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中島耕二編『タムソン書簡集』日本基督教団新栄教会タムソン書簡集編集委員会訳、教文館、2022年


 この本は、個人的に大変お世話になった方から昨年プレゼントされました。それで主に朝、聖書を読んだ後に、少しずつ読むようになりました。この本は、単に日本キリスト教史の資料として価値があるというだけではなくて、キリスト教会で奉仕する者に慰めと励ましを与える本でもあると感じられるからです。


 デビッド・タムソン宣教師は、開国後間もない日本にやってきたアメリカ人宣教師の一人です。医者であったヘボン博士やブラウン宣教師、そして日本初のプロテスタント教会である横浜海岸教会を始めたジェームズ・バラ宣教師などに比べて、タムソン宣教師の名前はあまり知られていないかも知れません。しかしこの書簡集を読むと、タムソン宣教師という方は、ヘボン、ブラウン、バラに劣らず、最初期のプロテスタント宣教において非常に大きな働きをなさった方であったことがわかります。


 まず『タムソン書簡集』からは、幕末より明治期に至るプロテスタント宣教の雰囲気を、その息遣いと共に感じ取ることができます。そして何よりも初期の宣教師の直面した試練がいかに困難なものであったのかを痛感させられます。タムソン宣教師が日本に来られた(1863年5月)のは、ちょうど生麦事件が起きた翌年であり、薩英戦争が始まろうとしている不穏な時期でした。横浜では、他にも尊王攘夷派の侍による外国人殺害事件が頻発していたようです(15頁)。また江戸(東京)や横浜は火災が日常的に発生しており、タムソン宣教師の築地居留地の自宅も、1872年の銀座大火で全焼してしまったことがありました(108-09頁)。さらに宣教活動の初期の段階では、依然としてキリスト教禁教の高札が各地に掲げられており、一切の宣教活動は禁じられ、集会も行えず、キリスト教書籍の出版さえも認められてはいませんでした。


 そのように危険や制約の多い中でありながら、タムソン宣教師をはじめとする初期の来日宣教師たちは、可能な限り宣教活動を続けながら、将来宣教の自由が認められる日に備えて、日夜、日本語学習や聖書翻訳に取り組んでおられました。同じ米国長老教会から上海に派遣されていたある宣教師夫妻が、中国での活動を断念して帰国することになり、米国に戻る途中に横浜港に立ち寄って、タムソン宣教師と交流を持った出来事が一通の手紙に記されています(43頁)。この宣教師夫妻のことをタムソン宣教師は、有能ではあったが、精神的な強さに欠けていたと指摘しています。しかし中国に劣らず、欧米人にとって19世紀の日本で宣教することはどれほど過酷であったことでしょう。それにもかかわらずタムソン宣教師夫妻は50年以上の日本での宣教活動を全うされました。その秘訣は、タムソン宣教師が「目に見えるものによらず、信仰によって歩む」(新約聖書コリント信徒への手紙第二、5章7節)という使徒パウロの教えを忠実に実践されていたからではないかと思います。


 初期の日本宣教がいかに困難で危険に満ちていたかということに気付かされる手紙がもう一通あります。1870(明治3)年7月10日に江戸/東京から出された手紙には、同僚の宣教師で、大学南校のお雇い教師をしていたコーンズ宣教師とその妻、そして長男が、江戸を出港した蒸気船シティー・オブ・エド号の爆発によって一瞬にして命を失った事故が記されています。この蒸気船は、おそらく日本人が製造した船だったのでしょう。しかし出港直後に事故を起こしてしまったのでした。三人は横浜の墓地に埋葬され、生後2-3ヶ月だった遺児はヘボン博士が引き取って育てたそうです。このことについてタムソン宣教師はこう書いています。「私たちが、ここで自分たちは最も必要とされていると考えていても、我こそが神の僕であると主張することに慣れている私たちを、神は必要としないのだとお教えになっているのかも知れません。」外国人としては、事故を起こした日本人の責任者を責めたくもなりますが、彼はそういうことは一切書いていません。亡くなられたコーンズ宣教師は、若く有能な宣教師であったようです。でも神は、人の目に必要と思われるような能力を持つ者を用いるお方ではないのかもしれない。そう書いている訳です。悲劇的な出来事であっても、それを神の視点から見ようとする、タムソン宣教師の姿勢や信仰からは教えられるものがあります。


 宣教の働きが軌道に乗ってからも、タムソン宣教師には苦労が絶えませんでした。1873年11月4日の手紙からは、来日後10年ほどの間、日本での住居に関して非常に忍耐を強いられていた様子を伺うことができます(130-32頁)。また日本語が非常に堪能であったので、在日アメリカ公使館付き通訳官の依頼を受けられたことがありました。タムソン宣教師は通訳官の仕事によって得られる給与を全額宣教団体と奉仕教会に支払うことを条件に、宣教師会議や本国の海外宣教局に許可を依頼するのですが、本国からは、なかなかその許可が降りないという経験もされています(154-161頁)。この書簡集に収められている手紙からは、タムソン宣教師が経験していたご苦労が偲ばれる内容が多いのですが、他方、そのような苦労が続く中にあっても、東京での彼の宣教活動や教会形成が着実に進んでいた様子を手紙の端々からも伺い知ることができます。


