ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』(第一巻・第二巻)西永良成訳、平凡社、2019-20年


 毎週二回、高齢の母の様子を見るために、取手の住居と実家を往復しているのですが、その時、自分の仕事や研究などのために、本や辞書類を持ち歩いています。それでバックパックを背負い、トートバックを持ち、キャスター付きのケースを転がしながら移動します。そういう大荷物で、二回ほど町中華に入り、二回ともタンメンを注文したことがあります。店の人は迷惑と感じて不快感を示したのでしょうか。明らかに通常お店で出しているタンメンとは違う味の、人工的な中華スープの素だけでスープをとったとしか思えない、まずいタンメンを二回とも出されました。そういうことが二回もあったものですから、その後大荷物三点セットで町中華に入ることはしないように気をつけています。


 変わり者であることを棚にあげて言うのもおかしいかもしれませんが、それでも食堂がこういう待遇をするのは差別であると思います。タンメンのために同じ値段を払っているのですから、同じ品質のものを出して欲しいと感じます。別に営業を妨害したわけではありませんでした。他のお客様のスペースは取らないように気をつけて入店し、着席しました。見た目に鬱陶しいと言う理由で、こういう対応をされたのかもしれません。


『レ・ミゼラブル』の第二巻で、フォンティーンの娘コゼットが、テナルディエという意地の悪い夫婦の旅籠でお手伝いをさせられている様子が描かれている箇所を読みながら、私は、最近、自分が町中華でタンメンを注文した時のことを思い出したのでした(差別や搾取の程度は違いすぎますが)。テナルディエの主人は、ワーテルローの敗戦直後、戦死者の遺品を盗む窃盗犯としてこの小説に登場します。ワーテルローの戦いは、フランスの歴史のみならず、世界の歴史に重大な影響を及ぼしたはずの出来事です。祖国フランスを真に愛する者であれば、ナポレオンが敗北を喫し、フランス軍兵士が大量に虐殺されたこの神聖なる戦場で、敵味方構わず死体を漁るなどという卑劣で醜悪なことは決してできないはずですが、しかしテナルディエにはそんなことなどお構いなしでした。著者のユゴーは、テナルディエと言う男の醜さを描くために、また物語の背景となる時代を読者に印象付けるために、この場面を描いたのだと思います。


 そういう悪徳商売人の経営する宿屋に、薄幸の女性フォンティーンの死後、孤児となったコゼットは引き取られてしまいました。そこに突然ジャン・ヴァルジャンとおぼしき男性がやってきます。テナルディエ夫婦は、彼の粗末な身なりを見て、最初空き部屋はないと断ります。しかし男性は家畜小屋でも良いから泊めてくれと頼みました。夫婦は渋々引き受けるのですが、実はこの男性が外見に相違して、大金を持っていることを知ると、手のひらを返したように最上の部屋に案内し、翌朝には男から法外な宿泊料を請求するのでした。


 こういう商売の仕方は、前近代の社会では当たり前だったのでしょうし、そういう状況が改善され、法の下の平等の原則が、このような宿泊業にも適用されるようになるのは、比較的最近のことなのだと思います。(日本人が外見にかなり気を遣うのも、日本の社会が外見によって対応を変える傾向があるからだと思います)そして、このような不公正な商行為が規制されるようになるのは、19世紀のリベラル派や左派の人々の社会改革の努力に負っていたのではないでしょうか。現在ホテルや宿泊施設に泊まる時、使用する部屋の料金は予め決まっており、宿泊者の職業や身分や人種によって差別してはいけないことになっています。そう言うルールは、我々は当たり前のことだと思っていますが、しかし19世紀のフランスではそうではなかったのでした。


 ユゴーは、小説の冒頭で、なぜこのような小説を世に問うたのか、その理由を説明します。それは貧困や格差の是正を目的としていました。そのような社会的な問題の啓発のために、ユゴーは、ジャン・ヴァルジャン、フォンティーン、そしてコゼットと言う架空の人物を作り上げました。この三人は、社会の底辺の人々であり、人々から軽侮の対象となるような人々でした。けれども、ユゴーは、逆境にあっても必死で生きようとするこの三人に対して、読者が共感を持つことができるように巧みなストーリーを練り上げたのです。無産市民たちが、この大河ドラマのヒーローとして描かれるということ自体に、ユゴーの小説の革新性が示されているのではないでしょうか。


