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成瀬治『近代市民社会の成立: 社会思想史的考察』東京大学出版会、1984年



 今回は、学生時代に影響を受けた一冊を紹介します。本書については5月のこのコーナーで既に触れていましたが、私が大学生の時に読んで感銘を受けた歴史書です。この本は、かつて学部に在学中、ドイツ近世史を専門とする教授の演習の教科書に指定されていました。私は英国近代史の先生の演習に参加したので、この本を使った演習には加わっていませんでした。しかし演習の教科書に指定される書物であるということは、きっと重要な本なのだろうと思い、自分で購入して読むことにしたのでした。当時これをどの程度理解できたかはわかりませんが、例えば「共和国」(republic)の語源であるラテン語res publicaが「公共のもの」を意味するフレーズであると言うこと、このフレーズが古代都市ローマにおける政治的共同体を意味して使用されていたこと、従って古代都市ローマにおける政治とは市民の共有財産の管理に関わるものであったことなどを教えられました(21頁)。日本の政治文化においては、本来「公共のもの」であるはずの国民の共有財産が、政治家によって、あるいは官僚によって、厳格に共有財産として管理されず、私的な利益、あるいは省庁の利益のために流用されてしまうことが頻繁に発生してきました。そういう状況に常々怒りを覚えていた者にとって、なぜそう言うことが起きてしまうのかと言う疑問について、本書によって得られた知見から示唆を受けたように思います。そのような問題の原因は、つまり日本政治と西欧政治の伝統との違いに由来する可能性があること、そして日本の政治がさらに公正なものとなって行くためには西欧の政治的伝統を学ぶ必要があることを、この本を通して示されたように思います。大学時代に出会えて良かった本の一つです。


 成瀬治はかつて東京大学で主にドイツ近世国制史を比較史的に研究された歴史学者でキリスト者でもありました。処女論文は「ゲンツの反革命思想」という論文で、思想史から出発しておられた研究者です。ですから本書のテーマも専門分野の一つであったのでしょう。


 本書は西欧における近代社会の成立過程を「身分制社会」から「近代市民社会」への変化の過程と捉え、そのような変化を促した広義の社会思想を、ジャン・ボダンからヘーゲルに至るまで概観するというものです。すでに本書が出版された当時から、日本でもポスト・モダンの思想家たちの著作が相次いで翻訳されるようになっており、主に17-19世紀の西欧近代市民社会の形成を促した社会思想を紹介すると言うことの意義も問われなければならない時代になりつつあったかとは思います。しかし1980年代はもとより、それ以後の日本の大学生たちにとっても本書の内容は決して時代遅れにはなっていないと思います。


 本書が出版されたのは1984年ですが、土台となった東京大学文学部での講義は1972-74年にかけてなされたものであったそうです。「近代化」や「近代社会の形成」というと、1970年頃までは、所謂「戦後歴史学」における「封建制から資本主義社会への移行」という問題として史的唯物論の観点から論じられることが多かったテーマですが、近代社会の形成という問題を社会経済史的に考えるというアプローチは、実は問題の本質を見誤らせ兼ねない面があることに成瀬治は気づいていたのでしょう。ですから成瀬治は、同じテーマを、特に古代ギリシャ・ローマにおける市民概念にまで遡りつつ、政治・経済・哲学などに及ぶより広い視野を持って理解することを目指そうとしたのだと思います。西欧近代市民社会とは19世紀後半以後のマルクス主義が、より公正・平等な社会の実現を目指していたがゆえに克服しようとしていた社会のあり方でした。本書はこの西欧近代市民社会を支えていた思想とは一体どのようなものであり、それはどのように形成されたものであったのかを明らかにする試みであり、実は20世紀後半に至っても、日本人全般の中には依然として浸透し切れていなかった西欧近代市民社会を支えた社会思想の本質を明らかにしようとする努力でした。そのような近代市民社会の形成を導いた思想の本質を解明することで、仮にマルクス主義の影響を受けた左翼学生たちが日本における公正・平等な社会を目指すにしても、彼らの戦うべき対象が本来何であるか、あるいはそもそもマルクスが戦っていた対象が何であったのかを明確にする狙いもあったのかもしれません。


 1972-74年に、このような講義を行ったということは、当時としては野心的な試みであったように思われます。講義の4年前には東大安田講堂の攻防がありました。全共闘運動は退潮に向かいつつあったとは言え、依然としてかなりの学生はマルクス主義や実存主義の影響を受けていたことでしょう。それらの思想が当時の若者たちの流行であったからです。しかし成瀬治が本書のもとになった講義で受講者に語ろうとしたことは、大学生たちによる先鋭的な革命運動を、大学当局という非常に矮小化された対象に向けて展開することの愚かしさへの自覚を促しつつ、より大きな視点から日本社会全体の近代化に向けた意識改革と行動の変革が必要であることを若い学生たちに訴えることにあったのではないかと思います。


 本書の第一章が、シエースの『第三身分とは何か』という書物の検討から始めているのも、時代の状況を反映していたのでしょう。当時多くの若者は、今では信じられないことですが、日本における政治革命を志向していたからです。しかし当時の若者たち、即ち期待される革命の担い手となるはずの人々の意識や行動様式は、ともすると無意識のうちに前近代的振る舞いに留まってしまっているという矛盾に成瀬治は気づいていたのではないでしょうか。かつてフランス革命が実現するためには、そのような社会のうねりを準備した思想的起源や社会的前提があったのでした。そのような西欧社会思想の伝統を知ることなしに、表層的に革命運動を模倣することには危険がつきまとうことを本書は示そうとした面もあったのではないかと思われます。


『第三身分とは何か』という政治的パンフレットによって、シエースは、一つの法・一つの立法府・一つの共同体のもとにある国民国家こそが、本来の国家のあるべき姿であると構想しました。一方貴族身分は、第三身分には適用される法が免除されることによって特権を享受していました。シエースは彼らを国家内国家であるとし、国家統一を阻害する身分とみなすようになります。当時軍隊、司法、教会、行政のそれぞれの部門の95%は第三身分によって占められていたものの、これらの部門の中で特に旨味があり且つ名誉ある地位は全て貴族によって独占されていました。ルイ16世の招集した一般三部会も、国民全体の一般意思を代弁するものではなく、あくまでの貴族の意思を代弁するに過ぎないと批判します。と言うのも「三部会」は聖職者、貴族、司法官の三部から構成され、第三身分出身者は司法官の集会にしか存在しませんでした。そして司法官の集会に集う第三身分出身者でさえも、多くはその心性において貴族層のそれに同化してしまっていたのでした。ですからシエースは、身分制に囚われない、また特権身分のご機嫌取りをしない第三身分出身の議員が、第三身分全体から選出される国民的議会の必要性を訴えたのでした。


 成瀬治は、このシエースの訴えに基づいて、三部会の第三身分のグループが独立して「国民議会」を設立したことにこそフランス革命の発火点があったと洞察します。それはバスチーユ襲撃などではありません。むしろ司法官たる第三身分出身者たちが「身分制社会で立身出世を追求する自由」から解放されて、一つの法・一つの立法府・一つの共同体、あるいは「市民社会としての国民国家を目指すという自由」に目覚めたことが、フランス革命の起爆剤になったということになります。


