
夏目漱石に興味を持ったのは、高校三年の現代文の教科書に載っていた「私の個人主義」という文章がクラスで取り上げられた時からでした。現代文の先生からは漱石の生涯について熱を込めて教えて頂いたような気がします。ちょうど新しい千円札の肖像が伊藤博文から漱石に切り替わった時期でもありましたが、先生自身、漱石という人物に魅力を感じておられたのではないでしょうか。それで大学に入ってから、所謂前期三部作と後期三部作を通読しました。通読したとはいえ、漱石はつまり何を表現しようとしていたのか、ほとんど理解しないまま、その後漱石を読むのは辞めてしまいました。
ところが最近YouTubeにアップロードされている高橋源一郎という作家の漱石に関する講演を視聴する機会がありました。この講演を聞いて、漱石の作品を読む手掛かりが与えられたように思いました。高橋源一郎さんは『坊ちゃん』に出てくる登場人物に注目をしておられました。坊ちゃんの味方になったヤマアラシは会津の出身です。それに対して敵役である赤シャツなどは政府の近代化政策に忠実な人々として描かれています。また高橋源一郎さんは『こころ』が書かれた背景には大逆事件があったのではないかと推測しています。漱石にとってこの事件は、新政府に対する疑念を更に深める出来事となり、自身の死をも意識しながら漱石は『こころ』を書いたのではないかとの解説もなされていました。つまり漱石は江戸幕府の大義を捨てきれずに明治を生きた反骨の人であり、そうであればこそ藩閥政府の近代化政策に対する批判精神を生涯捨てなかった。そのようなことを高橋源一郎さんは指摘しておられました。近代日本文学に明るい方からは、何を今さらと思われるかもしれません。
ご存じの通り『三四郎』の主人公、小川三四郎は熊本県出身の若者で、高等学校卒業後、東京帝国大学の外国文学のコースに入学します。学生生活が始まると、同郷の自然科学者である野々宮宗八や、級友の佐々木与次郎、そして高等学校教師の広田先生、野々宮の妹のよし子や、その友人の里見美禰子、さらには画家の原口などと出会い、交流を持つようになります。
『三四郎』には三つの世界が描かれています(80-81, 112頁)。第一の世界は三四郎の故郷の人々の世界で、母や三輪田のお光さんという女性によって代表されています。伝統的な日本社会と言ってもよいでしょう。第二の世界は大学の世界です。『三四郎』が書かれた当時、帝国大学の新学年は9月からだったようで、この小説は9月から翌年2月頃までの半年程の出来事が描かれているのですが、この間大学では西洋文学の教授ポストの後任問題が持ち上がり、友人の与次郎は、西洋人のお雇い教師ではなく、日本人教師を任命するように、特に広田先生を採用するよう働きかける運動を展開し、三四郎もこれに巻き込まれてしまうのでした。時代の空気は日露戦争勝利後の国粋主義的風潮が強まっていたのでしょう。広田先生の採用は実現しませんでしたが、与次郎の主張に共感する学生たちも少なくありませんでした。大学の世界の先には当時の新聞・雑誌といったメディアの世界、さらには政治の世界が広がっているように感じます。
しかし『三四郎』が主に描こうとしている世界は第三の世界であり、一言で言えば、それは里見美禰子という女性の生きている世界です。東京という近代都市に生まれつつあった欧米的な都市文化に生きる人々の世界ということでしょう。この小説は風俗小説でもあると説明されています。確かに当時の東京のキャンパスライフが生き生きと描かれています。まだ東京を知らない人々にとっては憧れを抱かせるような記述が随所にみられる作品だと思います。けれども漱石の関心の中心は、この世界に生きる人々にあります。この人々は、それまでの日本人には見られなかった新しい特徴を備えた人々で、その特徴は「おのれに誠」(115頁)である、つまり自分に正直であるという点に顕著に現れていたのでした。
ただ『三四郎』は、やはり恋愛小説だと思います。あるいは恋愛を通して、地方から東京にやってきた若者の成長する様を描いた教養小説です。そのことは冒頭に見知らぬ女性が登場することからも伺えます。汽車に乗り合わせて名古屋駅で一緒に下車し、一晩三四郎と同じ宿に泊まったこの女性は、翌朝別れ際に「あなたは意気地のない人ね」と捨て台詞を放って去っていったのでした。大学に入る青年と察知して接近したのでしょう。しかし三四郎は純朴でシャイな性格でしたから、二人は何事もなく別れたのでした。
大学生活が始まると、三四郎は、大学の池の傍に立つ里見美禰子の姿を遠巻きに目撃した時から、彼女を見初めます。さらに物理学研究者野々宮の妹のよし子が入院した時、病院で偶然美禰子と鉢合わせになりますが、漱石の筆致は、現代人から見ると非常に慎ましやかです。最近の恋愛小説であればストレートに女性の美しさや魅力を描くことでしょう。大学時代に読んだ時には、三四郎の美禰子に対する恋愛感情の機微を察することが難しく思われました。それ程読解力の乏しい者であった訳ですが、あれから30年以上時間がたって自分の鑑賞力も少しはましになったように思います。
