
ちょうど80年前の今日、日本時間の1941年12月8日に、大日本帝国海軍南雲忠一中将麾下の六隻の航空母艦を中心とする機動部隊がハワイ・オワフ島の真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊の主力艦艇に対して艦載機による攻撃をしかけました。数千キロ離れた敵基地に海軍航空部隊が打撃を与えたという意味では、戦史に残る作戦ではありました。しかしよく知られているように、攻撃対象の内、最も重要な主力航空母艦はどういうわけか演習で外洋に出ていました。アメリカ側は恐らく攻撃を事前に察知していたのでしょう。また海軍航空部隊は第二派の攻撃で終了し、真珠湾に停泊していた全艦艇を使用不能にした訳ではありませんでした。しかも真珠湾に隣接する石油貯蔵施設は無傷で放置し、当面のアメリカ海軍の作戦能力を徹底的に叩き潰すという目的の達成は中途半端に終わりました。ただその後半年の間、海軍はインド洋から南太平洋まで連戦連勝のように戦果をあげることになります。それが気の緩みを生んだのでしょう。転機となったミッドウェー海戦では、二つの致命的なミスがあったと言われます。一つは重巡洋艦利根の水上偵察機のカタパルトが故障し、当初の索敵の範囲に穴をあけてしまったことです。不運にも敵空母機動部隊は、本来利根から発艦する偵察機が索敵するはずの海域を航行していたのでした。また今回も指揮をとった南雲中将は、敵空母機動部隊攻撃のための航空戦力を投入する前に、ミッドウェー島の空爆を行いました。しかも意味の乏しい陸上爆撃の第二次攻撃をしようとした時に、利根発進の偵察機から敵空母部隊発見の連絡を受けます。空母飛龍にいた第二航空戦隊司令の山口多門少将は、南雲司令官に、このまま陸上攻撃用爆弾で敵空母部隊の攻撃に向かわせるべきだと主張しますが、南雲司令官はこの提案を退け、陸上攻撃用の爆弾から魚雷などへの換装を命じてしまいます。これが二つ目のミスでした。その換装中に、敵の急降下爆撃隊が南雲艦隊に襲いかかりました。命中したわずか数発の爆弾は、何もなければ沈没には至らない被害で済むはずでしたが、甲板上の爆弾・魚雷が誘爆し、赤城、加賀、蒼龍という三隻の虎の子航空母艦は瞬く間に撃沈されてしまったのでした。
仮にミッドウェー海戦に日本海軍が勝利していたとしても、アメリカの反抗作戦が遅延しただけで、やがて圧倒的な物量戦の前に、日本軍の最終的な敗退は避けられなかったかもしれません。それでもあの海戦のミスは日本人が将来にわたって忘れるべきではない出来事であって、皆がその反省と教訓から学ぶべき事例だとさえ思います。多くの尊い人命が失われただけではなく、貧しい国民の血税で作り上げた世界第三位の大艦隊の中軸が僅か数時間で海の藻屑と化してしまったからです。
太平洋戦争敗戦に至る歴史を振り返ると、心に怒りが湧いてきます。今回取り上げる論文集を書いた丸山真男も、敗戦直後に表題に採用された論文を書いているとき、強い憤りを胸に秘めながら書いたのではないかと思います。しかしながら、丸山の論文は、今も我々読者に感動を与え続けます。それは戦前の日本的ファシズムを生んでしまった原因について、近代政治学の分析視角によりながら、冷静に分析しているからです。情緒的にではなく、理性的に、丸山は破綻した政治体制の内実にメスを入れようとしました。その勇気に感銘を受けるのです。こういう本が出版できるようになった戦後日本は、色々と問題を抱えているとはいえ、少なくとも戦前よりは優っていると思います。
ここに収められている著作の多くは、著者の生きた時代に浮上していた様々な問題について公平な視点から書かれている論文です。著者は、戦前のファシズムの検証を足掛かりにしながら、東西冷戦下の共産主義、特にスターリン体制に対する批判的な分析を行う一方で、同時代に米国を席巻したマッカーシズムに対しては、ファシズムとの共通因子を析出しようとします。さらに植民地解放による新しい国際社会の到来を、著者は期待感をもって見守っていました。ただ収録されている論文の多くは、二十世紀の諸問題についての論評であって、かなり時代を感じさせるものがあります。内容にそれほどの切実さを感じるわけではありません。
