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ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』(第5巻)西永良成訳、平凡社、2020年


 『レ・ミゼラブル』の第五巻は、1832年の6月暴動におけるバリケード戦で負傷したマリユスの命をジャン・バルジャンが救い、怪我から回復したマリユスがコゼットと結ばれ、幸福となった二人を見届けた後で、ジャン・ヴァルジャンが死を迎えるという物語です。


 第五巻の冒頭では、共和主義者の指導者アンジョルラスが、ルソーの社会契約論の理念に基づく革命思想をバリケード戦に参加する暴徒たちに訴えて、戦闘意欲を鼓舞する場面から始まります(48頁)。しかしアンジョルラスやマリユスたちのいたバリケードは政府軍によって突破され、共和主義者たちは次々と銃弾と銃剣に倒れて行きました。そんな流血の舞台となったバリケードの裏に、ジャン・ヴァルジャンも入り込んでいました。そして暴徒たちを偵察する政府のスパイとしてバリケード裏に入って捕まったジャヴェール警部を、ジャン・ヴァルジャンは逃がすことによって彼の命を助けます。さらに重傷を負ったマリユスを背負って、バリケードから地下下水道に降り、複雑に張り巡らされた下水道網を通ってから地上界に戻り、マリユスの命を救うのでした。


 『レ・ミゼラブル』という小説は、第一・二巻のスピーディーな展開に比べると、第三-五巻には、度々著者自身のモノローグが挿入されていて、ストーリー自体の長さというよりは、この作者のモノローグが長いために分量が多くなっています。第五巻の場合、この巻が必要以上に長くなった理由は、ジャン・バルジャンが地下の下水道を通って行く場面にリアリティーを持たせるためでした。パリの下水道は19世紀に度重なる拡張工事がなされているのですが、人の目につかない地下の都市構造物がどのように形成され、それぞれの時代の下水道の建造物にはどのような特徴があったのかを、ユゴーは詳細に研究した上で、ジャン・ヴァルジャンによるマリユス救出の場面を描いたようです。リアリズムを追求するために行った研究の成果の一端を、ユゴーはどうしても小説の中で紹介したかったのではないでしょうか。ですからジャン・ヴァルジャンが下水道から地上の世界に戻るまでの長い描写は非常にリアルで迫真性があります。


 驚くべきことに、下水道の出口の鉄格子の鍵を開けて、ジャン・ヴァルジャンをもとの世界に戻してくれたのが、極悪人のテナルディエだったのでした。彼は、ジャン・ヴァルジャンがその時持ち合わせていた現金30フランと引き換えに手助けしてくれました。ただそれは下水道の外にジャヴェール警部が見張っていることを察知した上での援助であって、ジャン・ヴァルジャンをジャヴェールに逮捕させようとしたのでした。しかし善意ではなかったとはいえ、マリユスは結果的にテナルディエの娘エポニーヌに命を救われ、そしてテナルディエにも助けられてしまったのでした。


 マリユスを背負って下水道から出てきたジャン・ヴァルジャンを、ジャヴェール警部が待ち受けていました。ところがさらに驚くべきことに、ジャヴェールはジャン・ヴァルジャンを逮捕せずに見逃すのでした。バリケードの内側で捕えられていた時に、ジャン・ヴァルジャンが逃してくれたからです。しかしジャン・ヴァルジャンを行かせた後で、ジャヴェールは自死を選びます。その理由は、国家の法を執行する義務と彼の良心との板挟みに耐えられなかったからだと説明されています。それで彼はセーヌ川に身を投じる道を選んだのでした。ただ正直に言えば、ジャヴェールの自死は、この物語の中で一番不自然に感じられる場面ではあります。


 ジャヴェールに放免されたジャン・ヴァルジャンは、瀕死のマリユスを、祖父のジルノルマン氏の邸宅に運んでゆきました。幸いマリユスはそこで医師の治療を受けて命拾いしました。そして回復しつつあるマリユスをコゼットは足繁く訪問するようになります。マリユスは、コゼットとの身分の違う結婚の希望を、祖父のジルノルマン氏に伝えることを躊躇っていました。祖父は決して許してはくれまいと考えていたからです。しかし実際にはその反対でした。マリユスが願いを伝えると、祖父は美しい乙女に成長していたコゼットとの結婚を許すだけではなく、大いに祝福してくれたのでした。


 二人はパリ有数のカトリック教会で結婚式を行い、婚礼の祝宴が行われ、上機嫌のジルノルマン氏が結婚について滔々と弁舌を奮い、小説は愈々大団円を迎えることになります。ただここから先の展開は、まだ小説を読まれていない方のためにあえて記さないでおきましょう。すでにお読みになった方はご存じだと思いますが、第五巻には、この長い物語を最後まで読み通した忍耐強い読者の努力が報われるような、あっと驚く仕掛けが用意されているからです。そして第五巻の最終章は、文字通り涙無くしては読むことができない深い感動をも誘う結末となっていました。


