ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(第三・四巻、エピローグ別巻)亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫、2007年


 先月に続いて『カラマーゾフの兄弟』第三巻からエピローグまでを紹介します。一部ネタバレを含みますので、ご自分でお読みになる方は、今回はスキップして頂ければと思います。


 第三巻は、全体としては、二人の父の死についての物語です。一人の父とはゾジマ長老のことであり、もう一人はフョードル・カラマーゾフです。二巻の終わりで大往生を遂げたロシア正教の聖職者ゾジマ長老への葬儀から第三巻は始まります。ショッキングなのは、聖人として崇敬されていたゾジマ長老の遺体が、死後すぐに腐臭を発するようになるというくだりです。ゾジマ長老の死は、ロシアにおける伝統的な信仰の時代の終わりと、近代的世界観の広がりを暗示するのかもしれません。ロシア正教の葬儀では、死者の棺の傍らで数日間福音書などの朗読がなされるようです。朗読されていた福音書の一節に、ヨハネの福音書2章のカナの婚礼の箇所が朗読されていました。アリョーシャはその福音書の朗読を夢うつつの状態で聞いた後、僧院を後にします。


 しかし第三巻の主役は、カラマーゾフ家の長男のドミートリー(ミーチャ)です。ホフラコーワ夫人に3千ルーブルを無心する場面のミーチャのセリフには、かつて賭博中毒者であり、しばしば借金をしていたドストエフスキー自身の実体験が活かされているのだと思います。父の家を訪れた後、彼は恋するグルーシェニカを追いかけてモークロエの旅籠屋へ行きます。グルーシェニカのいた旅籠屋の酒場で乱痴気騒ぎをするミーチャの姿もドストエフスキー自身なのでしょう。グルーシェニカのそばには、5年間思い続けていたポーランド人将校がいるのですが、このポーランド人が実は期待していたような男ではなかったことに気づき、彼女は酒を煽り酩酊します。それを見て、ミーチャは遂に彼女の愛を勝ち得ることができたと喜びますが、それも束の間、ミーチャに司直の手が及び、彼は父親殺しと父親の三千ルーブルの窃盗の容疑で、つまり尊属強盗殺人犯と断定され、逮捕されたのでした。


 その後、場面は一旦フョードル・カラマーゾフ殺人の直後にまで引き戻されます。父親殺害直前にミーチャと会い、三千ルーブル要求されていたホフラコーワ夫人に対する取り調べがなされるのですが、夫人は取り調べ官に対して出まかせを言い、根拠の乏しい作り話によってミーチャに不利なことをまくしたてます。シリアスなドラマの中にあって喜劇のような一幕ですが、このホフラコーワ夫人のセリフには作者の鋭い人間観察能力が遺憾なく発揮されています。しかしそうしたディテールの精度の高さもさることながら、このように時間を前後させつつ物語を進行させることによって、さらに効果的なサスペンスが生み出されます。ドストエフスキーが仮に現代に生きていれば、彼は優れた脚本家や映画監督になっていたのではないでしょうか。


 第四巻の最初はアリョーシャと少年たちの会話を中心に展開して行きます。この部分は、三巻までとは違った雰囲気を醸し出しています。すでに第二巻で登場していた貧しいスネギリョフ二等大尉と病気の息子がイリューシャ、そしてイリューシャの友達のコーリャが登場します。コーリャはまだ14歳なのに、自分は社会主義者だと公言します。この少年たちのシーンは、モスクワからやって来た医師が、イリューシャを診察した後、治療に関して匙を投げてしまう場面で終わります。イリューシャは死を覚悟し、父親に向かって自分に変わる子を養子に迎えてほしいと願うですが、父親のスネギリョフ大尉は「エルサレムよ、もしも私があなたを忘れてしまうなら、この右手もその巧みさを忘れるがよい」という詩篇137:5の言葉を独白の中で引用します。自分にとってかけがえのない存在であるイリューシャのことを、決して忘れることなどできない。父親の愛を詩篇の言葉に託して語るのです。病気の息子をどうすることもできない、貧しい父親の苦悩が描かれているのですが、ここには当時の帝政末期の医療制度の限界も示されているのかもしれません。そして亀山先生によれば、この「子どもたち」の場面は、エピローグとともに、未刊に終わった第二部への伏線となるのだそうです。