 一方で成瀬治は、シエースの主張が、実はやがて19世紀のフランスの支配階級となるブルジョアジーの利害を代弁したものであることをも指摘します。さらに、シエースの思い描く当時のフランス国家には、君主、廷臣、臣民という三つの存在があり、シエースの批判の矛先は君主にではなく、君主の取り巻きであり、君主が臣民の利益に叶う政治を行うことを妨害する廷臣貴族に向けられていたことをも指摘します。そしてこのように廷臣への批判がなされた背景には、フランス史の最古層の出来事、つまりゲルマン人の侵入によるガリアの征服という出来事が関連していたというのです。シエースの視界の中では、18世紀の廷臣貴族はかつてのゲルマン人のようであり、第三身分(臣民)とはかつてのガリア人と理解されているのです。ということは、身分制を打破する政治的イデオロギー的起源が、フランス史の最古層に潜在していたことになります。


 続く第二章で、成瀬治は、西欧近代市民社会のルーツである、古代ギリシャ・ローマのポリスについて論じ、近代市民社会形成の鍵となる概念の流れを古代から中世にかけて跡付けます。「市民社会」(Societas Civilis)という語句を最初に用いたのはキケロだそうですが、これはアリストテレスがポリスを意味して使った「市民的共同体」のラテン語訳でした。ですから古典古代において市民社会と国家とは同一集団のことだったのでした。アリストテレスの『政治学』によれば、ポリスとは自由な市民によって構成される共同体でした。古代ギリシャにおける共同体の形にはポリス的共同体(国家)と家族共同体があり、また古代ギリシャのポリスには自由人と非自由人とが存在していました。家族共同体においては自由人である家長の下に自由人の家族と奴隷とその家族とが共同で経済活動を行っていました。重要なことは、家における家長(主人)の支配とポリスにおける支配とが、原理的に異なっていたと言うことです。ポリスの支配は自由な市民の政治参加によって実現するものですが、教養や弁論術を身につけることのできる自由な市民の存在を支えていたのは経済的単位としての家(オイコス)でした。当然のことながらアリストテレスの学問において「政治学」(ポリテイア)は「家政学」(オイコノミア)の上位に位置付けられていました。


 古代都市ローマも、基本的には古代ギリシャのポリスと同じ構造を持っていました。しかし古代ローマの場合、その支配が地中海世界全域に広げられ、異民族に対する支配がなされるようになったことが、古代ギリシャとの違いを生み出す要因となったのでした。帝国の形成によってローマ市民に適用されるローマ法とローマ市民以外に適用される万民法の区別が、古代ローマの法制度を特徴づけるものとなりました。さらにこれに加えて、ヘレニズム期のストア派に由来する自然法という概念も西欧史における法と政治の伝統において重要な意味を持つようになります。ヘレニズム期に古典ギリシャのポリスの枠組みが崩れたことによって、世界全体をポリスと捉える「コスモポリス」の存在が意識されるようになりました。このコスモポリスにおいて自然に基づく普遍的な法が世界全体に適用されると言う自然法思想が、ヘレニズム期以降に西欧政治思想・法思想の伝統に流れ込むようになります。自然法思想は、ポリスにおいて当然視されていた自由人と奴隷(非自由人)と言う秩序の解体を促したとされます。


 古代ギリシャ・ローマの都市における政治的・法的伝統、ストア派の自然法思想に加えて、キリスト教も西欧社会思想に影響を与えました。新約聖書においてキリスト者は地上にあっては寄留者であるとされ、成瀬治は古典古代のポリス的共同体の枠組みをさらに弱める方向に働いたと考えています。西方キリスト教世界においてアリストテレスの著作が長く忘却されたことなどによって、市民的共同体の概念も特に中世前期において忘却されてしまっていたという指摘はその通りなのでしょう(23頁)。


 中世前期には、蛮族の侵入による都市や学芸の衰退によって、古代ギリシャ・ローマの都市や市民の理念は西欧社会からは一時後退しました。しかし中世盛期のアリストテレスの復興と中世都市の隆盛は、概して農村共同体中心であった中世前期の西欧社会に変化をもたらし、新たに都市の「市民」(citizen, citoyen, burger)と呼ばれる階層が社会の中で重要な位置を占めるようになったのでした。


 ただこの中世都市の「市民」が、近代国家の担い手たる「市民」、あるいは後にシエースの言う「第三身分」に直結する訳ではありません。中世のゲノッセンシャフト的(同業組合的)共同体としての都市は、平等・対等な市民が誓約に基づいて相互扶助を行う共同体として成立したのですが、このようなヨーロッパ中世都市の市民共同体が、近代市民社会の起源の一つとなって行った面があったことは否定できません。しかしながら、西欧中世においては都市におけるゲノッセンシャフト的な原理は、ヘルシャフト的(領主支配的)原理に貫かれる身分制社会において、一つの特殊な身分を形成したに過ぎませんでした。けれども中世封建王政において大小様々なヘルシャフト的支配が混在する中世的身分制社会は、やがて絶対王政という一つのヘルシャフト的支配に集約されて行くようになります。そして都市の市民的原理が農民層にも拡張されて理念としての「第三身分」が醸成されるのは、皮肉なことに絶対王政のもとで中世的身分制が徐々に侵食されて行く過程と軌を一にしていたのでした。


 ですから本書第三章は、絶対王政を支える理論的基盤を、宗教的説明抜きに提供したジャン・ボダンの『国家論』を取り上げます。16世紀後半のジャン・ボダンにとっての国家の基本的な構成単位は家長を頂点とする家でした。とはいえ、全ての家、或は全ての慣習法共同体の上に、主権(puissance soveraine)が存在する主権国家を措定した所にボダンの革新性がありました。この限りにおいて、近代市民社会の形成へと導く最初の重要な基礎は、ジャン・ボダンによって据えられたのでした。この主権国家においては、それぞれの家を代表する家長が、国家の主権者との関係において「市民社会」(societe civilis)における自由な臣民であるとみなされました。従ってボダンにあっては主権国家全体が「市民社会」と同一のものとされるようになったとされます。ただし『国家論』における国家の構成原理の基礎は家族的原理に貫かれていました。ですからボダンにおいては、アリストテレスにおける自由な市民同士がポリス全体の幸福を追求しながら物事を決定する場としてのポリスという概念は依然として失われていたままでした。しかもアリストテレスにおいては「政治学」に「家政学(経済学)」が侵入することはなかったのですが、ボダンにおける主権国家は、家をモデルとして成立するものであり、従って国家のより良い統治は、即ち「家政学(経済学)」でもあることになり、ボダン以降、家政学(オイコノミア/Economics)は国家の学としての経済学として形成されて行くことになったのでした。従ってボダンは単に政治学者であっただけではなく、国民経済学の始祖とも見做されるようになったのです。


 このような政治学と家政学/経済学が一体となっていたボダンの家長制的国家観において、古代以来の市民的共同体の概念が全く介在していないかと言えば、必ずしもそうではありません。ボダンの国家観においては、主権者と臣民各個の家共同体の中間に、家長の集合体としてのcitéという地域共同体の存在をボダンは意識していたからです。このフランス語のcitéを成瀬治は「邦共同体」と訳します。恐らく成瀬は「邦共同体」を、中世のゲノッセンシャフト的共同体の延長線上にあるものと理解しているのでしょう。ただし、ボダンにおける家長の集合体としてのcitéは、自由人たる家長の集合体としての古代ギリシャ都市の共同体とは異なっている面もあります。ボダンの構想した主権国家においてcitéを構成した家長は、主権者に従属する臣民であり、従ってフランス語のcitéは、ドイツ語のLandに類似していると成瀬は指摘します。この邦共同体はcollege(同業組合)、corpus(団体)、estates(身分/等族)などから構成されます。成瀬治によれば、ボダンにおける「邦共同体」は、自由人の共同体であるとはいえ、近代市民社会の原型とみなすことはできず、家長(自由人)の背後に存在する共同体も、また家長の共同体である邦共同体を貫く原理も、身分制と家長制に貫かれていたのだそうです。例えばボダンの理解の中では、citéを構成する市民にはcitoyenとbourgerの区別があり、citoyenとは主権者より特権を受けた人物のことを意味するのであり、都市の参事会のメンバーになることができるのはcitoyenに限られ、bourgerは排除されるという奇妙な現象が肯定されていたのでした。つまり邦共同体内においても主権者の影響力や特権を受けている人々が存在しており、邦共同体と言うものが、主権国家において純粋に独立した団体として存在するわけではなかったと言うことです。


