ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』(第3-4巻)西永良成訳、平凡社、2020年


『レ・ミゼラブル』の作者であるヴィクトール・ユゴーの葬儀は1885年にフランス共和国の国葬として執り行われたそうです。それはユゴーの思想と生涯が、19世紀のフランスという国を体現する面があったからでしょう。彼はボナパルト主義者の父親と王党派の母親の間に生まれました。フランス革命に関して二つの対立する流れがユゴーの中で一つに結ばれていたのでした。彼自身は共和主義者となりました。そしてナポレオン3世の政策に反対して19年間亡命生活を強いられながら、権力に屈することなく言論の自由を貫いた気骨の人でもありました。確かにユゴーの死を当時の国民全体で悼むことはふさわしいことだったのではないでしょうか。


 ユゴーという作家がこの小説で描こうとしたのは「無限(非人格的な神)を主人公とする劇」でした。このユゴーの言葉は、ヘーゲルの歴史哲学の言い換えのように感じられます。フランス革命とナポレオンによる欧州制覇に衝撃を受けて、ヘーゲルはこう考えるようになりました。世界の歴史とは、絶対精神(これも広義の理神論的な神と言えるのではないでしょうか)が自己を具現化する過程であり、世界の歴史は人間の自由の向上へと進歩している。彼は、大革命後に繰り広げられた凄惨なテロルの連鎖にもかかわらず、革命後のフランスと欧州の歴史は、全体として自由に向けて進歩しているのであり、守旧派の反動は無益であると考えたのでしょう。ユゴーが『レ・ミゼラブル』で試みたのは、そのようなヘーゲルの思想を、19世紀パリの底辺で生きた人々の群像に具現化させることであったと思います。


 第三巻の主人公はマリユスです。マリユスとはユゴーの分身です。なぜならマリユスの母も王党派であり、父はナポレオンに仕えた軍人であったという設定になっているからです。母親が若くして亡くなったために、マリユスは王党派の祖父に育てられます。ところがある時、青年マリユスのもとに父が危篤であるとの知らせが届けられました。駆けつけた時には父は既に亡くなっていました。しかしマリユスは父の生き様を知って、祖父の家を出ることにします。パリで極貧の生活に耐えながら、学業を修め、知識人として生活するようになりました。


 マリユスは革命運動を志す若者たちのグループに加わる一方、リュクサンブール公園で出会ったコゼットを見染め、その父親とおぼしき人物にも興味を持つようになります。そんな頃、偶然出会ってしまったテナルディエ一家が、コゼットの父親らしき人、すなわちジャン・ヴァルジャンの正体を暴くために悪漢たちと共謀していることに気づき、警察に通報するのですが、なんとそこで通報した相手がジャヴェール警部だったのでした。貧しいテナルディエ一家に施しをしようと善意で訪れたジャン・ヴァルジャンに、テナルディエと悪漢たちは暴行を加えます。そこにジャヴェール率いる警察官たちが乱入するのですが、騒ぎの渦中、ジャン・ヴァルジャンは忽然と姿を眩ますのでした。


 第四巻では、1830年の7月革命後のフランスが物語られます。ウィーン体制によってフランスでは一時ブルボン王朝が復活しますが、7月革命によって王朝は断絶し、ブルジョアジーの利害を代弁したオルレアン公ルイ・フィリップが王位に就きます。しかし急進派は7月王政に不満を抱いていました。1832年6月、ナポレオンに仕えていたジャン・マクシミリアン・ラマルク将軍の葬儀をきっかけに、共和主義者たちによるパリ市街の暴動が発生します。暴動は政府軍によって鎮圧されてしまいますが、この6月暴動の反省に立って共和派が戦術を練り直したことによって、1848年の2月革命が成功したのだそうです。6月暴動はフランスの歴史に痕跡を残す出来事でした。


 この時、パリの幾つもの通りではバリケードが築かれ、3000人の反体制運動家たちと政府軍との熾烈な戦闘が繰り広げられることになります。そんな動乱の日々にありながら、マリユスはコゼットとの恋を実らせて行きました。一つのエピック・ドラマの中に、ロマンスがあり、サスペンスもある。このような構成は、たとえばロシア革命を背景にした映画『ドクトル・ジバゴ』や『レッズ』のような、革命とロマンスの交錯するドラマによって模倣されているような気がします。


 一方、ジャン・ヴァルジャンに暴行を加えた後、逮捕されたテナルディエとその仲間たちは一度投獄されるのですが、脱獄に成功します。このテナルディエ一味の脱獄エピソードの後で、ユゴーは長い弁論を挿入し、彼の歴史観と言語観を開示します。その歴史観とは、政治史家によって無視されてきた民衆の歴史、「悲惨な人々(レ・ミゼラブル)」の営みの中に、実は歴史を理解する手がかりが秘められているという思想(275頁)です。そして民衆の歴史とは、世界史の全体の中で、一個人における心や魂の存在のようであり、それはまた言語が隠喩として機能することにも類比を見出すことができます(277-91頁)。言語は、常に表向きの意味と同時に隠された意味を帯びます。そのような言語の特質は、人間の歴史の基底が「悲惨な人々(レ・ミゼラブル)」によって形成されるという現実と不可分の関係に在る。ユゴーはそう考えているのでしょう。このようなユゴーの歴史観・言語観は、この大河小説の執筆動機であったのではないでしょうか。だから第四巻で、ユゴーは「悲惨な人々」が使用する豊かな隠喩の世界を描写したのでしょう。


