大堀壽夫『認知言語学』(第六版)東京大学出版会、2020年


 かつて最初に神学教育を受けた神学校は、神学の諸分野の中でも、特に聖書学と聖書語学の教育に力を入れていました。教師陣の中には言語学の成果を聖書学研究に応用する先生もおられ、クラスで言語学の本が紹介されていました。それでジョン・ライアンズ『言語と言語学』近藤達夫訳(岩波書店、1987年)などを買って斜め読みしたりもしました。それまで学部では歴史学を専攻していましたし、自分の関心は今でも、人間性について示唆を与えるアイロニカルなストーリーを歴史の中に見出すという点にあるように思います。それでも最初に学んだ神学校で、聖書学などにおける言語学的アプローチの重要性を教えられたことは、その後の神学の学びのための財産となったように思います。


 言語学を聖書学に応用するといっても、もちろん色々な可能性がある訳ですが、当時は、特に聖書のテキストの統一性を擁護する議論を展開する際に、解釈における共時的アプローチの優先性などが引き合いに出されたりしていたように思います。また古代セム系諸語の研究成果に基づいて、旧約聖書テキスト変更の提案がなされているような箇所について、安易に本文修正を受け入れず、聖書のテキストを尊重する読みの可能性などを教えて頂いたりしました。19世紀以来聖書学は、歴史学の影響を受けて、我々が手にしている聖書のテキストが、どのような資料に基づき、またどのような編集のプロセスを経て、現在の形になったのかを説明することに関心が向けられてきた面がありました。そうした研究方法は確かに言語学の通時的アプローチに似ています。けれども言語学的な視点から、現在我々の前にあるテキストを読むならば、一見不自然で、資料編集の痕跡と思われるような箇所について、必ずしも通時的なプロセスを考慮せずに解釈できるケースも少なくありません。そういう意味でも、聖書学を学ぶ者が言語学に関心を払うことによって得られる利益は大きいと思います。


 ただその当時教わった言語学に関する情報は、1980年代頃までのことに限られていました。その後言語学の世界では認知言語学という研究領域が発展するようになったのだそうです。そのことを最近、西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』(中公新書、2013年)という本を通して知りました。それで、この本の文献案内に最初に紹介されていた本書を買って読むことにしました。


 この本は、教科書とは言え、言語学を専攻している方々に向けて書かれているので、私にはかなり難解で、一度通読しただけでは吸収できなかった箇所がかなり多くありました。それでも、最近の認知言語学の成果の中に、聖書学の分野においても重要な意味をもつと思われる事柄が幾つかあるように感じました。例えば、認知言語学の意味論で使われている「プロトタイプ」という概念は、聖書の語句研究をする際にも参考になります。認知言語学では、事象構造が言語化されるプロセスの分析がしばしばなされるようですが、この分析法は、聖書のテキストの構造分析をする場合にも参考になるのではないかとも感じました。また作品の文脈は著者によって説明的になされる訳ではなく、その記述の文脈は「文脈化の合図」(contextualization cue)という形で動的に提示されるものだという指摘も、聖書のテキストを読む上で参考になると思いました。


 恐らく認知言語学の成果の内、最も基本的な貢献は、それ以前の構造主義的な言語観、あるいは生成文法の言語観に修正を迫る面があるということではないかと思います。構造主義言語学も生成文法も、自然言語は自律したまとまりをもっていると考えて来たのではないでしょうか。それに対して認知言語学は、言語が人間の心理や認知機能と深く結びついていることを明らかにしてきました。そのような言語観に立って言語を分析することによって、それまで当然とされていた語彙と文法の境界には実は必ずしも明瞭ではない所があるという事実が指摘されたり、文法の領域に属するとみられる構文にも、意味を伝達する機能が存在したりすることが実証されるようになりました。認知言語学の研究の進展によって、これまでの定義やカテゴリーに修正を迫るような発見がなされているようです。


 個人的に興味深いと感じたのは「文法化」という現象です。本来動詞として用いられていたような語句が、やがて前置詞・後置詞などとして慣用的に用いられるようになる変化のことを意味するのですが、人間が使用する言語は、常に無数の変化のプロセスの中にあります。テキストとは、文法化しつつある語彙を雑多に含んでいる諸々の通時的な変化の過程の一断面にすぎないという視点は、聖書を読む者も意識しなければならない事実だと思いますし、聖書のような重層的・複合的なテキストを読むことの難しさを暗示する指摘でもあるように思いました。


 この「文法化」の問題について解説されている章の終わりで、筆者はこう結論付けます。


「話し手のメッセージと聞き手の構成する解釈は完全に等しいということはない。伝え合いの現場では、聞き手による補正・補完が常に行われている。そこでは推論による意味の読み込みや、カテゴリーの再解釈が繰り返し起きている。言語変化はこのプロセスの延長上にある。」(200頁)


ここで言われていることは、例えばユダヤ教のタルグーム(アラム語訳旧約聖書)のような文書にまさに当てはまります。


 私自身は、その後、最初に学んだ神学校では殆ど触れることのなかった文書にも関心を持つようになり、ミドラシュ(ユダヤ教の聖書解釈や注解書)とタルグーム(アラム語訳旧約聖書の諸伝承)を専門とするユダヤ教学者もとで学ぶ機会を得ました。その結果、自然と旧約聖書から派生した諸文書などにも関心が向くようになりました。タルグームというのは、必ずしもヘブライ語テキストの忠実な翻訳ではなく、アラム語を日常語とするユダヤ人の会衆にとって旧約聖書を意味のあるテキストとして提示するために、口頭で伝承され続けていたものです。伝承によって異なりますが、だいたい紀元後2-4世紀頃になって文書化されるようになりました。ただその自由なアラム語訳には、旧約聖書の周辺に派生していた様々な文書に保存されているミドラシュなどの影響がしばしば認められるのです。そして当たり前のことですが、ユダヤ人のタルグーム伝承者たち、つまりユダヤ人会堂で旧約聖書の解釈を担当していた人々が、そのような複合的な側面を持つ翻訳を試みていたのは、彼らが常に旧約聖書のテキストの同時代的意義を明らかにすることに関心を払っていたからです。彼らはその目的のために旧約聖書ヘブライ語のテキストに様々な変更を加えた訳ですが、そうした派生的なテキストの成立のプロセスなどを考える上で、認知言語学の成果は意味をもつような気がします。


 余談ではありますが、アリストテレスは『形而上学』の中で、イオニア地方で自然哲学が発生した理由について書いています。それは人々の生活が安定し、世界の始原(アルケー)や元素(ストイケイア)について探求する余裕ができたことと関係がありました。翻って、最近日本の政府は、大学での人文学などに対する資金の供給を絞りつつあるとの報道を耳にするようになりました。これからは日本人が、本気で人文学を学ぶためには、まず英語で授業がなされる国際教養学部のような場所に行くか、海外に留学をする以外に選択肢は限られてしまうのかもしれません。ただそのような時代にあって、日本で神学の学びを続ける者には、新たな使命が与えられているようにも感じます。それは神学に隣接する人文諸学に学びの領域を広げることによって、人文学のすそ野を維持することに貢献できるのではないかということです。