 ボダンの主権国家の主権者は法を定めることによって臣民に対して同意なしに命令する権限を有しているのですが、しかしボダンも西欧における政治的伝統を継承し、主権者といえども自由に権限を行使することができない領域が二つ存在することを認めています。それは「公共物を勝手に処分することはできない」と言う制約であり、また「盗んではならない」と言う神の法のゆえに、主権者といえども私有財産権を侵害してはならず、臣民の財産に課税をする場合には、同意が必要であり、それゆえに中世以来身分制議会が開かれていたのでした。と言うことは、近代社会において確立された基本的人権のうち、私有財産権に関しては、その期限は中世にまで遡るということになります。そして、この私有財産の不可侵という考え方が西欧社会に定着した理由は、やはりキリスト教信仰が影響を与えていたということにもなります。


 ジャン・ボダンの紹介の後には、政治学史的に叙述を進めるということであれば、ホッブスの『リヴァイアサン』が取り上げられる所だと思いますが、成瀬治はその前に第四章で良心の自由の問題を論じるために、宗教改革者ルターとカルヴァンに言及します。それは近代市民社会の成立のための一つの重要な思想的条件が、「良心の自由」に端を発する人権思想であるとの見通しを成瀬治が持っているからなのでしょう。また近代市民社会の形成要因の中には、プロテスタント信仰が促進した個人主義的な要因も重要な役割を担っていたことを、成瀬は認めているということでもあると思います。


 論述の流れの中で、成瀬は、ジャン・ボダンの国家論が、ユグノー戦争という宗教戦争の課題に直面する中で、国家における権力の二元性を排除する「一元論(Monism)」の立場を取らざるを得なかった点を指摘します。しかしこのような絶対主義的国家観に対置されるべき思想がプロテスタント宗教改革者のマルティン・ルターなどによって主張されるようになっていたのでした。即ち人間の外面的な行為に関して権力者は服従を要求できても、人の内面を服従させることはできない。なぜなら良心(内心)を支配することができるのは神のみだからであり、世俗権力は人間存在における神の支配領域を冒してはならないからである。このようにルターは、世俗権力者がその権力を行使することができない領域が人間存在には含まれることを主張したのでした。西欧思想において、人間の外面的行為と内面とを明確に区別する思考は、古代のストア派の世界観や、聖書の人間論、アウグスティヌスの二王国論などに遡ることができるものの、中世カトリック教会は外面と内面の区別なく、信徒個々人の良心もキリストの代理者たる教会の聖職者の支配の元に置かれていました。しかし聖書のみを神の言葉と信じる信仰をウィクリフなどから継承したルターにとって、信仰者一個人は聖書を通して神から直接教えを受けることのできる存在とされるようになりました。


 このようにプロテスタント宗教改革は、聖書から直接神の言葉を聞くプロテスタント的個人的信仰のゆえに、教会やその聖職者によって個人の信仰への介入や服従の強制などを行う中世ローマ・カトリック的な教会統治から信徒を解放したのですが、そのような宗教改革運動を進めるために、ルターは世俗権力の力に頼らざるを得ない面がありました。キリスト者に対する世俗権力の支配に関して宗教改革者たちの政治思想が示されるようになったのはそのような事情によるものでした。ルターは全ての人間が罪深い存在であるがゆえに剣を持った権力者による世俗的な統治が必要とされると考えますが、世俗権力者が統治できるのはあくまでも人の財産や外面のみであって、人の内面を支配することができるのは神のみであるとされます。このようにルターは、世俗権力者からのキリスト者の良心の自由を擁護するようになったのでした。ルターがこのように主張した一つの要因には、彼が神の国の支配と世俗の支配とを明確に区別する二元論に立っていたことをも挙げることができます。これはジャン・ボダンやトーマス・ホッブスの一元論とは対照的な立場です。


 ではルターがローマ信徒への手紙13:1などに基づいて主張した政治権力者への服従義務と「良心の自由」はどのようにして両立が可能だったのでしょうか。ルターによれば、キリスト者が政治権力者への服従義務から解放されるのは、政治権力者が明らかに神の言葉に反する行為を臣民に命じた場合のみであるとされます。仮に世俗の権力者が不当な命令を発したり、不正を含む法律を定めたりしたとしても、キリスト者である臣民はこれに忍従しなければならないとされたのでした。ルターは、世俗の支配というものを、極めてペシミスティックにしか捉えていませんでした。世俗権力者は、人々の罪深い性質のゆえに、神は時に不正さえ行う剣を持った権力者をお立てになったのであり、この世にあってキリスト者は、人々の罪深さのゆえに君臨する支配者の支配を甘受しなければならないと考えたのでした。ですからルターの場合「良心の自由」は限定的なものと捉えられていたと言えます。


 ルターは、1521年のヴォルムス帝国議会において神聖ローマ皇帝カール5世の所説撤回要求に対して、聖書と良心に基づいてこれを拒否することによって、「良心の自由」を実際に行動によって示したという意味で画期的な存在ではあったのですが、やがて宗教改革急進派の勢力が、やはり聖書と良心に基づいて過激な主張を展開するようになった時に、明らかに領邦君主の利益を代弁するようになりました。ルターがそのように振る舞わざるを得なかった理由について、成瀬治は、当時の神聖ローマ帝国における領邦国家の支配の後ろ盾を得なければ宗教改革を達成することができなかった現実があったことに触れています(68-69頁)。


 ルターに続いて、成瀬は、もう一人のプロテスタント宗教改革者ジャン・カルヴァンを取り上げます。ただ成瀬治のカルヴァン派(改革長老派)の政治思想に関する解説は、若干物足りなさを感じる面がない訳ではありません。成瀬はカルヴァン派が、ボダンの一元論とは対照的な二元論に立つと説明しています。しかしカルヴァンの影響を受けた改革派の政治思想は、ルターのような極端な二元論ではなく、キリスト教社会における教会が国家権力から霊的独立(spiritual independence)を維持する必要性を重視しながら、教会が国家と協力しながらキリスト教社会を形成することを目指してきたと思います。とはいえカルヴァン派は、フランスにおけるユグノーの置かれた政治的な状況に対する関心もあってのことだと思いますが、君主の支配権に対して、人民の権利を擁護し、暴君を人民が放逐できる権利を留保します。この場合の人民を、成瀬治は、身分制社会における中間権力と位置づけ、中世以来の身分制社会の枠組みの中から生じた人民主権論であり、ルターの「良心の自由」のような考え方とは異なる流れの中から生じたものであったと説明します。しかしこの説明には異論もあるだろうと思います。


 宗教改革者の政治思想の後に、第四章で、成瀬治は、トーマス・ホッブスの『リヴァイアサン』を取り上げます。ホッブスの『リヴァイアサン』については、すでに5-6月のこのコーナーで紹介しましたが、成瀬治の解説を読みながら、同意する部分と、あるいは自分が誤読していたかもしれないと感じる面と、成瀬治の読みで良いのだろうかと思う部分とがありました。成瀬治は、田中浩の『ホッブス研究序説』に基づいて、それまで日本で流布していた「ホッブスは絶対王政のイデオローグであった」という誤解を退け、社会契約説と言う政治的リベラル派の政治思想の出発点と位置付けています。この点については私も同意します。