 これ迄七月と九月の二回に亘って『レ・ミゼラブル』について書いて来ましたが、三回目の今回は、第五巻について一つのことを指摘したいと思います。第五巻を読むと、これは19世紀の近代フランスにおける世俗化された聖人伝であったと言うこともわかります。なぜなら結末近くでマリユスは、ジャン・ヴァルジャンを聖人(452頁)と呼んだり、徒刑囚がキリストのようになったと考えたり(460頁)、殉教者と表現したりする(472頁)箇所があるからです。プロテスタントは、新約聖書に基づいて、キリストを信じる者全てが聖徒とされていると信じます。ですからプロテスタントは信徒の中に、一般信徒よりも高い聖性を持った階級を認める訳ではありません。そこにプロテスタント信仰とカトリックの違いの一つがあると思います。


 他方カトリック教会の伝統においては列聖という制度があります。立派な信仰者として生涯を全うし、多くの慈善行為と共に生前に奇跡を行った証拠が認められる人物を、カトリック教会が死後に聖人として認定する制度です。ユゴーは、そのようなカトリック教会の聖人崇敬の伝統を下敷きにして、ジャン・ヴァルジャンを、「無限を主人公とする劇」の聖人として描いているのでしょう。


 カトリックの信仰において、この世で犯された罪の贖罪は、イエス・キリストの贖いのみ業と共に、信徒自身の地上における善行によって補わなければならない面があるとされるようです。そのためカトリック信徒は、最低年一度は司祭に告解を行い、償罪のための善行の指示を司祭から受けて、それを実行しなければなりません。ただそのように忠実に悔悛の秘蹟に預かっている信徒であっても、死後には、さらに煉獄の火によって浄化された後でなければ天国に行くことはできないとされているのではないでしょうか。しかし聖人は、地上の生涯において行った優れた善行の故に地上において償罪は完了しており、死後直ちに天国に迎えられるとされます。


 そして『レ・ミゼラブル』の中で、ジャン・ヴァルジャンは、そのように死後直ちに天国に迎え入れられた人物として描かれているようなのです。なぜなら彼は最後の悔悛である終油の秘蹟を受けてはいませんでした。しかも臨終の床において、すでに亡くなって天国にいたと思われるミリエル司教が、霊的に彼の臨終に立ちあっているかのように描かれているからです(474頁)。かつてミリエル司教は、ジャン・ヴァルジャンが司教館の銀食器を盗んで警察に捕まり、罪状の確認のために司教館に連れて来られた時、ジャン・ヴァルジャンが再び服役させられることのないように、銀食器は彼に差し上げたものだと証言して機転を効かせてくれた憐れみ深い人物でした。そのミリエル司教が立ち会う中で、ジャン・ヴァルジャンは死を迎え、天国に旅立って行くことになるのでした。そういう点から見て、『レ・ミゼラブル』は、カトリック信仰の救済論の影響を受けた小説だといえるのでしょう。また古代以来の聖人伝というジャンルを近代社会の文脈において再構築した小説でもあります。


 プロテスタント教会も、勿論信徒が良い業に励むことを奨励します。ただし、それは決して償罪のためではありません。神の前に人の罪の償いがなされるのは、ただイエス・キリストの十字架による贖いのみであると信じます。仮に人間が、自分の罪を償うために良い行いを積み重ねたとしても、そのような行いが、聖なる神の前に罪の償いとして受け入れられることはないと信じるからです。神の聖性はそれほどまで完全かつ純粋であり、これに対して人間の行いはそれほど不完全で不純であると理解するからです。


 とはいえプロテスタント信仰に立つ者であっても、『レ・ミゼラブル』を通読して終章に到達すれば、必ず感慨と共に感動を覚えることでしょう。ジャン・ヴァルジャンという、かつて貧しい少年だった人物が、苦難と波乱に満ちた人生の最後に、孤児であった女性に幸福な結婚をプレゼントした後で、その臨終の場面で語った言葉を読むと、これまで五巻に及ぶ物語の中で綴られてきた彼の苦節の人生の様々な場面が、走馬灯の様に想い起こされてきます。信仰の伝統に違いはあれ、またユゴーは正統的カトリック信仰を受け入れていた訳ではなかったにせよ、彼はジャン・ヴァルジャンを、イエス・キリストに倣って、他者のために生きた人物として描きました。そういうジャン・ヴァルジャンという架空の人物に共感を覚えない人は少ないと思います。

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