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ルソー『エミール』(上・中)岩波文庫、1962年



 今回はジャン=ジャック・ルソーの『エミール』(上・中)を紹介します。ルソーは、『社会契約論』によって、フランス革命に理論的支柱を与えた啓蒙思想家です。スイス、ジュネーブ出身の人物であったのですが、家族の不幸のために不遇の少年・青年時代を過ごし、徒弟奉公の身でありながら脱走し、カトリック司祭に出会って助けられ、ヴァランス夫人という貴族の女性の世話を受けてカトリック教徒に改宗します。紆余曲折の後、夫人の保護のもとで生活しながら、独学で哲学、幾何学、ラテン語などを習得しました。その後家庭教師などを務めてからパリのアカデミズムと接点を持つようになり、1750年代から著作を発表します。1753年には『人間不平等起源論』、1761年には小説『新エロイーズ』、1762年には『社会契約論』と本書『エミール』が公にされています。ルソーは高等教育を全く受けていなかったにも拘らず、天才的な才能に恵まれた思想家でした。ただ幼少期の過酷な境遇のゆえに悲劇的な生涯を送った人物でもあります。


『エミール』は教育学の古典として知られている本ですが、孤児であるとされるエミールという子供に対して、自分への服従を条件に、ルソーが彼の教育を引き受けるという想定のもとで書かれたフィクションです。言ってみればルソーは空想の上で、一人の子供の教育実験とその報告をおこなっているというわけです。エミールが孤児であるというのは、家庭の不幸に見舞われ過酷な少年時代を過ごした自分自身とエミールを重ね合わせているからなのでしょう。架空の孤児に教育を施す思想実験を行うということは、つまり彼自身の生い立ちから成長のプロセスを辿り直し、自分がこのような教育を受けることができていればよかったのではないかと考えられる事柄を列挙していく形で、この書物が書かれたのではないかと思います。どうすれば、より良く子供を教育することができるのか、ということを真剣に探求しているという意味では、この本においてルソーが展開した思索にはただ敬服させられます。実際にエミールとルソーが芝居の脚本のように会話を交わす場面は、ごく数えるほどしか描かれてはいないのですが、全く空想の世界での教育を、これほどまで入念に緻密に論じ切ることができるという、その精神力と筆力には驚かされるばかりです。


 この本を読むと、ルソーがホッブスの『リヴァイアサン』から影響を受けていることは明らかです。『社会契約論』の出版と同時期になされているので、ホッブスが彼の人間論に基づいて独自の政治理論を構築しようとしたことに触発されて、ルソーも彼の政治理論に基礎を与えるような人間論的著作を書こうとしたようにも思われます。ただルソーとホッブスとの間には、その思索の前提、特に神学的な前提に関して重要な違いがあります。ホッブスは唯物論者であるとされますが、しかし神学の方法論的前提として、聖書を神の啓示として受け入れ、その権威を一応は認める立場を維持してはいました。ホッブスは歴史的信仰告白に表明された信仰箇条を全て受け入れていたとは思えませんが、それでも彼の神学的な方法は正統的な神学の枠組みの中に留まろうとしていたように思います。しかしルソーは理神論者であり(中、143頁)、創造主なる神の存在を認めてはいたものの、聖書がその神の啓示であるとはもはや考えていませんし、キリスト教会の教える教理は偽りであると断定していました(中、103頁)。したがってルソーにとって、望ましい人格形成を目指す教育において拠り所とするべきは、創造主なる神がお造りになった自然のみであるということになったのでしょう。そこにルソーの神学的前提の偏りが認められるわけですし、結果的に『エミール』には『リヴァイアサン』と比較するなら聖書の影響が極めて希薄です。


 ルソーは、18世紀フランスに普及していた教育に関する通俗的な理解や習慣を打破するために、この本を書いたとされます。例えばこの本には、乳母という当時の制度の弊害を指摘し、貴族や富裕なブルジョアの女性であっても実の母親が母乳で乳幼児を育てることの重要性が教えられています。こうした提案などは、当時の社会においては驚くべき提案として受け入れられたことでしょう。