 ホッブスは、先行したジャン・ボダンの主権国家論を継承し、秩序ある国家=社会の維持のために強力な権力を有する主権者の存在が不可欠であると考えました。そのような意味で、ホッブスの政治思想は表面的には保守的ではあります。しかしながら、ホッブスが試みたことは、ジャン・ボダンにおいて主権者の権力の根拠と見做されていた身分制社会を貫く家長制的な支配原理によってではなく、臣民の同意・信約による自然権の主権者への譲渡というプロセスの中に主権者の権力の根拠を見出そうとした点にありました。これが非常に革新的な政治理論であったことは言うまでもありません。成瀬治は、ホッブスの政治理論を「一種の社会工学」であり「国家についてのシステム論」であると説明します。歴史と伝統の中で形成される国家とは異なり、理性に基づいて構想されたシステム論による人為的な国家の理論をホッブスは史上初めて提案したのでした。「社会工学」という評価に示されているように、成瀬治は、ホッブスの政治理論が、歴史的伝統からは切り離された理論であって、その実効性については懐疑的な見方をしているのかもしれません。


 ホッブスの社会契約説の議論においては臣民と主権者しか登場しません。個人である臣民の自然権(生存権)を主権者に信託することによって、主権者の権力は確立されるとホッブスは主張するわけですが、この支配の原理はもはや家長制的な原理ではなく、自然法思想に基づく法哲学的理念です。またボダンにおいて存在した中間権力の存在が、ホッブスの『リヴァイアサン』では想定されていません。ここにホッブスの政治理論の革新性を認めることができるのですが、成瀬はそのような単純化された社会の図式に危うさを感じていたのかもしれません。


 続いて成瀬は、ルターにおける「良心の自由」が、ホッブスにおいては、どのように理解されているかを検討します。成瀬は、ルターとホッブスが、表面的には共に「良心の自由」を認めているようでありながら、双方の主張が全く異なる方向性のもとに主張されていたと分析します。秩序ある主権国家の統治する社会が、自然状態・戦争状態に回帰してしまうことを極端に恐れるホッブスにとって、社会の公的な良心は法であるとされます。そしてホッブスは、ルターのような世俗的統治と霊的統治の区別を否定し、キリスト教的コモンウェルスにおける教会も主権者の支配に服する存在であるとみなし、国家教会体制を擁護します。ルターの「良心の自由」は、剣によって守られるべきキリスト者、いかなる外的な矯正も必要としないキリスト者が存在するとの信仰を前提としていたのですが、ホッブスにとっては、そのようなキリスト者など存在せず、キリスト者といえども、獰猛な性質を内側に秘めており、主権者の法に服従しなければならない存在であるとされます。ホッブスにとって主権者の定める実定法(市民法)への服従は絶対的なものであるのですが、ただホッブスは、臣民自身の内心の思想と、彼の外面的な服従の行為とが、一致している必要はないと考えるのだそうです。ホッブスにとっての絶対的な善は、国家が内戦の状態に陥ることなく外面的な平和を保つことであり、その目的のために臣民は内面的な思想のいかんに関わらず、主権者への絶対的な服従が求められています。そして外面的に服従している臣民が、内面においてどのような思想を有しているかは、主権者の法の関知するところではないとされます。ですからホッブスは、あくまでも消極的な意味で、主権者が臣民の良心にまで権力を行使することはできないと考えているようです。


 最後に、ホッブスの国家観において、アリストテレス以来の「市民社会」は、どのように理解されているのかが問われます。成瀬は、ホッブスの法人格的・人為的国家が、アリストテレス以来の古代ギリシャ的な「市民社会」の理念とは無関係に想像されたと見做します。つまり成瀬は、ホッブスの政治理論が、後のリベラル派の政治思想の伝統に影響を与えた面があることは承認しつつも、西欧政治思想の伝統においては、かなりユニークな、悪く言えば異端的な発想に基づいていたと考えているのではないでしょうか。ホッブスの考える人間は、不断の闘争に傾きやすい、それゆえに孤独な存在であることが前提とされています。アリストテレスのように人間はポリス的な生き物であるとして、人が常に共同体の中で生きることを志向する存在であるとするような人間観からすると、ホッブスの人間観は、孤立主義といえるのかもしれません。アリストテレスは、ちょうどミツバチが群れを成して同じ働きに邁進するように、共同体に生きる人間も共同体全体の利益のために生きることに幸福や生きがいを見出す存在であると考えていました。しかしホッブスは、人間をそのようには考えることができなかったようです。ですからホッブスの思想の近代性は彼の悲観的な人間観に由来します。但し、この章の最後で、ホッブスの国家理解における主権者のもとにある個人(臣民)は、イングランド社会における家長でもあり、個人は家を代表する存在であることを前提としていたのではないかとも推測します。ですからホッブスの国家観における市民社会は、依然として家制度を前提とするものであるという点で過渡的であったとされます。


 このように成瀬は、ホッブスの政治理論を必ずしも肯定的に評価している訳ではありません。17世紀イングランドにおいても存在していたはずの中間権力を無視して、純粋に主権者に対する臣民の服従によって、国家の平和が維持されるというホッブスの考え方は、徹底的に内戦を回避するという彼の目標に動機付けられていたものの、そのような目標をひたすら探求していたがゆえに、彼は当時のイングランドの社会構造の客観的な分析とそれに基づく理論の構築には関心を払っておらず、ホッブスの政治理論は、17世紀イングランドの政治の現実からは乖離したものであったと成瀬は見做しているようです。ホッブスの理論の革新性は、彼にとって不本意であった内戦という極限的な政治状況の中で、祖国を離れ、亡命生活を強いられ、心に傷を負った知的エリートによって偶発的に紡ぎ出されたものであって、近代市民社会の形成に寄与した新しい社会理論は、そのように現実の中で傷を負った人物が生み出したものであったと評価されているようです。印象としては、成瀬自身は、ホッブスのような、社会契約論に基づく人為的な社会的結合が温かみに欠ける冷たい人間理解に基づいているものであることに共感できないのではないかとも思います。成瀬はむしろ、多くの普通の日本人がそうであるように、アリストテレスのように、人が本来共同体の中で生きることを志向する存在であると捉えることの方を好んでいるのかもしれません。


 第六章では、ホッブスに続いてジョン・ロックが論じられます。成瀬は、ジョン・ロックの政治理論を、ホッブスよりは高く評価しているように思われます。ロックは、ホッブスが考案した社会契約説に依拠しながら、西欧政治思想の伝統でもある個人と全体との統合を可能とする新しい社会契約理論を提案することができたと成瀬が考えているからなのでしょう。


 成瀬によれば、ロックとホッブスとの間にはいくつか重要な相違があります。ホッブスは、内戦という危機的な状況の中で平和の永続する国家を構想し、生存権を中心に理論を構築しようとしたのに対して、ロックにおいては「危機克服後」即ち名誉革命後のイングランドにおける個人の自由と権利の保証という課題が前面に現れており、ロックの主張の根底には、生存権ではなく所有権の擁護というライトモティーフが一貫しているとされます。イングランドにおいて緊急性の高い課題は、もはや内戦を防ぐための強力な主権者の設立ではなく、むしろ主権者に過度に権力が集中することを回避し、イングランド市民の自由と権利が侵害されないようにすることにシフトしていたのでしょう。