「第三の世界」の中心人物はやはり里見美禰子という女性です。彼女は、高等教育を受けている男性たちに混ざって、英語のフレーズを的確に翻訳する英語力と教養を身に着けている女性でした。また広田先生の引越しの時には、当時は珍しかったと思われるサンドウィッチをバスケット一杯持参するようなハイカラな面もあり、画家の原口がモデルを依頼する程の美貌をも備えていました。その一方、想いを寄せる野々宮宗八の気を引くために、三四郎に接近する素振りを見せるような一面もありました。年下の三四郎は美禰子に利用されたわけです。三四郎への恋愛感情が全くなかったわけではないのだとは思いますが。
美禰子の描き方の中で一つ解せないと感じるのは、よし子に紹介されていた男性を、よし子が断った後、急転直下、美禰子がこの紳士と交際を始め、結婚を決断するというストーリーです。小説の終幕にさしかかり展開を急いだのかもしれませんが、漱石は、里見美禰子という女性を魅力的な女性と描きながらも、本心ではそのような女性をあまり好んでいなかったのかもしれません。
『三四郎』へのキリスト教の影響は、表面的ではありますが、幾つか認められます。菊人形の鑑賞の後、三四郎と美禰子は二人だけ別行動をする場面があります。転びそうになる美禰子を三四郎が抱きかかえた時に、美禰子はStray sheepと囁きます。美禰子との恋愛の進展に期待が高まる瞬間です。このStray sheep(迷える羊)というフレーズは新約聖書に関係があるのだと思います。ただ欽定訳聖書には同じフレーズは出てきません。マタイの福音書18章12節にはa hundred sheep and one of them be gone astrayというフレーズがあります。イエス・キリストは、100匹いる羊の中から、たった一匹が迷い出たとしても、迷った一匹を探し出して下さるという教えが語られる箇所です。『三四郎』の中の「迷える羊」は、単に恋愛関係においてはみ出した存在となっていた美禰子と三四郎を指しているようですから、言葉は聖書に由来するものの、小説の中での意味は聖書のメッセージとは関係がありません。他に「救世軍の太鼓」が耳障りな雑音として言及されます(258頁)。当時すでに救世軍は社会救済事業のための街頭募金を行っていたのでしょう。
『三四郎』の中で、漱石のキリスト教に対するイメージが最も端的に表現されているのは終幕近くに美禰子が教会から出てくる場面ではないでしょうか。美禰子はクリスチャンとなって別の男性と結婚してしまう。そのことを知った三四郎は、美禰子の出席していた教会に出向き、礼拝後、会堂から出てくる美禰子に借りていたお金を返します。その時、美禰子は「われはわが咎を知る。わが罪は常にわが前にあり」という詩篇51篇の言葉を口にします。恋を実らせようとして三四郎を弄んだことを謝罪したのでしょう。ただ漱石はその言葉を真実な言葉として美禰子の口から語らせている訳ではないように思います。
漱石によれば、美禰子を含む「第三の世界」に生きる人々のもう一つの特徴は「露悪家」であるということです(164頁)。伝統的な日本人であれば、自分の悪について人に語るということは滅多にしなかったのでしょう。漱石は、新しい日本人のそのような「露悪」的態度が鼻持ちならないと感じていたのだと思いますが、そのような態度の広がりには、西欧からやってきたキリスト教の教えに関係があると観ていたのかもしれません。
漱石自身は、そのような「第三の世界」の興隆しつつある近代日本において、日本人として誠実に生きるとはどういうことかを考え抜いたのだと思います。しかし残念ながら漱石の眼差しの先にあったのは無論キリスト教ではありませんでした。開国後キリスト教に入信し、プロテスタント教会の最初期の指導者となった人々の多くは佐幕派出身の旧士族の若者たちでした。そういう意味では、漱石の願った近代日本人の姿と、明治期キリスト者の目指した近代日本人との間に、本来はより多くの接点があってもおかしくはなかったと思いますが、両者はほとんど交わることなく離れて行ったのではないでしょうか。
ただ国民的文化と福音の相克という課題は、別に近代日本だけの課題ではなく、実はキリスト教の始まりからすでに意識されていました。使徒パウロという人は、ローマ人への手紙で、同胞のユダヤ人の大半が、イエス・キリストの福音を受け入れようとはしない現実に直面した時、同胞が救われるなら「自分が呪われてもよい」とさえ語っています(ローマ人への手紙9章3節)。日本のキリスト者に少し欠けている点があるとすれば、このパウロのような、同胞愛・祖国愛と自らの信仰との相克によって生じる苦悩を表現する言葉であるのかもしれません。