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中村哲『中村哲 思索と行動:「ペシャワール会報」現地活動報告集成』(上)ペシャワール会、2024年



 本書は2019年に亡くなられた中村哲医師が、1983-2019年に主に「ペシャワール会報」に寄稿した現地活動報告をまとめた書物で、今年の6月に出版されました。上巻は2001年まで、下巻は2002年から2019年までです。9月にはこのコーナーでミシェル・フーコー『監獄の誕生』を取り上げ、フーコーによる西欧近代社会批判を紹介しました。フーコーの批判が、近代社会を内側から分析したものであるとすれば、中村哲医師の現地活動報告は、19-20世紀の西欧近代社会、あるいはそれが生み出した資本主義経済システムや帝国主義的拡張の弊害を、西欧近代社会の外側、あるいは資本主義経済システムの最周縁部から観察した書物であると言えます。そういう意味で、この本も近代世界(社会)批判、あるいは資本主義システム批判の一冊と言えるのではないでしょうか。


 中村医師の書かれる文章には説得力があります。説得力を与えるものは、何よりもこの方が実践に裏付けられた思索を続けておられたからだと思います。中村医師は九州大学で1960年代に学生運動に参加した世代の一人であったようですが、当時の学生運動には幻滅し、独自の道を切り拓くことを選ばれたようです。1960-70年代の学生運動は必ずしも当初の目的を達することはなかったかもしれませんが、後になってこの世代の人々が、豊かな実を結ぶようになった面があるのではないかと思います。中村医師とペシャワール会の活動もその一つではないでしょうか。


 キリスト教神学の系譜としては、中村哲医師の信仰は、カール・バルトと共に、バルト研究者として知られていた滝沢克己の影響を受けているそうです。さらに若くして内村鑑三の著作に触れていたことも、その思想形成に影響を与えていたとのことでした。上巻の巻末に城尾邦隆氏(ペシャワール会副会長)がそう記していました。カール・バルトは、スイスで牧師として奉仕していた時期に、自らも労働組合運動に関わりを持っていたことがあったようですから、中村医師も思想的には史的唯物論の影響も受けていたのではないかと思います。中村医師が、パキスタン領内に流入していたアフガン難民への医療の提供を続ける中で、難民の祖国への帰還を支援するために、クナール川からの用水路建設と砂漠の緑地化事業を行った理由には、マルクス主義的な思想の影響もあったのではないでしょうか。あるいはもっと純粋に、社会の底辺に生きる人々への共感に動かされていたということなのかもしれません。そのような共感はキリスト教的ヒューマニズムに基づくものであったのかもしれません。ともかく中村医師は、単なる思弁に留まらず、底辺に生きる普通の人々に対する深い同情や共感を持ちながら、医療援助の働きなどに携わっていたことを読み取ることができます。そのような姿勢や生き方の中に中村医師固有の哲学のようなものを感じることもできるのではないでしょうか。


 上巻には、日本キリスト教海外医療協力会を通して、パキスタンのペシャワールに派遣される時の挨拶が掲載されています。中村医師を支援するための後援会としてペシャワール会が発足し、1983年3月にその会報第一号が出されていました。中村医師は英国リヴァプールでの研修を終えてからパキスタンに派遣され、主にパシュトゥン人のライ病患者の発見・治療にあたられていました。パシュトゥン人はアフガニスタンとパキスタン両国の山岳地帯に住む民族です。当時すでにソ連によるアフガニスタン侵攻の為に、200万人ものアフガン難民が国境を超えてパキスタンに避難していたそうですが、そうした人々の中にもライ患者は多くおられたようです。さらにパシュトゥン人の居住地である国境の山岳地帯に住んでいる人々の中にも患者は少なからず存在していました。そうした患者を見つけ出すことにも多くの労力を割かれたようです。特にイスラム文化圏では女性のライ患者を発見することは至難の業であったとのことでした。それはつまり、中村医師がパシュトゥン人の居住地域の山岳地帯を自ら踏破しながら、一人の患者を探し出す努力を続けられていたということでもあったのでしょう。


