中野好夫・新崎盛暉『沖縄戦後史』岩波新書、1976年; 若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス: 核密約の真実』(新装版)文藝春秋社、2009年


 1945年6月23日は沖縄戦での日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日です。また来年の5月15日は沖縄返還50周年にあたります。そんなこともあって、今回は沖縄に関連する本を2冊取り上げることにしました。


『沖縄戦後史』は敗戦後から返還までの沖縄の戦後史を、沖縄の革新政党や労働組合運動への共感を示しながら書かれている本です。この本は、もう随分昔に出版された本ですが、基本的な事実を知るために、今も読む価値のある本ではないかと思います。


 この本から教えられたことの一つは、戦後の沖縄が、アメリカの東アジア戦略において果たして来た役割がどういうものか、ということです。冷戦期に、アメリカは、東アジア諸国との間に個別に同盟を結んできました。日米安保条約もその一つです。日本以外の東アジア諸国との相互安全保障条約(米韓、米台、米比)において、米軍と同盟国軍の防衛の範囲には必ず沖縄が含まれるのだそうです(114頁)。先日もある新聞の特集記事に書かれていましたが、アイゼンハワー政権期に検討された台湾有事のスィミュレーションでは、最悪、台湾と沖縄が核攻撃によって壊滅する事態をも想定していたのだそうです。沖縄に配備されている米軍は、朝鮮半島有事、台湾海峡有事の際にも展開されることになり、これらの地域での有事の際には、当然沖縄もその攻撃の対象となるということです。


 そのように安全保障上極めて重要な役割を果たしている沖縄の施政権が、1972年に返還されることになりました。沖縄返還交渉が実質的に始まったのは1967年のことです。当時、泥沼のベトナム戦争が続いており、沖縄の米軍基地は補給基地や爆撃機の発着基地として戦争継続に不可欠の役割を果たしていました。どうしてそのような難しいタイミングで、日本は沖縄返還交渉を始めることになったのか不思議に感じますが、『沖縄戦後史』によれば、それは沖縄での軍政が、沖縄の方々にとって耐え難いものとなりつつあり、日本政府がアクションを起こす必要があったからのようです。


 返還交渉の過程で、当時の佐藤首相の密使として、ニクソン大統領の補佐官であったヘンリー・キッシンジャーと秘密の交渉を行ったのが、若泉敬という国際政治学者でした。この方の書かれた『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』という本も今回併せて取り上げました。『沖縄戦後史』とは対照的に、政権の中枢で重要な役割を果たしていた人物が、沖縄返還の秘密交渉の舞台裏を明かした本です。


 若泉敬という方は、1954年に東京大学法学部を卒業し、保安庁(防衛庁の前身)に勤務してから、核時代における日本の安全保障を研究するために、1957年から英国のロンドン大学と米国のジョンズ・ホプキンス大学に留学します。帰国後防衛庁に復職しますが、1966年から京都産業大学で教鞭をとっておられました。しかし『中央公論』誌に掲載されたマクナマラ国防長官の単独インタビュー記事が注目され、当時自民党幹事長を務めていた福田赳夫から、佐藤首相の訪米の準備として、沖縄返還問題に関して、ジョンソン大統領の意向を打診するように依頼され、当時ジョンソン大統領の補佐官であったウォルト・ロストウ博士と接触したのでした。このロストウ博士と若泉敬の学者同士のパイプを通じてなされた事前交渉の成果が、1967年の佐藤-ジョンソン会談における沖縄返還についての最初の日米合意でした。


 その後ニクソン政権に代わってから、佐藤首相の密使としてキッシンジャー補佐官と直接交渉を行い、日本側の希望を伝えつつ、ホワイト・ハウスの要望を佐藤首相に伝達しました。優れた語学力を駆使し、タフな交渉能力と臨機応変に振る舞う判断力を有し、さらに沖縄のためなら労を厭わぬ気概をもったこの国際政治学者がいなければ、1972年の沖縄返還は実現しなかったのではないかとさえ思われます。そもそもキッシンジャー補佐官のような、鋭敏な策士と対等に渡り合うことのできた交渉人が、アカデミズムの世界におられたということは驚くべきことのように思われます。彼は当時アラフォーの学者でした。その彼が、曖昧な応答に終始することの多かった佐藤首相に向かって、執念深いリチャード・ニクソン大統領の意向を正確に伝え、しばしば首相に詰め寄りながら決断や行動を促していったあたりは読み応えがあります。


 アメリカ側は「核抜き本土並み」という日本側の要望を受け入れる代わりに、次の大統領選挙の対策として、アメリカ南部の繊維産業を保護するために、毎年80%増というすさまじい勢いで輸出を伸ばしていた日本の繊維産業への自主規制を秘密交渉のルートで求めてきました。佐藤首相は一応その要求を受け入れるのですが、当時の繊維産業の経営者たちは、すぐには米国の望むような自主規制を受け入れようとはしません。約束されたはずの自主規制が履行されないため、アメリカは強硬措置をとる構えを見せます。そのため通産大臣に抜擢された田中角栄は、自主規制に伴う繊維産業の損失を国が補填する形で解決します。当時年間200億円程度だった通産省の予算とほぼ同額の損失補填という前代未聞の予算を、田中角栄は大蔵省の主計局に認めさせたのでした。


 結果論ではありますが、もし沖縄返還の際に、当時一部で提案されていたように、非核三原則にとらわれず、日本全体への有事の際の核持ち込みを認めていれば、秘密交渉など必要はなく、正規の外交ルートで合意に達することはできたかもしれません。また佐藤首相が「核抜き本土なみ」を実現するための秘密交渉ルートを開いていたために、ニクソン大統領に付け込まれ、取引を要求されたようにも思われます。


 若泉敬は死の直前に本書を出版することによって、沖縄県にだけ有事の際の核持ち込みを無条件で認める差別的な密約が存在することを、あえて国家機密を暴露してでも、国民に伝えようとしました。それは沖縄返還交渉以来残されている課題や教訓が、現代の日本においても生きていると著者が考えたからだと思います。有事の核持ち込みという潜在的リスクは本来日本全体で共有するべきだと著者は考えていたのでしょう。そして若泉敬は、戦後日本が「愚者の楽園」となってしまっているのではないかと警鐘を鳴らします。この言葉は、アメリカに依存している東アジアの安全保障体制の現実がどういうものか、国民があまりにも無関心であることに、いら立ちを感じて発せられた言葉ではないでしょうか。


 これら二つの本から教えられることは色々あります。日本人には、沖縄が二度と戦場とならないようにする義務があることは言うまでもありません。ただ残念ながら戦後の沖縄を巡る状況はさらに複雑になってしまっていることをこれらの本から教えられます。そして現状に関する限り、近隣諸国との平和を維持することが、特に沖縄にとって、いかに重要かということです。沖縄の平和と安全のために、日本人は台湾海峡や朝鮮半島の平和を維持するための最大限の努力をする義務があります。重い過去の負の遺産の故に、東アジア近隣諸国との関係は今後も常に緊張状態が続くことでしょう。それでも関係を不用意に悪化させることは、日本にとって、特に沖縄にとって、悲劇的な事態を招きかねないということを私たちは自覚し、自制する必要があるのだと思います。「平和をつくる者は幸いである」(マタイの福音書5章9節)とのイエス・キリストの言葉はこのような事柄にも当てはまるのではないでしょうか。