 成瀬治の読解によれば、ホッブスは自然状態において、「もの」に対する個人の排他的な所有権というものは確立されておらず、国家の主権者が設立されることによって、また主権者が定める法律によって個人の所有権は保障されると考えていたとされています。これに対して、ロックがイメージした自然状態は、もはやホッブスのそれとは異なり、フィルマーの父権論的統治理論への反駁という形をとりながら、政治的というよりは最初から経済的タームによって表現されていたとされます。ただこの成瀬治の読解は、やや問題を単純化しすぎているようにも見受けられます。ホッブス『リヴァイアサン』第二部の紹介の中でも述べたのですが、ホッブスは結婚・家族関係などと同様に個人の所有権を巡る問題においても報復が当然の権利と見做されていた17世紀のイングランドにおいて、報復権を個人が主権者に譲渡することによって強い権力を持つ主権者の設立を目指したのでした。その目的には、個人の生存権と共に個人の本来の所有権の認証と保護の役割を主権者に期待したからなのであって、ホッブスの自然状態において個人の所有権が確立されていないとまでは言い切れないように私には感じられました。


 ロックも自然状態において人間は平等であると考えます。ただし、そのように考える理由はホッブスとは異なっており、ロックは、すべての人間に等しく神から理性が与えられているという事実に基づいて人間の平等を想定します(112頁)。この点で、ロックの人間論は、ホッブスのそれよりは楽観的であると言えます。そしてロックの社会理論がより広く後世に受け入れられた理由の一つに、この楽観的人間論を上げることができます。なぜならロック以降の啓蒙思想家の多くが、楽観的な人間観を持つようになっていたからです。


 ロックの考える自然状態には支配と服従は存在せず、また戦争状態も存在しません。なぜなら自然状態にある人間は同時に自然法にも拘束されているからです。またロックにおける自然状態は、新大陸の先住民の社会のように基本的にすべてのものを共有している状態が想定されます。そのような状態において個人の所有権が発生する根拠は労働にあるとされます。仮に土地は共有であったとしても、その土地にある木の実を個人が採取すれば、その実は採取した個人の所有物となります。ロックはそのように労働を所有権の根拠とするのです。この論理に基づいて、大地の所有権もそれに労働を加えている人物によって所有権が確立されるようになるのは当然だと論じます。このロックの議論は非常に説得力があり、後のアダム・スミスやカール・マルクスら経済学者たちの議論に影響を与えることになりました。


 さらにロックは、ホッブスとは異なって、自然状態と戦争状態を明確に区別します。ロックの自然状態は人々が平和的に共存している状態であり、ホッブスのように自然状態と戦争状態を混同する必要はないとします。そして自然状態にある人間は本性上すべて自由で平等で独立しているので、誰も本人の同意なしに、このような状態から権力者への隷属状態に置かれることはないと断言します。


 では自然状態がそのように平和で平等な状態であるなら、なぜ主権者による政府を設立する必要が出てくるのでしょうか。自然状態と戦争状態を区別したロックが、それでもなお、社会契約に基づく国家の設立を主張しなければならなかった理由はどこにあるのでしょうか。ロックはその原因を、貨幣の使用に求めます。人が労働によって手を加えることのできる範囲で所有権を主張する限り、所有権をめぐる争いは起きません。なぜなら自然状態において、人はそれぞれ自分が労働し生活に必要なものを土地から手に入れる程度の土地所有権しか必要としないからです。ところが貨幣の使用は、そのような原初的な状態を変化させたとされます。貨幣の使用によって土地所有の不均等が生じるとされるのです。なぜなら貨幣は、人が自分の生活に必要な最低限の食糧などを確保して満足する生活から、生活に必要な程度以上のものを手に入れることを可能にする生活へと変化させるからです。つまり人は、個人としては消費しきれないほどの生産物を生み出す土地から得た収穫物を貨幣に変換することによって、必要以上の大規模な土地を所有する権利を持つことができるようになるとされます。ですからロックは自然状態を、貨幣の発明以前と以後とに区分します。そして貨幣の使用による不平等な所有が生み出されることが、市民の同意に基づく国家設立の要因となると想定するのです。


 ロックは自然状態における私的所有権が自然法的に裏付けられていることを強く主張しました。そのようなロックの主張の動機には、ロバート・フィルマーの『パトリアルカ』において展開されていた保守的・トーリー的イデオロギー、すなわち「神がこの世界における最初の主権者アダムに与えた族長的支配権が、その後のあらゆる主権の原型であり始原である」とのテーゼを論駁することにあったのでした(129頁)。フィルマーの学説の基本原理は「家産制的支配」の原理でした。「家産制的支配」とは、マックス・ウェーバーが提示した伝統的支配の典型的な類型です。これは伝統的な社会において一般的に認められる支配の形態であり、一人の家長が全ての家族構成員や下僕及び所有する土地や資産を一元的に運営する権限を保有する家長制的な原理が、国家の支配にそのまま適合されるような支配の類型です。ですからフィルマーの理論によるなら、国家の家長たる国王に、国家の領土の全ての権利は帰属するのであり、臣民は国王のご厚意によって国家の土地を使用させてもらうに過ぎないことになります。このようなフィルマーに対して、ロックは、自然状態において自然法が認めている私的所有権を確立することこそが統治権力設立の目的であると主張します。そのような主張を展開する際に、ロックの主張の論拠となるのが「理性の法」です。ロックによれば「理性の法」は、フィルマーが想定する原初の家長であるアダムをも拘束するものであるとされるからです。そしてこの「理性の法」のゆえに、自然状態にある社会において、人々をして社会契約に基づく政府の設立が要請されるとロックは考えるのでしょう。


 成瀬治は、このようにジョン・ロックの政治理論について分析した後で、思想信条の自由に議論を転じます。「生命・自由・財産」を自然法によって保証された私的所有物であるとみなすロックにとって、個人の内面の宗教の自由が擁護されるべきこともまた当然の帰結でした。ただロックは、1660-62年の段階では、宗教的寛容を主張したとは言っても、例えば国教会体制を否定する再洗礼派の人々に十分の一税を強制することは支持していました。彼はこの時点では国教会体制を容認し、国家が宗教的な事柄について国民にある程度強制を行うことを許容していました。しかし名誉革命後の1689年に公にされた『寛容に関する書簡』においては、より明確に政教分離の思想が表明されるようになります。本書においてロックは、国家権力が行使されるのは人の外的な事柄のみであって、内的な事柄を拘束することはできないとし、宗教改革者たちの主張し始めた信仰の自由の立場を承認します。しかしロックはそこからさらに一歩進んで、キリスト教会は全く自発的な結社にすぎず、親がこれに属しているから子供も自動的に所属するような性質の結社ではないとして国教会体制を明確に否定ようになったのでした。


 成瀬治は最後にロックの『人間知性論』を取り上げます。本書においてロックは、市民が自己の生活を規制すべき法として三つの法をあげます。「神の法」「市民法」「世評の法」です。この分類によって、ロックは、ホッブスが主張した「(神の法をも含む)自然法」と「市民法(実定法)」の一致を退け、両者の一致に楔を打ち込んだとされます。その一方で、ロックはモラルの担い手が個人ではなく、社会にあることをも主張したとされます。徳と悪徳の区別は、その社会に属する人々の間に存在する暗黙の合意によって形成されるとロックは考えるようになったのでした。それによって道徳には公共性が付与されることになります。さらにこの「世評の法」は後のルソーの「一般意志」に継承されていくようになったとされます。このロックの三つの法の分類の意図はともかく、ロックの政治理論は、広義のキリスト教信仰やキリスト教に基づく道徳と不可分であったと言うことはできるのではないでしょうか。西欧諸国の民主主義が現在危機に瀕していることの一つの理由は、西欧市民社会に20世紀の中期頃まで継承されていたキリスト教信仰に基づく「世評の法」ともいえる道徳が、20世紀の後半以降、徐々に失われて行ったことと関連している面がないわけではないように感じます。