『エミール』の影響が現在に至るまで教育に影響を与えている事柄の一つに、子供の発達段階に即した教育を施すということがあるように思います。この本の上巻は、序論の後に三編が続くのですが、第一編は幼児教育の段階について論じており、誕生から5歳頃までが扱われています。続く第二編では初等教育の段階で、5歳から12歳まで、さらに第三編は中等教育の段階で、12歳から15歳までのことについて提案がなされます。中巻の第四編では15-18歳までのことが議論され、恐らくリベラル・アーツ教育に該当するような事柄が意識されているのではないでしょうか。


 初等教育の段階で、ルソーはエミールに、畑に植物を植えさせる経験をさせるのですが、間違えてロベールという人物が既にメロンの種を植えていた場所を、エミールは耕してしまい、そこにそら豆の種を蒔いて、ロベールに迷惑をかけてしまいます。教育者のジャン=ジャックは、エミールに代わって、ロベールに弁償を申し出るのですが、このような失敗を通して、ルソーはエミールが、植物の栽培や生育という自然科学的なテーマを経験しながら、同時に所有権に関する常識や法律を経験的に学習できると語っています(上、144-46頁)。果たして初等教育の段階から、このような法律的な知識を学習させることが適切なのかどうかはわかりませんが、ルソーが理想としていた学習過程とは、このようなものだったのでしょう。それは現代で言えば「総合学習」にあたるのかも知れません。


 一方ルソーは、子供が一つの言語でしか考えられない(上、166頁)と主張しており、初等教育の段階から外国語を学ばせることには消極的です。また子供に寓話を教えても意味がない、子供には生の真実を語らなければならない(上、173頁)とも述べています。母国語・数学・科学の教育とともに、初等教育において美術・体育・音楽の必要性が説かれ、さらには食育も薦められています。ルソーによれば肉食は野蛮な人格を作るのだそうです。


 ルソーの教育理論は消極的教育であるとされていますが、この考え方は、初等教育における懲罰についての彼の考え方の中にも認められます。ルソーは、教師や親が、人為的に子供に懲罰を加えることに反対します(上、125頁)。むしろ子供が自分の行為の自然的な帰結として不利益を被り、それによって自ら学習することを理想としています(上、149頁)。ですからルソーの理想とする教育は、教育者が子供のために多くのことを学習しやすい環境や制度を構築し、その中で子供を一定期間生活させるというものだったのではないでしょうか。


 第三編では、ルソーは、この時期に生徒が何を学ぶのかを自分で選ぶ必要があると指摘します(上、286頁)。12-15歳の時期には、自分の適性は何か、そして自分は将来何をしたいのか、ということについて、生徒一人一人が具体的に考える必要があるということなのでしょう。時期的にまだ早いと感じられる生徒もいるかもしれませんが、しかしそのようなことを考える機会を早くから提供することが大切だということのようです。ルソーは、この段階がエミールの職業選択の重要な段階であると考えているようです。ですから、そのような観点から、この時期に目指すべき教育について、まず事柄に長時間取り組む集中力を育てること。またこの時期の教育においては対話をすることの重要性も指摘されます(上、298頁)。


 さらにルソーは、この時期には子供の良識を育てることが重要であると説きます。特に有用性のあるものが何かを判断できるようにさせる。教えようとすることが何の役に立つのかを、生徒にわからせながら教えることが大切であるということを主張します。この有用性の識別力を育てるということが、ルソーの考える中等教育の段階の重要なテーマであるように思います。なぜなら、このような能力は、ルソーが構想した社会契約に基づく近代市民社会・近代国家の担い手となる市民・国民に求められる資質であるとルソーは考えていたと思われるからです。そのようなルソーの考え方は、次の部分に表れているのではないでしょうか。

 

