プラトン『ゴルギアス』加来彰俊訳、岩波文庫、1967年


 先週から続く大雨のために、九州各地や岐阜県・長野県などで、60もの河川が氾濫し、多くの尊い命が失われただけでなく、多くの家財も失われ、今は呆然として力を失っている方も少なくないのではないでしょうか。一人でも多くの人命が救われ、被災された方々の生活再建に必要な援助が届くようにお祈り致します。

 最近、毎年のように日本を襲う豪雨災害のたびに感じるのですが、必要性の乏しいと思われる道路建設の資金を、気候変動に対処するために、真の国土強靭化に用いることはできないのだろうかと思います。

 恐らくプラトンが、現代の日本に生きていれば、ソクラテスのような人物を立てて、その口を通して詭弁を明らかにする書物を書いたことでしょう。プラトン自身は、アテナイの民主政の退廃を嘆きながらも、政治参加の道を閉ざされてしまったがゆえに、自らの著作を通して理想主義的な政治哲学を訴えるようになりました。

 ゴルギアスとは、当時プラトンが対決していたソフィストの一人でした。彼は、ソフィストたちが重視していた雄弁・説得の技術の価値を擁護しようとしますが、ソクラテスは、単なる説得の技術に過ぎない弁論術が、真に善悪や正義を判断し、これらを実現するものではないとして反論します。

 なぜプラトンはソフィストの弁論術を批判したのでしょうか。それは表面的に善と見える事柄と真の善とを区別せず、真の善を求めようとしない弁論家によって民主政が混乱し、アテナイの利益が失われていく現状を深く憂いていたからだと思います。

 『ゴルギアス』の第二部では、ソクラテスは、ゴルギアスの弟子のポロスと議論します。ポロスに対して、ソクラテスはまず、弁論家の目指す自由というものが価値のないものであることを示そうとします。確かに弁論術は、法廷において政敵を追い落としたりする上で有効な技能ではありました。しかしそのように単に自己の願いや欲求を実現する手段を得て、その結果としての自由を得ることに、一体何の価値があるのかをポロスに向かって問いかけます。なぜならば、そのような自由を行使することは、場合によっては他者に対して不正を行う自由となる場合もあるからです。そのような弁論術の性質を示したうえで、ソクラテスは次のように応えています。

 ポロス「するとあなたは、不正を行うよりも、むしろ不正を受ける方を望まれるのですね。」

 ソクラテス「ぼくとしては、そのどちらも望まないだろうね。だがもし、不正を行うか、それとも不正を受けるか、そのどちらかがやむをえないとすれば、不正を行うよりも、むしろ不正を受ける方を選びたいね。」(『ゴルギアス』75頁)

 人に不正を行ってまで自らの自由や利益を追求することに何の意味があるのか。プラトンがソフィストに対して問いかけているのは、そのような問いでした。そしてソクラテスは、確かにこの言葉通り、彼の愛する都市アテナイの法廷の決定に従い、死を選び、それによって真の正しさを探求する生涯を全うしたのだと思います。

 『ゴルギアス』の第三部は、政治家のカルリクレスとの討論です。民主政においては、大衆の求めに応じられる弁論家が強者となるのであり、そのような強者の支配が正義である。彼は現実の政治に携わっている者らしいリアリズムをソクラテスにぶつけます。これに対してソクラテスは快楽が常に善であるとは限らないのと同様に、多数の求める快楽を満たすことが常に善であるとも限らないと応じますが、最後に彼が辿り着く結論は、真の意味での善や正義を求める生き方が、この世の人生における幸福と共に、永遠の魂の幸福にもつながっているはずだと訴えます。

 このような古代ギリシャ哲学者の思想や生き方は、後の古代ローマ帝国の時代の人々にも、影響を与えるようになりました。2世紀になると、哲学などを修め、教育を受けた人々の間に、イエス・キリストを信じる人が現れるようになります。もちろん旧約聖書やユダヤ教を背景に形成されたキリスト教の福音とギリシャ哲学には相違点も少なくはありません。それでも、キリスト教信仰は徐々に哲学者たちの間にも浸透しました。その際、イエス・キリストという方の生き様に、プラトンの訴えようとした「真の正しさ」に通じるものを、哲学者たちが見出した面もあったと思います。

 イエス・キリストが「真の正しさ」を体現するお方であったとの確信は、恐らく、すでに新約聖書の時代のキリスト者たちにも共有されていたことでしょう。使徒言行録7章52節にはイエス・キリストが「正しい方」と表現されているからです。

 表面的に考えるなら、当時のユダヤ教の指導者によって神を冒涜する者として断罪され、ローマ総督の承認のもとに十字架刑に処せられたイエスという男は、一人の犯罪者・死刑囚に過ぎませんでした。けれどもソクラテスの視点に立つなら、そしてもし福音書記者たちの証言通りであるなら、彼は不当な裁判を受け入れた真に正しい方であったことになります。また自らの死によって第二神殿期ユダヤ教体制の不正を示した人物でもありました。古代末期の哲学者たちが、キリスト教信仰に関心を持つようになった一つの理由は、そういうイエスの生き方にもあったのではないでしょうか。

 大学一年の時に受けた一般教養の哲学講義では、西洋哲学史を講義して下さった先生が、フリードリッヒ・ニーチェの言葉を引用して「キリスト教は世俗化したプラトニズムである」と話しておられました。機智に富んだ表現ですが、ニーチェはキリスト教もプラトニズムも嫌いだったのでしょう。そして西欧思想の流れが、プラトン的伝統とキリスト教との融合によって形つくられた歴史を悲観的に観ていたのだと思います。

 プラトンの思想も万能ではありません。キリスト教信仰もプラトン哲学と融合したことによって失うものもあったかもしれません。現にあるものを喜び、満足するという精神も幸福な生にとって必要ではあります。けれども表面的な善ではなく、真の善が存在するのではないか。そのように想定して生きること、考えることを辞めてしまうならば、現に存在する悪に目を閉ざし、これを克服する道を閉ざしかねないと思います。日本人であっても、古代ギリシャ人の知恵から学ぶことは、今も必要なのではないでしょうか。

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