しかしながら「超国家主義の論理と心理」の読後感は、他の論文とは異なり、古さを感じさせないものがあります。それはつまり1946年にこの論文が書かれた当時の日本と、現在の日本とが、基本的にあまり変わっていないからなのでしょう。丸山眞男は、ドイツのファシズムと日本のファシズムとを比較しながら、その日本的特質を解明しようと試みました。彼の論旨は、次の一文に集約されていると思います。
「さて又、こうした自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を各人の良心の内に持たずして、より上級の者(究極的価値に近いもの)の存在に規定されていることからして、独裁観念に代わって、抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでも言うべき現象が発生する。」(32頁)
近代日本は、典型的な西欧近代国家に認められる「中性国家」の確立を目指したことはなく、民権論を主張した人々すらも、近代国家の担い手たる主体的個人の確立のために、封建的忠孝理念と対峙することをせず、国家が道徳的・精神的・宗教的価値の決定者となって、個人の主観的内面性を尊重するという近代的原理を侵害することを許容し、天皇を頂点とする階層秩序の中にあって、下位の者は上位の者にすりよることによって自己保身を図り、一方で相対的上位者は、相対的下位者に「抑圧の移譲」を行う。そして実は、琉球、朝鮮半島、中国などへの侵略や大東亜共栄圏の建設と言う虚妄も、下位者に対する「抑圧の移譲」が海外に広げられたことの結果であると、丸山は考えます。ではこの階層秩序の頂点に君臨する天皇には、主体性があるのかと言えば、そうではない。だから日本的ファシズムを生んだシステムがいかに空虚でありながら、そこに組み込まれて生きる人々にとっていかに抑圧的なものであるのかを丸山眞男は描いているのです。もっと平たく言えば、戦前の日本的ファシズムを支えたシステムは、既成の権威者・上位者におもねりすり寄り、下位者・周縁的存在をいじめることで成立する醜悪なシステムだということです。
「超国家主義の論理と心理」で指摘されている、セクショナリズムの問題(29頁)は、現在我々が直面しているコロナ禍にも影を落としています。感染症対策に有効な対処法は三つあると言われてきました。検査と隔離とワクチンです。PCR検査で陽性者をできるだけ早く見つけ、陽性者を隔離する。さらにワクチン接種を進めて感染の拡大を防ぐわけです。ところが日本の政府は、感染症等に関連する利権を握っている人々の意向を汲んでいたらしく、無症状者に対するPCR検査を長い間行おうとはしませんでした。野戦病院の建設も行いませんでした。政府は、そのようにセオリーを無視した感染症対策による被害を、一年半以上も国民(相対的下位者)に押し付け続けていたのでした。これは現代版「抑圧の移譲」です。そして人命を救うという大義を掲げても、日本では依然として、既得権益の保有集団に権益の削減をさせることは著しく困難か、ほとんど不可能です。セクショナリズムを切り崩すことが難しいのは、つまり日本の社会には利権集団ごとに小天皇とでも呼ぶべき不可侵の権威主義的存在が無数に存在しているからだと思います。丸山が糾弾した戦前の日本的ファシズムの病理は根強く残っているのでしょう。
そして現代のプロテスタント・キリスト者日本人にとっても、この「超国家主義の論理と心理」は、今なお必読の書であると思います。丸山は、この論文の中で、本来日本のキリスト者こそが、戦前の日本社会にあって前近代性との闘いの先頭に立つべきであったはずなのに、それを回避してしまったと指摘しています(17頁)。それは、恐らく日本のプロテスタント・キリスト者自身が、マルティン・ルター以来のプロテスタント的人間像を継承するよりは、伝統的日本的価値観を保持し続ける道を選んできたからなのだと思います。その結果プロテスタント教会の現状は、丸山が日本的ファシズムの分析で描き出したシステムの影響を今なお強く受け続けているようにさえ思われます。丸山眞男が、戦後目指した主体的個人の確立という目標は、プロテスタント・キリスト者によって探求されうる可能性を秘めながら、多くのプロテスタント・キリスト者がその可能性に眼を閉ざし続けているのではないでしょうか。だから「超国家主義の論理と心理」は、現在もキリスト者日本人が、ぜひとも読まなければならない論文だと思うのです。