないし、特に晩年にエコロジカルな視点を取り入れつつ、資本主義の将来を悲観し、脱成長の道を構想していた部分が最近再評価されているのだそうです。この晩期マルクスの思想から、21世紀の環境危機への処方箋を見出すべきである。著者はそのように考えておられます。


 晩期思想においてマルクスが重視していたのは、社会の共有財産(コモン)であるとのことです。「コモン」とは「社会的共通資本」と基本的には同じものですが、斎藤幸平さんの提唱する「コミュニズム」が具体的に提案していることは、「コモン」をより民主的に管理していく努力をすべきではないかというものです。これはなかなか難しいことのようにも思われますが、しかし社会の3.5%の人々が意識をもって行動すれば、インパクトを与えることができるのではないか。そう指摘しながら高橋幸平さんは読者を励ましておられました。


 この本を読んで、改めて人類に迫っている環境危機の深刻さを教えられました。私も、著者の現状認識と危機感については共有すべきだと感じる点が多くあります。しかし脱成長を提案することは簡単ですが、これを実際の政策に反映させることとなると、並大抵の努力では実現できないのではないでしょうか。21世紀に入って日本政府は「デフレからの脱却」という目標をずっと掲げている訳ですが、それは現実に起きている日本経済の収縮を、あらゆる手段を講じて覆い隠すための政策であると思います。これは明らかに目標達成不可能な政策看板なのですが、残念ながらこれを掲げ続けることしか現在の私たちの国には選択肢がなくなっているかのようにさえ思われます。なぜそんな達成不可能な目標を掲げ続けているのかといえば、それはつまり既存の政治システムや既得権益を維持するために、経済の収縮を統計の数字上だけでも隠蔽する必要があるからなのでしょう。「デフレからの脱却」という政策看板を降ろして、脱成長に舵を切れば、その瞬間から経済は負のスパイラルに陥ることも懸念されます。現在の日本の経済は、そのような恐慌に対処するには、非常に脆弱であるかもしれません。そういう日本の現実を前にして、脱成長をどうやって政治的に実現させるのかという具体的なプログラムについては、この本では十分には示されていないように感じました。また仮に日本だけが脱成長を目指したとしても、他の大国が同じように変わらなければ破局は避けられません。となると当面はSDGsのような中途半端な道を選ぶということも、現実的には仕方がないことなのかもしれないと思います。


 ただこの本を読んで、改めて、今の自分の生活スタイルを変えて行かなければならないことを痛感させられました。具体的には私の子供の頃の生活、つまり1970年代にあったような生活を回復する必要があるということなのでしょう。あの頃私の家族は自動車なしで生活していました。当時は外国産の食肉なども自由化されておらず、お肉を食べる機会も多くはありませんでした。買い物は、スチロールトレーを多用する大きなスーパーではなく、近くの八百屋さん、お魚屋さん、お肉屋さん、パン屋さんなどで済ませていました。マクドナルドもコンビニもユニクロもコストコもありませんでした。これからは意識して国産の穀物・野菜などを購入し、できるだけ自分の手で調理して生活する努力をしていく必要があるのでしょう。イギリスにはOxfamのように、途上国の経済や環境に配慮した商品を開発し販売する企業が存在しますが、日本でもそうした選択肢が消費者により多く提示されてほしいと思います。


 そういう意味では、この本に書かれている警告を真剣に受け止めて、ライフスタイルの変更や将来の職業選択や社会運動などに生かそうとする人が、一人でも多く増えて行ってほしいと思いますし、まず自分が生き方を改める必要があるのだと思わされました。


 キリスト教会は、全体としては、環境危機への意識が、これまでそれ程高くはなかったように思います。旧約聖書の創世記には、ノアの大洪水の後、生き残ったノアの家族に、神様は二度とこのような大洪水は繰り返されないと約束された箇所があります(創世記9:11)。けれども、このような約束に安住し、自然環境の破局的変動は起こらないと高を括っていることは、もはやできないのではないでしょうか。