 ところで、この書簡集からは、キリシタン禁教の高札が撤去されるようになった政治的プロセスにおいて、当時来日していたプロテスタント宣教師たちも、一定の役割を果たしていたことがわかります。書簡集の第一部(第一次横浜時代)の手紙には、幕末のキリシタン迫害に度々言及されています。それはプロテスタント宣教師にたちにとっても他人事ではなかったからでしょう。日本キリスト教史の教科書的な本では1868年の「浦上四番崩れ」と呼ばれる長崎県浦上村のキリシタン迫害のことがごく簡単に触れられていると思います。この時3000人以上もの隠れキリシタンが配流にあい、600人以上が殉教の死を遂げたとされます。ただこの書簡集の1871年5月10日付けの手紙を読むと、タムソン宣教師が和歌山県を訪問した際に、この県の行政官からお雇い教師としての招きを受けたようなのですが、その用件と併せて当時和歌山県の400-500人ものキリシタンたちが牢に繋がれていたと証言されています(96頁)。あるいは一般に認知されている以上に多くのキリシタンが幕末から明治初期にかけて、長崎などから全国各地に配流されていたのかもしれません。このキリシタン迫害のことを憂慮したタムソン宣教師は、今後の日本での宣教のために、キリシタン禁令の高札を撤去することがどうしても必要であると強く感じるようになりました。それで自身を派遣していた米国長老教会を通じて、アメリカ合衆国政府に働きかけるように1971年6月17日付けの手紙で依頼しています(99-102頁)。日本でキリシタン禁令の高札が撤去されるようになったのは、このような初期のプロテスタント宣教師たちの努力によっている面もあったのかもしれません。


 タムソン宣教師が日本のプロテスタント・キリスト教の歴史に残した足跡は多岐に渡りますが、その一つは、この方が、旧約聖書の日本語訳の基礎を据えた方であったということです。開国と共に日本にやってきた海外からの宣教師には優れた語学の才能の持ち主が少なくなかったようですが、それでも他の宣教師たちで旧約聖書の翻訳に取り組むことのできた方はほとんどおられなかったようです(122-23頁)。現在私たちが使っている日本語訳旧約聖書は、タムソン宣教師の開拓的な努力によってその基礎が据えられたと言っても過言ではないのでしょう。


 またタムソン宣教師は、初期の日本プロテスタント・キリスト教史の中では、公会主義の側に立っていた人物です(125-29頁)。彼が東京で開拓し、後に新栄教会となる教会は、当初「東京公会」と呼ばれていました。新しい宣教地である日本での教会形成に教派主義的な弊害が持ち込まれないようにと願っておられたのでしょう。そういう意味では、彼は幾分理想主義的な方であったのかもしれません。公会主義の流れは、後に日本基督一致教会、さらには旧日本基督教会となっていきます。この書簡集の中に収められている手紙の中で、一番長い手紙は、1874年1月20日付けの手紙です。これは日本基督一致教会に、アメリカ長老教会の主導で、中会を組織することに反対する手紙でした。タムソン宣教師が懸念していたのは、宣教地である日本の教会が主体的に決定すべきことを、海外の宣教師派遣母体が決定してしまうことへの危惧であったようです(136-147頁)。日本人のキリスト者たちが、教会の組織の問題を自分たちで考え、自ら判断と決断によって教会の歩みを決定していくということが、日本の教会の成長のためにいかに重要であるかを知っておられたのでしょう。


 とはいえ、この書簡集から、明治期の日本のプロテスタント教会が、いかに海外のキリスト者の支援によって支えられ、育てられていたかを改めて知らされます。例えば、タムソン宣教師によって開拓された東京公会の最初の会堂建設の費用の約7割は、在日の外国人キリスト者の献金によっていたのだそうです。また日本の女子教育の黎明期に、タムソン宣教師の周囲におられた婦人宣教師たちの努力があったことも見逃すことはできません。東京の女子学院の母体の一つとなったB六番女学校は、ケイト・ヤングマン婦人宣教師とタムソン宣教師の妻の働きによって始められたのだそうです(163-65頁)。当初はカロザース宣教師の妻ジュリアの始めたA六番女学校と協力関係にあったようですが、両者の対立のために、二つは別の学校となり、A六番女学校は原女学校、B六番女学校は新栄女学校となりました。しかし1878年には、原女学校と新栄女学校は合併します。女子学院のもう一つの母体である桜井女学校も、東京公会の女性信徒によって始められていました(172頁)。1890年に、この三つの女学校が合同して現在の女子学院となります。ですから女子学院は、東京公会・新栄教会の働きと深い関係があり、特にタムソン宣教師と関わりの深かった婦人宣教師たちの働きによって形成されていたことが、この書簡集から読み取ることができます。


 『タムソン書簡集』の最後の手紙は1911年6月13日付けです。この手紙には、タムソン宣教師が関わっていた東京でのいくつかの新しい伝道所の働きが紹介されています。さらには、日本での宣教活動にスライドを用いることが効果的であるとも記されていました(362-68頁)。あるいは編集者は意識的にここで書簡集を閉じることにされたのかもしれません。タムソン宣教師はその後、1915年10月29日に80歳で召されるまで、日本での働きを続けられました。タムソン夫人は1927年5月27日に87歳で召されています。二人共、日本で地上の生涯を全うし、染井霊園外人墓地に埋葬されました。ですから1911年6月13日付けの手紙の後にも、タムソン宣教師は本国の宣教団体宛に手紙を書いていたことでしょう。


 けれども『タムソン書簡集』のこのような結ばれ方は、新約聖書の使徒言行録の終わりを彷彿とさせるものがあります。使徒パウロは晩年に裁判のためにローマ兵に護送されて古代ローマ帝国の首都にまでやってくる訳ですが、そこでもパウロは自由な時間を使ってローマにあるユダヤ人会堂の代表者たちと面会し、彼らにキリストの福音を語っていたのでした。使徒パウロと同じように、タムソン宣教師(あるいは本書の編集者)は、地上において福音宣教の使命は終わりのない働きであり、時が良くても悪くても継続されなければならない営みであることを意識しておられたのではないでしょうか。

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