 第七章では、ロック以後の、主に18世紀のイングランドの社会思想が取り上げられますが、その前に、第三章から第六章までの議論が総括されています。成瀬の説明によると、西欧中世封建社会においては、人に対する支配(Imperium)と物に対する支配(Dominium)とは不可分とされていたのでした。ところが身分制社会が徐々に崩れ、それを支えていた中間権力も解体されていくと、人に対する支配と物に対する支配とは区別されるようになります。したがってロックのように市民の私有財産権を政府が擁護しなければならないと言うような議論は、身分制社会・中間権力の弱体化の結果であると成瀬は分析します。この場合の中間権力として成瀬がその典型と考えているのが、やはり教会なのでしょう。ロックのような政教分離思想は、当然のことながら身分制社会の秩序を支え、身分制社会の中間権力でもあった伝統的キリスト教会の社会的影響力を削ぎ落とすことになり、近代市民社会の形成を促すことになったわけです。近代社会の形成の問題を考える際に、宗教や教会の問題も視野に入れなければならないことを1970年代に気付いていた言う点で成瀬治の慧眼には刮目すべきものがあります。


 ただ七章の導入で成瀬治が行った、これまでの議論の総括の中で出色なのは、ホッブスが道徳哲学に与えた影響に関する説明です。ホッブスはピューリタン的な社会変革への志向にも、ラディカルなキリスト教信仰のスピリテュアリズムにも否定的であり、こうした信仰こそがイングランド社会の擾乱の原因であって、このような反乱分子を抑制するために、唯物論的ともいえる人間の心理学的分析に基づいて純粋に世俗的な絶対的国家「リヴァイアサン」の構築を目指したのですが、このような心理学的分析に基づく政治理論(あるいは社会倫理的提案)をホッブスが提起したことによって、彼は西欧の道徳哲学に革命的な変化を招来したとされます。成瀬はこの議論をエルンスト・トレルチの論文に基づいて展開します(146-47頁)。


 成瀬はこのようなホッブスの方法を「倫理学の心理分析による感覚論的基礎づけ」(148頁)と表現します。この方法は、肯定する立場と共に拒否する立場をも引き起こすわけですが、18世紀以降に展開される「道徳哲学」や「倫理学」的議論は、いずれにせよホッブスが持ち込んだ方法の影響を受けていることになります。例えば人間の「利己心」と「利他の精神」との調和と言うような議論も、ホッブスが持ち込んだ心理学的分析の影響を受けて展開されるようになったことは否定できません。また道徳と政治・法の関係をどう捉えるかという問題についても、また倫理的な諸価値を人間心理の諸現象から説明する「功利主義」と、倫理的な諸価値をそれ独自の源泉から発するものとみなす「理想主義」(観念論)との対向も、やはりホッブスの方法を受け入れるか拒否するか、と言う選択によって発生したと見ることができます。


 成瀬は、このようなホッブスのもたらした方法論のインパクトは、中世以来のキリスト教社会(Corpus Christianum)を切り崩す上でも重要な役割を果たしたとみなしているようです。キリスト教社会においては「神の法(自然法)」と「市民法(実定法)」とは一致しているものと考えられていましたが、前章で示されたようにジョン・ロックによって「神の法」「市民法」「世評の法」と言う分類が導入されたことは、キリスト教社会の一つの前提が切り崩されたことを示すものであると説明されています。そしてルターにおいては信仰者の良心が神に服するものとされていたのが、ホッブス以降の道徳哲学においては、良心は、人間の心理的動機の持つ内的必然性に服せしめられるようになったのでした。


 このように成瀬が時代の思想的潮流を描写したのは、17世紀後半以後のイングランドのケンブリッジ・プラトニストの思想的背景を説明するためでもありました。彼らはデカルト哲学の影響を受けつつも、ルネッサンス期に復活したプラトン哲学によりながら、唯物論的・機械論的自然観を退けて、キリスト教の啓示と理性的認識の新たな調和を探求した人々でした(149頁)。ケンブリッジ・プラトニストの一人ラルフ・カドワースはその著作でホッブスへの批判を試みたとされます。このグループの人々を、彼らの多くが非国教徒でもあったこともあって、成瀬は保守化したピューリタニズムと表現します。理性と啓示の調和・整合性を求める方法、すなわち心理学的人間論と神学とを総合しようとする方法は、すでにホッブスによって試みられてはいました。ただケンブリッジ・プラトニストたちは、ホッブスよりは人間の本性に関して楽観的であったという点に、ホッブス批判の基盤があったようです。


 七章で成瀬が明らかにするのは、ジョン・ロックの『人間知性論』において展開された道徳哲学が、キリスト教に基づきながらいかに正統的キリスト教倫理学からは離れて行ったか、そしてその流れがケンブリッジ・プラトニストの一人、シャフツベリー伯において、どのようにイングランドにおける功利主義の道徳哲学へと導かれて行ったかについてです。ロックは法を「神の法」「市民法」「世評の法」に分類しますが、生得観念を否定する経験主義者のロックにとって、「市民法」と「世評の法」は当然のことながら時代や地域によって異なる物であるとされ、ただ「神の法」のみが普遍性・恒久性を保持しうるものとされていました。そのようなロックよりもさらに世俗化した道徳哲学は、シャフツベリー伯の内に見出されます。シャフツベリー伯(アンソニー・アシュリー・クーパー、1671-1713)は、イングランドの道徳哲学に「道徳感覚」(moral sense)という概念を導入し、犬儒主義者(キュニコス派)と神学者による攻撃に対して「人間性」擁護した人物だとされます。そしてシャフツベリー伯の「道徳感覚論」は英国における功利主義やアダム・スミスの思想に影響を与えたのでした。「最大多数の最大幸福」というスローガンに示される功利主義思想は、社会の上下関係や身分を超え、現世的・世俗的な、新しい市民的モラルの基本原理となったとされます。そしてケンブリッジ・プラトニストの影響のもとに英国に形成された功利主義思想は、エルンスト・トレルチの分析によれば、人間が利己的であると同時に常に利他的でもあるという、楽観的な人間論に基づいていたのでした。このような「道徳感覚学派」とも称される思想は、啓蒙絶対主義の「警察国家」を志向する流れとは対照的に、市場経済社会の形成を促すことになったと成瀬は説明します。


 この後、アダム・スミスに関する論述が続くことが予期されるわけですが、その前に、第八章で成瀬は「絶対主義と市民社会: 政治的解放への二つの道」について論じます。功利主義思想の普及していた英国では、市場経済と地方自治を土台とする議会政治が発達することになりますが、私有財産の保証と良心の自由を希求する動きは、英国に限らず欧州においても広がっていました。フランスの重農主義やドイツにおける啓蒙絶対主義は、こうした動きと連動していたのでした。ですからそのような経済思想や政治体制も、欧州における身分制社会から近代市民社会の形成へと向かう流れの一段階を画するものではありました。そのように前置きした後で、成瀬治は「身分制社会」から「市民社会」への構造転換が、主権的領域国家の形成とどのように対応するのか、という問題について論じます。