 パキスタン北西辺境州の山岳地帯に居住するパシュトゥン人たちは、パキスタンとアフガニスタンに跨って居住しているのに、なぜそのような居住地域を分断する国境線が引かれたのかと言えば、それは19世紀後半の帝国主義の時代に遡ります。当時ロシアと大英帝国との間で繰り広げられた勢力圏争いの影響による面があったからなのだそうです。大英帝国は、その繁栄を支えていたインド植民地の支配を確固たるものとするために、中央アジアから南西アジアにおけるロシア帝国の南進を警戒していました。そしてロシアの南進を食い止めるために、勢力圏拡大を狙って何度かアフガニスタンへの侵攻を試みたそうですが、好戦的で地の利のあるこの地域の人々によってその都度撃退されてしまいました。その結果、英国は、自国の都合で当時のインド植民地の北方に境界線を引きました。これは英国軍を苦しめたパシュトゥン人への報復でもあったのでしょう。このヒンズークシ山脈の真ん中に引かれた境界線が、現在のパキスタンとアフガニスタンの国境線として定着してしまったのだそうです。ですからこの国境線はこの地域の住民たちの生活実態を無視して、大英帝国によって押し付けられたものに過ぎません。現在でもアフガニスタンとパキスタンの国境は事実上なきに等しい状態にあり、両国政府もその国境地帯の自由な往来を放置しているそうです。アフガン内戦によって大量の難民がパキスタン北西辺境地域に多く流入してしまったことも必然的な現象でした。そのような現地の状況は、ただでさえ困難なパキスタンでの医療支援を一層複雑にしている面があったようです。


 日本のように資金が潤沢にあるわけではない環境の中で、中村医師はライ患者に対する地道な治療を始められたのですが、医療支援の開始から間も無く、ライ患者が足の合併症を併発しないように、中村医師は患者の為に靴(サンダル)を作るワークショップをも医療活動と並行して行うようになったようでした。中村医師は後に日本キリスト教海外医療協力会からは抜けて、独自の支援活動をされるようになりますが、当初から現地の人々の福祉の為には、ただ医療を提供しているだけでは済まされない面があることを強く意識しておられたということなのでしょう。


 1985年度の「日本キリスト教海外医療協力会」への年次報告では、靴作りの工房のための小屋の建設を巡る中村医師の苦労が報告されています。中村医師が小さな小屋の建設の計画を、協力していた現地の病院に伝えてその許可を得ると、現地の病院は、中村医師を支援している団体のファンドのお金を少しでも掠め取ろうとするような法外な要求や妨害行為を次々と繰り出しながら、中村医師が低予算で小屋を建設するのを妨げようとしたのでした。現地の病院と虚々実々の駆け引きを繰り広げながら、中村医師はなんとか目的の小屋の建設に漕ぎ着けるのですが、ただでさえ厳しい環境の中で医療支援を行なっている上に、このような悪質な人々と協力しながら医療支援をしなければならないというのは、大変な労力とストレスだったのだろうと思わされました。


 しかしそのような中にあっても、中村医師は、一人一人の患者と向き合い、医療と共に、場合によっては子供の患者の教育をもサポートしようとされていました。この本には、一人のアフガニスタン難民の少年との交流の様子も報告されています。中村医師が赴任して間も無く、12-13歳位の少年が、中村医師の協力していたライ病院に入院したそうです。彼の父親が彼のお兄さんと共にこの病院に連れてきたのでした。父親は必ず迎えに来ると言い残したものの、とうとう二度と戻ってこなかったそうです。彼のお兄さんの症状はより重く、入院して程なくして亡くなられました。残された少年も一度は病院に嫌気が差し、アフガニスタン難民の多く居住していた場所に出て行ったこともありました。あるいはもう二度と帰ってこないかもしれないと中村医師は心配されていたのですが、2週間後に彼は戻って来たそうです。そして中村医師の治療を受け続けることになりました。中村医師は彼のために教育プログラムをも準備したそうです。これはほんの一例にすぎませんが、中村医師は、単に医療を提供するだけではなく、病を負ってしまったパキスタン人、アフガン人の方々が、なぜらい病を負わされてしまったのか、その社会経済的な背景をも考えながら、彼らが経済的に自立した生活をすることができるようにも尽力されていたのではないでしょうか。