「わたしたちを取り巻いている全てのものを観察した後で、わたしたちはさらに何をしなければならないか。わたしたちが取り入れることができる全てのものをわたしたちの役に立つように変えること、そしてわたしたちの好奇心を利用して快適な生活に役立てることだ。これまでにわたしたちはあらゆる種類の道具を手に入れたが、どれがわたしたちに必要になるのか知らなかった。あるいは、わたしたちの道具は、わたしたち自身には無用のもので、他人の役に立つのかもしれない。そして、たぶん、わたしたちもまた、他人の道具を必要とするのだろう。そこでわたしたちは皆、そういう交換によって得をすることになるだろう。しかし、交換をするためには、わたしたちはお互いに必要を知らなければならない。各人は他人が持っているもので自分の役に立つものを、そしてその代わりに他人に提供できるものを知らなければならない。十人の人がいて、それぞれの人が十種類の必要を持つとしよう。それぞれの人は自分に必要なものを手に入れるために十種類の仕事をしなければならない。しかし、天分と才能の違いを考えれば、ある人はその仕事のあるものがそれほどうまくできないだろうし、またある人は他の仕事がうまくできないだろう。それぞれが違ったことに向いているのに、みんなが同じ仕事をしては、十分なものが得られないことになる。この十人の人で一つの社会を作るとしよう。そして各人が自分のために、そして他の九人のために、自分に一番適した才能を持っているのと同じことになる。各人は自分の才能を絶えず磨くことによって、それを完全なものにすることになる。そこで、十人とも完全に必要なものを手に入れることができ、さらに余分なものを他人に与えることができるようになる。これがわたしたちの社会制度の全ての表面的な原則だ。」(上、342-43頁)

 

これは表面的には、経済的な事柄に関する論述であるかのように見えますが、ルソーが思い描いているのは、伝統的・身分制的な社会ではなく、個人の才能に見合った仕事につくことができる自由な職業選択が可能であり、かつまた個人の才能を発掘してその才能を社会に還元することのできる柔軟性を持った社会を構想しているのであって、「わたしたち」つまり、ルソーとエミールは、そのような自由な社会において、人の才能や道具が、何のために有用であるかを識別する能力を養うことを目指しているのだというわけです。この箇所を書きながら、ルソーは、アダム・スミスのように、分業による生産性向上の所産としてより大きな富を生み出すことを目指すというのではなく、個人の才能が自由に発揮され組み合わされることによって連帯が深められるような社会を展望しているということなのでしょう。そういう意味で、ルソーがその後の社会主義思想に影響を与えたのは当然のことだと言えます。


 そしてルソーが構想する社会の担い手としてエミールを教育しようとしているということの中には、やはりホッブスの『リヴァイアサン』で展開されていた人間論への批判が込められているように思います。ホッブスの政治理論の基礎にあった人間論は、人間の行動が、常に個人の欲望と、その欲望を選択した場合に発生する可能性のある状況への不安や恐れとのせめぎ合いの中で選択されていく。そう分析していました。これは人間の心理の冷徹な観察に基づいているとは思いますが、社会における人間の行動を非常に単純化した形で説明してしまっている面はあります。またこの人間論は静的なものに過ぎません。しかしルソーは、ホッブスの政治理論の前提にあるこのような冷めた静的な人間観ではなく、よりダイナミックな存在としての人間を考えようとしていたのでしょう。ルソーは、エミールが、他の人々と協力しながら、他の人々の道具や才能を見極めながら、誰にどの仕事を任せると良いのか、そのような「有用性」の識別力を養うことが、より幸福な社会の実現のための基礎として必要だと考えていたのではないでしょうか。そのような「有用性」への識別力を備えた多くの個人から形成される社会は、単に自己の欲望と不安のせめぎ合いの中で行動を選択する場合よりは、より創造的な社会の営みを可能とするはずである。ルソーの展望はそのようなものであったように思います。