 この議論の冒頭に、成瀬はカール・マルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1844年)を取り上げます。この著作でマルクスは、アメリカ独立革命やフランス革命において何が起きたかを分析するのですが、それはつまり「封建制」とも称される古い伝統的・家父長制的・家産制的支配が廃棄され、同時にそれを支えた中間諸権力も解体されるようになったことだとされます。中間諸権力が解体されるということは、伝統社会における「市民社会」が解体され、今や私的かつ利己的な個人が、革命後の社会の基本的な構成員となったのでした。ただこのような政治的解放は、成瀬によれば、革命以前にすでに絶対王政のもとでも進展していたとされます。


 この問題は、ユルゲン・ハーバーマスによって「市民的公共」(bürgerliche Öffentlichkeit)の成立と言う観点から分析されました。「市民的公共」とは「公衆へと結集した私人たちの生活圏」のことですが、同じ生活圏をハンナ・アーレントも、公的生活圏と私的生活圏の古典古代的関係(ポリスとオイコス)とは区別された「近代的市民社会」と規定しているそうです。そしてこのような「市民的公共」は、大陸において実は絶対王政の下で形成されて行ったのでした。なぜなら絶対王政の国王は官僚機構と常備軍を背景に、全国民が等しく国王への服従を要求したのであり、その結果として国王に服従する個人は皆、等しく私人として絶対王政の国家に参画することになったからです。それまでの封建領主の支配から絶対王政の行政の支配に包摂された私人が、公衆を形成するようになったのでした。


 このような絶対王政の経済政策自体は重商主義的なものではありながら、国内において私人たちは、次第に自由な経済活動を行うようになり、絶対王政内部に新しい経済活動の担い手や、また経済活動のために行政機関との折衝を行う新しい市民的階層が台頭するようになります。彼らは新聞の購読者となり、政治的・行政的な課題にも関心を持つようになりました。18世紀のフランスにおいては、そのような市民的階層の中から、絶対王政の重商主義的経済政策に対する批判が、ジョン・ロックの影響を受けたティルゴーらの重農主義者によって提起されますが、彼らが批判していた重商主義的規制は、フランス革命後の革命政府によって真っ先に廃棄されていったのだそうです。


 一方18世紀ドイツ・オーストリアの啓蒙専制君主たちの政策もまた、国王を「国家第一の下僕」と規定することによって、家産制的支配を脱して「上からの近代化」を進める作用をもたらしたのでした。プロイセンのフリードリッヒ2世に仕えた自然法学者スヴァレツは、国家=市民社会の成立をホッブスやロックに倣って市民契約(社会契約)によって説明します。彼は統治権が神から授かるものではなく、市民の同意によると説明したのでした。さらに市民間の紛争は、国家の最高権力による司法的判断に委ねるべきであるとも主張したのだそうです。そう言う意味では、スヴァレツの政治理論はトーマス・ホッブスのそれに酷似しています。


 第九章ではアダム・スミスが取り上げられます。成瀬は『諸国民の富』の著者として知られるアダム・スミスが、ハチソンの後継者としてグラスゴー大学の道徳哲学講座を担当し、まず『道徳感情論』の著作によって広く知られるようになった事実を指摘することから語り始めます。ただその前に前近代的社会、あるいは前産業社会においては、経済的な要素が、純粋に経済的要素としてのみ取り扱われることがなく、常に政治的・法的、あるいは宗教的要素と分かち難く結びついていた事実にも触れています。近代経済学の第一歩は、そのような前産業社会の状態から脱却し、経済的利害関心によって行動する人間を、宗教的な拘束からは自由にして、純粋に社会倫理の対象として、心理分析によって捉えようとすることによって踏み出されたのでした(186頁)。ここにトーマス・ホッブスの『リヴァイアサン』が広く社会科学全般に与えた影響の一端を認めることができます。


『道徳感情論』において示されるスミスの道徳哲学は、シャフツベリー伯の思想の流れを継承していた恩師ハチソンを高く評価する一方で、ハチソンほど人間の利他的傾向に対して楽観的ではなく、社会契約論と共にルソーやヒュームの影響を受けて、利己的な自己を前提として思索を展開するようになります。ヒュームの人間論は、ホッブスの影響を受けており、従ってスミスの人間論も、ホッブスとヒュームの系譜に連なることになります。ただヒュームの影響を受けつつも、スミスの思想の特徴は、彼の正義に関する考え方の中に認められます。成瀬は、スミスが、方法論的にはホッブスの影響を受けながら、同時にロックの「世評の法」に示された「市民社会の道徳的自己規律の原理」を表明していると考えます。ただスミスは、ハチソンのように人々の利他心が自ずから社会の幸福につながる、と考えるほど楽観的ではありません。むしろスミスは「徳性」を「効用」の中に求める立場を採ったのだそうです。そして成瀬は『道徳感情論』におけるスミスの議論のうちに、後の『諸国民の富』に示される市場社会における等価交換の原理を「道徳的」に表現したテーゼの基調音を聞き取ることができると指摘します(193頁)。所謂「神の見えざる手」です。このスミスの逆説的な原理を示す表現が、すでに『道徳感情論』においてなされていたのでした。それは例えば次のような表現に認めることができます。「我々が自分たちの食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈恵ではなく、彼ら自身の利益に対する彼らの顧慮からなのである。我々は、彼らの人類愛にではなく、その自愛心に訴え、彼らに我々自身の必要を語るのでは決してなく、彼らの利益を語ってやるのである。主として市民仲間の慈恵に頼ろうとするのは乞食以外の誰でもない。」(194頁)。ただスミスの言うことはわかりますが、このように言い切ってしまうことによって、人が利他心を顧みることなく、ひたすら利己的利益の追求にのみ邁進することへの口実を与えかねない面があることは否定できません。実際現代の新自由主義者たちはそのように振る舞っています。ですから、当時のスミスのこのような主張には「利己的」である私人といえども、道徳的自己規律の原理を受け入れている存在であることが前提とされていた事実を忘れてはならないと思います。


 スミスの『道徳感情論』の解説の後で、成瀬は、スミスの『諸国民の富』(1776年)が経済学史上にもたらした革新が何であったかを説明します。成瀬は、スミスの経済理論が重商主義経済政策に対する批判であったことは周知の事実としつつ、スミスの学説を、フランスの重農主義者の経済学説と比較します。重農主義者たちは土地のみが剰余を生み出すことのできる資産であると考え、結果的に農業を中心に経済学説を提起することになりました。成瀬は、近代経済学者ヒックスの分析によりつつ、経済の類型を、カースト制や身分制によって労働と報酬の連続性を強制する「伝統」による経済体制、権力者が労働と報酬を強権的に組織する「指令」による経済体制、そしてアダム・スミスによって理論化される「市場」による経済体制に分類し、フランス重農主義の経済理論は「伝統」と「指令」による経済体制に留まっていたと指摘します。その上で、成瀬は、重農主義者ティルゴーが『富の形成と分配についての省察』(1769-70年)において、スミスにおいては生産的労働者と見做されていた手工業者を、土地所有者である地主に何ら利益をもたらさないと言う理由で、召使いと同じ非生産的労働者に分類している点を指摘します。このような捉え方に対して、成瀬は、スミスに影響を与えたタッカーの言葉を引用します。「一口で言えば、大ブリテンの人民はほとんどその全体が互いに消費者であり製造業者であるとみなして良い、とするのが正しい観察であって、このことが、国民の富と繁栄とをしっかり支えているところの、極めて幸福な環境なのである。」タッカーは、英国において、フランスのように大地主が壮麗な宮殿に住み豪華な生活をすることよりは(そういう貴族も英国にいましたが)、むしろ小生産者たちが自分の生活を良くしようとして生産者及び消費者として努力していることの方が、国民の経済的な繁栄をもたらすと主張したのでした。言い換えると、フランスの経済がなぜイギリスに立ち遅れていたかと言えば、それはフランスにおいて身分制が依然として強く残存しており、小生産者たちが自分たちの生活を良くするために消費を行うことができるほどの収入を得ることができなかったからだということになります。英国における「商業社会」の形成を促したのは、すでに大塚史学によって解明されていたように、農業・土地制度の近代化にあったのでした。そして成瀬によれば、このような変化は「純粋に経済史的観点」から把握されるべきなのではなく、「商業社会」が何を歴史的起点として成長してきたかと言う角度から捉え直される必要があるとされます(203頁)。