 最初にこの本は、近代資本主義システムを、その周縁部に立って批判する書物であると紹介しました。ただ同時に、この本は、パキスタンやアフガニスタンのような前近代的社会の抱える問題に光を当てる書物でもあるように思われます。別の言い方をすれば、イスラム社会において当然のこととされる報復・復讐を正義とみなす社会において、「復讐してはならない」というイエス・キリストの教えを実践することの重要性を示す書物であるとも言えるかもしれません。そして実は私的報復が頻繁に行われる社会においては、健全な近代的医療を提供することが困難であるという明白な事実をも、この本は私たちに教えています。ですから、この本は、近代社会の良い側面にも光を当てる面もあります。


 この本の中で、この地域の部族社会の実情に触れられている箇所を読むと、近代国家や近代社会のもたらす恩恵を再認識させられます。「フィールドについてもそうですが、ここは驚くべき対立社会で、中央集権的な管理は先ず成功しません。例えば、各地区に配備されているLeprosy Dispensary (公営診療所) も担当者がA村出身の場合、A村と対立するB村の患者はとても薬を貰いに行けません。」(41頁)一つの社会が一つの政府・一つの法律のもとに統合されていることが当たり前の近代国家・近代社会ではおよそ考えられないような行動様式に、この地域の人々は依然として支配されているようです。


 また1986年度の日本キリスト教海外医療協力会への年次報告の中で、ペシャワール・ミッション病院におけるアフガン人ライ患者の置かれた過酷な境遇が紹介されていました。近代社会における医療は、人種や身分に関わらず、全ての病人に等しく医療を施すことが原則とされるはずですが、パキスタンに置かれている病院に入院しているアフガン難民に対しては、パキスタン人の病院運営責任者たちは、明らかに差別的対応を行うことがあったようです。ペシャワールで爆破事件が頻発すると、それはアフガン難民のせいであるとされ、パキスタン人のアフガン人に対する感情は悪化し、当時入院していた三人のアフガン人患者が、正当な理由なく退院させられてしまったそうです。その三人とも病状が悪化して間も無く死亡してしまいました。そのような中で、中村医師は「復讐してはならない」というイエスの教えを、繰り返し訴えられたそうです(86頁)。


 近代的医療を提供するという営みは、本来基本的人権の尊重や法の下の平等などの理念とは不可分であるとも言えるのではないでしょうか。前近代的な社会の敵対勢力への報復を肯定する社会は、そのような社会の仕組み自体が良い医療の提供を阻む壁を生み出してしまっているのだと思います。


 ですから、この本は、近代世界(社会)の負の側面を浮き彫りにするだけではなく、近代社会の肯定的な側面をも読者に認識させる面があるように思います。中村哲医師の文章は、西欧近代社会というものが生み出した負の側面を、西欧近代社会の外側から証言する面があるとは思います。かといって中村医師は近代的なるものを、全面的に否定している訳ではありません。本書から中村医師自身は「良き近代化」(18頁)を目指すというポジションをとっておられることもわかります。中村医師が提供しようとしていた医療などは、当然のことながら西欧近代社会が生み出した良いものの代表です。そして近代化はアジアの途上国においても押しとどめることのできない大きな流れであるという現実を直視し、その中で「良き近代化」を目指すという現実的な選択を、中村医師はされていたということなのでしょう。