 この小説の主人公は言うまでもなく、ジャン・ヴァルジャンです。彼は少年時代に、今日食べるパンにことかくような極度の貧困の中でパンを盗んでしまったために19年間徒刑囚となります。出獄しても、社会復帰は容易ではありませんでした。泊まる場所さえ見つからなかった彼を、カトリックの司教が司教館に泊めてくれたのでした。ところが彼はその司教の銀食器を盗んで逃亡を試みるのですが、警察に捕まってしまいます。しかし驚くべきことに司教は機転をきかせて、それは彼にあげたものだと言います。この司教の知恵によって、ジャン・ヴァルジャンは更生の道を歩み始めました。改めて紹介するまでもない、余りにも有名なエピソードです。


 もう一人の主人公フォンティーンは、パリでうら若き日に、一人の男性と不実な関係を持って妊娠してしまったために、女工の身分を失い、公娼に身をもち崩してしまいました。ミューズィカル『レ・ミゼラブル』の中でフォンティーンが歌う「夢破れて(I dreamed a dream)」は、そのような彼女の被った悲劇から湧きあがった叫びとして歌われたものでした。妊娠させてしまった無責任な男は何の咎めもなく、生まれた娘コゼットを育てるために、フォンティーンは一人血の滲むような労苦を強いられ、薄命の死に終わります。


 こうしてみると『レ・ミゼラブル』と言う小説は、とても現代的であると思います。この小説が現代的であるということは、実は非常に残念なことです。19世紀以来、社会を改善しようとしてなされてきた努力にもかかわらず、20世紀後半米国発の新自由主義的な思想や政策によって、強欲を許容する経済思想が世界に浸透してしまった結果、社会的不公正は再び世界に、そして日本に拡大しているように思われます。


 ところで今回取り上げた第一巻と第二巻は、教会で始まり修道院で終わるという構成になっています。第一巻は、ジャン・ヴァルジャンが司教館に泊めてもらう場面から始まります。第二巻では、テナルディエ夫婦に酷使されていたコゼットを、ジャンヴァルジャンが救出し、執念深い警部ジャヴェールにパリの街で追跡を受けていたところ、プチ・ピクピュス修道院に逃げ込み、間一髪のところで助かります。


 教会に始まり、修道院に終わる。しかもいずれのケースも、ジャン・ヴァルジャンは命拾いをして逮捕を免れているのですから、ユゴーは、カトリック信徒であるかのように思われるかもしれません。けれどもこの小説は出版されると間もなくカトリック教会によって禁書に指定されました。確かに注意深く読めば、ユゴーは正統的なカトリック信徒ではなかったことがわかります。彼は、神を人格的な存在とは考えていないようで、「無限」と表現します。また人が神の形に創造されたとする旧約聖書(創世記1:26-27)の教えも、「人間とは第二の無限」であり、「第一の無限の鏡」という表現にすり替えています(第二巻、345頁)。さらにユゴーは、この小説を「無限を主人公とする劇である」と規定します(第二巻、334頁)。ジャン・ヴァルジャンやフォンティーンやコゼットのような人々も、無限である神の鏡であり、無限に由来する尊厳を持った存在であり、また無限なる存在の不思議な加護の下にある。その様な思想を、ユゴーはこの小説で表現しようとしたのではないでしょうか。このユゴーの思想は正統的キリスト教信仰とは異なります。それはどちらかというと理神論的な思想と言えるのではないでしょうか。人間の中に、神に由来する尊厳を認めるヒューマニズムと言い換えることもできるかもしれません。


 小説を読んでいる間、私は、ユゴーの描く主人公たちに共感を覚えます。それは否定できないのですが、この世界に描かれている人間の姿は、聖書が教える人間観と、似ているようでいて、実は異なっていると思います。ユゴーは、ジャン・ヴァルジャンやフォンティーンの方が、ジャヴェール警部やテナルディエ夫婦よりも、優れた、正しい人々であるかのように描こうとしたのでしょう。でも聖書の視点に立つなら、それはフィクションの世界でのみ成立する物語に過ぎません。私も確かにジャン・ヴァルジャンやフォンティーンやコゼットを心から応援したくなります。ただ同時に、使徒パウロの言葉(「義人はいない。一人もいない」新約聖書ローマ人への手紙3:10)によって、聖書の語る現実に引き戻されるような気もするのです。私はジャヴェール警部の執拗さとテナルディエ夫婦の醜悪さを心から嫌悪します。ただジャン・ヴァルジャンもフォンティーンもジェヴェールもテナルディエも、皆、それぞれに神の形としての良心を心に保ちながら、その精神の根底においては皆堕落した罪深い存在である。全ての人の心には、仮にそれがごく微小な一部に過ぎないとしても、追い詰められて犯罪に手を染めてしまう弱いジャン・ヴァルジャンがおり、過酷な境遇に生きる他者の現実は無視してその不正ばかりを追求する不寛容なジャヴェールもおり、弱者から搾取した金で美味いものを食べて平然としているテナルディエ夫婦もいる。それが聖書の教える人間の現実の姿であるのだと思います。