 ルソーが、このような自由な社会を構想した最大の理由は、彼が非常に貧しく困難な少年・青年時代を過ごしたことと無関係ではないのでしょう。彼の心の叫びのようなくだりが以下の部分ではないでしょうか。

 

「これまでわたしは身分、地位、財産などの差別を認めないが、これからも今まで以上に認めるようなことはほとんどしないだろう。人間はどんな身分の人間でも同じだからだ。」(上、345頁)

 

人が生まれながらの身分などによって優遇されるという前近代的な慣習を、ルソーは忌み嫌っていたのでしょう。そしてフランス革命とその後欧州に広がった自由主義的な変革によって、ルソーのヴィジョンは確かに実を結んで行った面はあったと言えます。


 第四編では、15-18歳の時期に、正義や善について学ぶ必要があるとされます。具体的には政治学や倫理学を習得するのに相応しい年齢はこの時期だとされています(中、57頁)。また政治学を学ぶ上で基礎的な情報源となる歴史の書物を読むのもこの時期が相応しいとされます。第四編では、ルソーが、ヘロドトス、トゥキディデース、リヴィウス、スエトニウス、プルタルコスなどの著作について適切なコメントを加えていますが、彼がこれらの古典的な著作を精読していたことがわかります。ルソーは、こうした著作に触れるのに相応しい年齢は高校生くらいであると考えているのでしょう。


 第四編の後半には「サヴォアの助任司祭の信仰告白」という部分が挿入されています。このサヴォアの叙任司祭は実在の人物で、ルソーが、身を持ちくずしそうになっていた時期にも彼を援助し、教育的な指導を与えてくれた人物であったそうです。その人物による教育論が展開されている部分とされているようなのですが、実際の内容は、ルソーの認識論が展開され、神や人間の霊魂などについてのルソー自身の信条が開示されている箇所です。そのような哲学的論述をもって「信仰告白」と称する所に、ルソーの歴史的キリスト教に対する否定的な見解が示されているのでしょう。一人の人間が、自分に与えられている感性と悟性を頼りに、彼を取り巻く世界についての認識を広げていく努力をする以外に、自己について、また存在する世界について正しい認識を持つことはできない。そのようなルソーの思いがこの箇所には現れているように思われます。ですからルソーは宗教教育の必要性を全く認めなかったのでした。


 キリスト者の観点からすれば、この点が、キリスト教信仰に立つ教育とルソーの教育論との最も大きな違いということになるのでしょう。ルソーは、一人の人間が正義や善を全てその成長過程で学習によって発見していくことが理想だと考えました。しかしキリスト教信仰は、人の本来あるべき姿は神の啓示としてのイエス・キリストという人格によって既に示されていると信じます。もしこれが真理であるなら、私たちはわざわざ遠回りをする必要はないのであって、まずイエス・キリストという方のことを知る努力をすれば良いということになります。


『エミール』という書物は、現代の日本人にはかなり難解な書物です。これを読解するためには、18世紀のフランス社会を取り巻いていた状況について、かなり正確な知識が必要とされるように思います。ルソーが延々と展開している議論は、具体的にどのような問題について、どのような観点から論じているのかをフォローすることは容易なことではありませんでした。


 とはいえこの本から学ぶべきことは非常に明快であるようにも思います。ルソーが本書で何よりも訴えていることは、教育において最も大切なことが、子供・生徒に教え込むのではなく、子供・生徒が自分で理解すること、自分で学習しようとする意欲を持つように促すことである。この点にあったのではないでしょうか(上、184頁、289頁)。このようなルソーの教育論は、ジャン・ピアジェが見出した知識の核となるシェーマを子供・生徒の内に生じさせる努力と言い換えることもできるかと思いますし、「内発的動機付け」を大切にする教育だと表現することもできるのではないでしょうか。優れた教師とは、教える内容についての知識と共に、その分野の事柄に子供・生徒・学生が関心を持つことができるような話題などを豊かに持っており、子供・生徒・学生の学習意欲を高める対話能力を持つ人物であるということなのでしょう。

 


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