 勿論、この本が読者に示唆していることは、単に近代化の光と影というようなことだけではありません。この本は、日本を始め、世界のキリスト教会のイスラム圏への宣教活動について、多くのキリスト教系宣教団体が19世紀以来続けてきた伝道活動の方法に反省を迫る面があると思います。中村医師は、純粋に医療支援のためにパキスタンに派遣された人物ですから宣教師ではありませんでした。ただこの本を読んでいると、医療支援と共に福音宣教(改宗者の獲得)を目指す宣教団体が、医療支援を傘にこの地域でも活動をしており、しかしそれらの団体が、中村医師の目から見て、むしろ非常識なことをしていたという指摘が、繰り返し述べられます。


 私が属する、いわゆる福音派のキリスト教会では、対外的な働きの中で最も優先されなければならないことは福音宣教であるとされます。キリストの福音を伝え、一人でも多くの信徒を獲得することだと考えられてきました。ですから中村医師が批判的に見ていた海外の宣教団体も、あるいは私の属しているグループと同じような海外の福音派の宣教団体であったのかもしれません。


 けれどもイスラム社会の実情についてこの本を通して知るようになると、これまでアメリカなどの海外宣教団体が行ってきた宣教活動、そして日本の福音派の教会が見習ってきたような宣教の方法で、イスラム圏の人々に伝道活動をすることが果たして意味のあることなのだろうか、という問いを、突きつけられているような気がしました。


 信仰的には、神の国の前進とは、何よりもイエス・キリストを主と信じ、イエス・キリストに従う信徒が増えることによって、最も端的に示されるのだということになるのでしょう。しかしだからと言って、伝統的なイスラム社会に生きる続ける人々に、ただキリスト教徒になることだけを求めるというようなアプローチをすることは、果たして良いことなのかどうかが問われるような気がするのです。これについて、今、自分の中には、はっきりとした答えがあるわけではありません。


 この点で中村医師が目指していたことは明確でした。それは「砂漠の中に下心のない善意の灯火を灯し続ける」ことと表現されています。ペシャーワル会の医療支援の規模は他の援助団体と比較して決して目立ったものではなかったことでしょう。アフガニスタン戦争が始まってから、欧米やアラブ系の援助団体によって、パキスタンやアフガンに投下された支援金は巨額であったようです。しかしながら、そのような巨額な資金援助が、本当にパキスタンやアフガニスタンの支援のために有効に用いられていたのかどうかは疑わしい面があったとのことです。国際援助には多額の資金も必要です。しかしそれ以上に必要なのは、実際に現地に行き、そこで現地の人々の具体的な必要を理解し、そのような人々の必要にあった援助を提供することです。


 1989年の10月のニュースレターでは、この年アフガニスタンの穀倉地帯がイナゴの被害に遭って、飢餓が広がっている状況が報告されていました。そうなると農民たちは都市に流入したり、難民としてパキスタン領内に移動したりすることになるのでしょう。こうした危機的状況に対処するはずの国連の機関や欧米の援助団体のことを中村医師は「援助ビジネス」をしている人たちと手厳しく表現します。彼らは資金や物量に物を言わせて活動はするものの、そうした彼らの活動が、本当の意味でアフガニスタンの人々を助けることに繋がっていない実情を知っておられるようです。中村医師としては同じ轍を踏まないように心がけておられたのでしょう。


 1992年12月のニュースレターの冒頭では、1989年から始まった東欧革命や1990-91年に起きた湾岸戦争などによって、アフガニスタンの問題が先進国の人々の関心から遠ざかってしまい、その結果、多くの援助団体がこの地域から撤退していったことが語られていました。そのような中でペシャワール会は、1984年から中村医師を中心に行ってきたらい病患者への医療支援活動を地道に継続し続けてきました。そのことにより、この地域の人々に小さな希望の光を提供し続けることができた。そのようにご自身とペシャワール会の活動を振り返っておられました(246頁)。


 そして過酷な状況の中で良心の灯火を灯し続けようとした中村医師の活動は、現地の人々に希望を与えていただけではなく、この活動報告読んでいる読者をも励ます力があります。実際私自身もこれを読んでいて、力づけられることが何度もありました。中村医師がパキスタンで経験された大変な苦労を前にすれば、自分が今苦しいと感じている状況などものの数ではないと思われされるのです。