 ユゴーは知識人でありながら、パリの下層階級の話し言葉をこの小説の中で再現しているのだと思います。そこには上からの視線という限界はあるものの、フランス革命の理念である「自由、平等、友愛」を、階級を超えて実現しようとする熱意が感じられます。そう考えると、ユゴーという人は、テナルディエという人物さえもが、ジャン・ヴァルジャンやコゼットらと共に「悲惨な人々」の一部であることを示そうとしたのかもしれません。彼らのように無知と貧困に苦しむ人々にも教育を施すことによって、より自由で平等な社会が形成される事を願っていたのではないかと思います。


 ユゴーの「悲惨な人々」への共感は、この第三・四巻に登場する、テナルディエの娘、エポニーヌという女性によって表現されているかもしれません。彼女は、マリユスがコゼットに思いを寄せていることを知りながら、マリユスへの愛のゆえに、コゼットの住所をマリユスに教えます。一方、マリユスとコゼットが本当に結ばれてしまうことを恐れて、エポニーヌはジャン・バルジャンに「引っ越せ」との警告を発し、住まいが警察に狙われているかのような懸念を抱かせて、彼らをパリから遠くへ引き離そうとするのでした。そして6月暴動の市街戦が始まった時、マリユスはサン・ドニ通りにバリケードを築いた共和主義者たちの側に身を投じ、仲間を守るために二人の政府軍兵士を銃で撃ち倒すのですが、その時マリユスを狙っていた銃口を素手で塞ぎ、自分の掌を犠牲にしてマリユスの命を守ろうとしたのがエポニーヌでした。このバリケード戦の最中エポニーヌは命を落としますが、最後はマリユスの腕の中で息絶えるのでした。極悪人の父親を持ちながら、マリユスへの真実の愛を貫いたエポニーヌという女性も、美しい心の持ち主であり、ユゴーが共感を寄せる「悲惨な人々」の一人でした。


 7月にこのコーナーで『レ・ミゼラブル』第一・二巻を取り上げたとき、ユゴーの思想は理神論的ヒューマニズムであって、正統的キリスト教ではないと書きました。では現代のキリスト者は、ユゴーの思想や彼の提案にどう向き合うべきなのでしょうか。個人的には、少なくとも現在は、これを一定程度支持すべきではないかと思います。確かにユゴーが洞察したように社会の問題の多くは無知と貧困によって生じている面があります。無論、国民の幅広い層に教育を提供したからとって無知と貧困が撲滅される訳ではありません。でも私たちの国が現在のような社会を実現できるようになった要因の一つは、この国が比較的優れた近代教育システムを構築したからではないでしょうか。良い教育を幅広く、貧しい人々にも提供する努力を続けることは、より良い社会の構築のために依然として必要なことだと思います。


 最近は、理神論的ヒューマニズムの対抗軸として浮上しつつある暗黒啓蒙という背筋の寒くなるような思想の動きがあります。これは21世紀のニーチェとも言われるニック・ランドという人が提唱し、アメリカのトランプ政権を支えた思想の一部でもあったのだそうです。暗黒啓蒙の人々が攻撃している思想には、ユゴーがこの物語の中で表現しようとした近代思想も含まれると思います。19世紀の思想が同じ形で21世紀にも存続すべきであるとは思いませんが、暗黒啓蒙に基づく社会政策と理神論的ヒューマニズムに基づく社会政策のどちらを選ぶべきかと問われれば、私は理神論的ヒューマニズムの社会政策の方を選びます。


 そしてユゴーの思想は、現代の日本人にとっても依然として意味があると思います。19世紀のフランス人であったユゴーの取り組んだ課題は、フランスの階級社会を克服することでした。21世紀の我々が直面しているのはもっと難しい問題です。現代の開かれた社会は、人種や民族を超えて自由と平等を目指す社会を構築できるのか、あるいは構築しようとする意思があるのか、という問いが、我々には突きつけられているからです。ユゴーが21世紀に生きていたならば、それは何としても実現しなければならないと答えることでしょう。では21世紀の日本人は、この難しい問題にどう答えるのでしょうか。この国では現代の奴隷制とも呼ばれる外国人技能実習制度が放置され、外国人労働者に対する人権の侵害が黙認されている面があるのではないでしょうか。低賃金の外国人労働者によってこの国の経済が支えられ、我々はその恩恵を受けていながら、彼らに対する抑圧に対しては見ぬふりをしてしまっている面があるかもしれません。戦後の民主憲法で日本国民に保障されている権利を、外国人にも広げる寛容さを現代の日本人は持っているでしょうか。そのようなことが我々に問われているように思います。この国に存在する抑圧や不平等に対して関心を高めるためにも、かつて『レ・ミゼラブル』を通してユゴーが訴えたメッセージに、これからも日本人が傾聴し続ける意味はあるように思います。