 スミスにとって「商業社会」を支える「独立自営農民」をポジティブフィルムとすれば、ネガティブフィルムはや「家制度」を支配原理とする「封建制的社会」、つまり大土地所有者と隷属農民によって担われる伝統的な社会ということになります。独立自営農民は土地をより生産性の高い仕方で利用するのに対して、大土地所有者の元にある隷属農民は、できるだけ労役を軽減して最低限の生活を維持しようとするので生産性は向上しません。ですからスミスの分析によれば、イングランドにおける伝統的土地所有制度の変革、すなわち農業革命こそが、産業革命による英国の経済成長を可能とし、生産者でありかつ消費者でもある市民階層を生み出した起点であったと見做されたのでした。そしてこのような社会構造の変化を生み出したのは、英国の土地所有者たちが、自分の所有地から少しでも多くの利益を得ようとする「利己心」に動かされていたからであり、それによって結果的に英国社会全体の経済的な発展が可能になったとスミスは考えたのでした。もちろんこのようなスミスの説明は、彼の「理念型」に過ぎないのであって、現実にイングランドの産業革命の主要な担い手となったのは、「独立自営農民」というよりは地主階級であるジェントリーたちでした。けれども農業革命から産業革命へと向かう経済成長を可能にした条件に、古い身分制的社会を支える思想や社会構造が英国では早くから崩れていたことがあったという事実は、否定できないことであると思います。


 第十章で成瀬は、ドイツ観念論哲学者のカントとヘーゲルを取り上げます。カントの著作から、成瀬はまず『啓蒙とは何か』を選びます。カントによれば啓蒙とは、人が未成年の状態を脱することであるとされます。では成年の状態とは何かというと、人が自ら悟性を用いて考えることができる状態ということです。しかし、カントの生きた時代のプロイセンなどにおいては、自分の悟性で考えることができる人々は、一部の人々に限られており、一般の人々の多くは、自分で考えることのできる権力者の意向に服従することを要求されていました。カントは当時のプロイセンの啓蒙絶対主義の君主政治を支持していたのではありません。むしろ啓蒙のもたらす善を理解した人々の関心が「国家統治の根本方針に影響を与えるようになる」ことを彼は願っていたのでした(229頁)。


 カントは「自由」の概念を前提とする「意志の自律」こそが「人倫の最高原理」であり、道徳哲学の根本原理であると考えていました。そのようなカントの「市民社会」概念は『人倫の形而上学』の中で展開されているそうです。それによれば「国家」(Civitas)とは、「法の諸法則のもとにおける人間の一群の結合」であり、国家は立法権、執政権、裁判権の三権を含むとされ、その内の立法権は、国民の結合された意志にのみ帰属することができるとされていたのでした。つまり立法のために結合されて国家を構成する人々が「市民」(cives)と見做されていたのでした。そしてカントの「市民」には三つの法的属性があり、第一は「法律的自由」、第二は「公民的平等」、第三は「公民的独立性」であるとされます。そして商人や手工業者の徒弟・奉公人、未成年、婦人など、他者に従属することを余儀なくされている人は、公民的人格性、公民的独立性を持っているわけではないと考えていました。カントは国家の構成員全員に投票権が与えられるわけではないと考えていたわけですが、そのようなカントの国家観にはアリストテレス的な古典古代の市民共同体の概念が影響を与えていたからであると成瀬は分析します。ですからカントの法哲学における市民は、マルクスの言う「古い市民社会」の諸要素をとどめてはいましたが、アダム・スミス的な商品生産者の社会モデルへの展望もはらんでいたとされます。カントにとっての自律した市民とは、社会的分業と自由な商品交換に参画することのできる主体的な個人であり、私有財産権の所有者である彼らは財貨の交換を通じて他の市民と関わりあう存在です。カントによればそのような個人が「自分自身の主人」であり、彼らのみが「投票権」を持つことができるとされたのでした。ですから近代市民社会を構想した人々は、現在のような全ての成人が投票権をもつような社会は考えていなかったということになります。


 成瀬はこのようなカントの社会思想に対置させる形で、最後にヘーゲルの『法の哲学』について論じます。成瀬によれば、ヘーゲルは、家族を市民社会の原理に従属させた哲学者でした。その結果、ヘーゲルの考えた近代市民社会において、国家全体が一つの家族のような役割を果たすようになっているとされます。例えばヘーゲルは、近代市民社会は「普遍的家族」として親の権限を超えて子供を教育する権利を持つようになっていると主張します。ヘーゲルは市民社会と家族の関係に関する論述をPolizeiという主題のもとに行なっているとのことです。Polizeiとは内的に分化しつつある社会に対する国家の公共行政全般を指す言葉です。したがってPolizeiの中には、国家による経済の統制も含まれることになります。ですからヘーゲルの考えた市民社会は、「神の見えざる手」に導かれて自律的に均衡・調和を保つアダム・スミスの(同時にカントの)「商業社会」とは対極的な概念であることがわかります。


 成瀬によれば、ヘーゲルが『法の哲学』を執筆する際に試みたことは、アダム・スミスらの国民経済学を継受しつつ、アリストテレスに代表される古典的政治学を再構成することであったとされます。しかしそれによって彼の理論は矛盾を内包することになってしまいました。その矛盾とは、一方で人倫的な個々人の行為を労働という財貨の上位に置こうと試みながら、経済学的な生産活動の持つ特殊に社会的な機能を承認するという矛盾だそうです(241頁)。ヘーゲルがあえてこのような矛盾を孕みつつも、『法の哲学』で試みたことは、アダム・スミス的な自由競争の原理に立脚する「市民社会」論に対する批判であったとされます。そしてヘーゲルの考えたPolizeiの役割は、産業発展の中で生じる「富の拡大」によって労働者階級の隷属と窮乏が増大することを防ぐことであるとされたのでした。ヘーゲルは19世紀前半において既に「市民社会が富の過剰にもかかわらず、十分に富んでいない」ことに気づいていたわけです(242頁)。このような問題を改善するために、ヘーゲルが市民社会にとって必要と考えたのが「職業団体」でした。そのようなヘーゲルの思想の影響を受けて、貧しくなる労働者階級を市民社会の中に繋ぎ止めようとする試みが、ドイツにおける労働組合運動や社会主義運動において結実する。そう指摘して、成瀬は筆を置いています。


 本書のこの結びは、新自由主義的な経済政策によって中間層が解体し、格差がさらに拡大しつつある21世紀の日本の社会にも訴えるものがあります。本来イエス・キリストの教えに基づいて「利他」の精神や「人倫」を尊ぶべきはずのキリスト教信仰は、スミスやカントの重視した個人の自律を尊重しつつ、しかしヘーゲルによって懸念されていた搾取される「賎民(労働者階級)」への共感と支援を、当然目指さなければならないはずです。本書の結びからそのような展望を与えられました。

 


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