 そしてこの本から中村医師の生き方に触れることによって、この国で生きる上での指針をも与えられる面があるように思います。私たち日本人の一部には、何か「アメリカン・ドリーム」を体現したような人々が、人生において目指すべきロールモデルであるかのように錯覚している人々が存在するのではないでしょうか。近年ではビル・ゲイツであったり、ジェフ・ベゾスであったり、マーク・ザッカーバーグであったり、グーグルの創業者ラリー・ペイジらであったり、イーロン・マスクのような人物が、人生の成功者であり、また地上の幸福を体現する人々であるかのように思い込んできた人々がいるように思います。あるいはそれほどの大富豪ではなくても、若くしてスポーツの世界などで成功を収めて莫大な富を築き、残りの人生を悠々自適に生活するような人物に魅かれるということも少なくないことでしょう。そのような生き方に憧れを抱いている日本人は決して少なくないかもしれません。


 けれども私は中村哲医師という方に、より優れた人生のロール・モデルを見出すことができると思います。中村医師は、英語はもちろん、パキスタンのウルドゥ語、ペルシャ語、アフガニスタンのパシュトゥン語をマスターされていたようですし、現地の人々と現地の言葉でコミュニケーションを取りながら、医療を提供され続けました。しかも、ご本人はシンプルな生活を貫かれておられたようでした。使い古された言い方ではありますが、世界の貧しい地域の環境に比較すれば、現代の日本という国がどれほど恵まれた国であるのかを読みながら繰り返し思わされます。それでも、この国においても、改善すべき課題は限りなく存在します。社会を良くする為にできることは数え切れません。この本を読んでいると、そういう課題に、自分のような人間も、少しでも貢献できるようになりたい。そういう思いが湧いてくるのです。そういう意味でも、この本を手にする方が増えて欲しいと思いますし、このようなロール・モデルに励まされる日本人が一人でも多く輩出されるようになって欲しいと心から願わされます。


 この国では、「失われた10年、20年、30年」ということが言われ続けていますが、ある経済学者は1980年代から、すでに現在に至る日本経済衰退の原因は存在していたと指摘します。1970年代はオイルショックの時代でしたが、当時欧米諸国が軒並み景気後退に苦しむ中、日本は先進工業国中この危機を最も適切に乗り越えることができたのだそうです。その理由は、政府も企業も国民も、皆、省エネの努力をしつつ、生活を切り詰め、低賃金を受け入れたからだったそうです。国民全体で、そのような経済的な試練の認識を共有し、国民全体でそれに耐えるというようなことが、まだ1970年代の日本では可能でした。それは、当時の大人たちの多くが、敗戦後の食糧難の時代を経験していた人々であったからでもあったのでしょう。


 私は1970年代をわずかに知っている人間として、自分も含めたあのバブルの時代の日本人の変化が日本経済を弱体化させた原因の一つであるように思います。1985年のプラザ合意以降、何かいとも簡単に、苦労なく金儲けをすることができるかのような、そのような錯覚に多くの日本人が取り憑かれてしまいました。それは麻薬中毒のような害悪を日本人の間に広めてしまったのではないでしょうか。それによって1985年頃までは、多くの日本人の優れた特徴であった勤勉さや職人的な気質が失われてしまったのではないでしょうか。しかしかつての古き良き日本人の特質は、中村医師の仕事や召命に対する姿勢の中に見て取ることができます。中村医師は、そのような狂乱のバブル時代の日本を経験する前に、パキスタンに派遣されている方でした。ですから1970年代までの日本人の優れた資質を維持することのできた希少な日本人の一人であったのではないかとも思います。


 日本の経済はもはやかつてのような繁栄を取り戻すことはないかもしれません。けれどもこの国が21世紀にも国際社会において一定の貢献をなし続ける国として、その存在感を示し続けるための鍵は、アメリカン・ドリームのような虚像に幻惑されるのではなく、中村医師のような生き方に倣い、この方のような生き方を国内外で実践する日本人が一人でも多く与えられることであるように思われます。

 


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