 四巻の中盤にはミーチャの裁判前日のことが語られます。アリョーシャは、グルーシェニカ、ホフラコーワ夫人、リーズを訪ねてから、監獄に収監されている兄のミーチャとの面会に臨みます。ミーチャは、弟イワンの画策によって脱獄を企て、グルーシェニカとアメリカに渡るという計画を打ち明けます。また真犯人はスメルジャコフだと語り、アリョーシャに自分が本当に父殺しだと思っているかと問います。一度たりともそんなことを思ったことはない。アリョーシャがそう答えると、ミーチャはその言葉に励まされるのでした。アリョーシャはその後、イワンと会います。父殺しの犯人はスメルジャコフである。その断定的なアリョーシャの言葉に、イワンは不可解な反応を示した後、今度はイワンがフョードル・カラマーゾフの下男スメルジャコフのところに行き、そこでイワンは真犯人を知らされます。罪意識に苛まれながら、イワンは自宅に戻ると、そこで彼は幻覚を見てしまいます。幻覚に顕れたのは紳士の姿をした悪魔でした。亀山先生によれば、この苦悩しながら悪魔と対話するイワンの姿にもドストエフスキー自身が投影されているのだそうです。悪魔との会話はアリョーシャの来訪で突然破られます。一時間前、スメルジャコフが自殺をした。アリョーシャはイワンにそう伝えたのでした。


 翌日のドミートリーの裁判で物語は大詰めを迎えます。この父殺し事件はロシア全土に新聞報道で知られ、裁判には大勢が傍聴人として詰めかけました。新聞は断片的な証拠に基づいてフェイク・ニュースを書き立て、それを読んだ読者たちはミーチャ支持派と反ミーチャ派に分かれました。ドストエフスキーはこれを現代の劇場型犯罪のはしりのような出来事として描いているのでしょう。裁判では、ミーチャに不利な証言が並べられた挙句、有罪判決が下されてしまいます。


 エピローグでは、カテリーナがイワンへの想いを告白し、ミーチャとの関係が整理されます。またミーチャ脱走の計画について、アリョーシャも無実の兄の希望を承認するのでした。物語は、その後、スネギリョフ二等大尉の息子イリューシャの葬儀が執り行われる場面で終わります。そこにはイリューシャの友達であったコーリャも参列していました。アリョーシャからドミートリーが無実で服役させられることを知らされると、コーリャは「ぼくもいつかは自分の命を真実のために捧げることができたらって願っている」(エピローグ別巻、44頁)と発言します。早熟のコーリャも、将来革命家となることが予告されているかのようです。物語の最終幕で、アリョーシャは、イリューシャの葬儀に集まった少年たちに演説をします。短い生涯でありながら優れた人間性を示して亡くなったイリューシャのことを生涯忘れないようにしましょう。そのアリョーシャの言葉に呼応して子供たちは、教会で教えられているキリスト教の復活信仰に言及し、イリューシャと再びまみえる日を期待します。作者はこれから訪れる新しい時代にあっても、キリストの教えに従って生きようとするロシアの若者たちが存在し続けていることを示そうとしているかのようです。


 ところで、この物語のクライマックスには、近代化されているはずの裁判制度が誤審を導くというエピソードが配置されていました。近代的な制度が導入されても必ずしも真実が明らかにされる訳ではない。そのようなドストエフスキーの主張が暗に込められているように思います。制度が改善されても人間の知性には限界があります。ただそういうこと以上に、この世には常に人を欺く存在があり、また多くの人が真実よりも虚構を受け入れたがる傾向にあります。だから農奴解放以後、近代化・西欧化されつつあった帝政末期のロシア社会に対して、ドストエフスキーは懐疑の目を向けていたのではないでしょうか。


 けれどもこの物語は、変化の時代を、全て悲観していた訳ではありませんでした。新しい時代への期待は、イリューシャの葬儀に集まった少年たちの姿に、そしてゾジマ長老の葬儀の執り行われていた僧院を後にして新しい歩みを始めたアリョーシャの姿に示されているのだと思います。


「彼は地面に倒れた時、ひよわな青年だったが、立ち上がった時には、もう生涯変わらない確固とした戦士に生まれ変わっていたのだ。」(第三巻、108-109頁)


この言葉は、結局執筆されずに終わった小説第二部への布石、つまりアリョーシャが革命家となることを暗示しているのかもしれません。そう考えると、前回この欄で書いたことは、的外れであったようにも思います。ドストエフスキーは、この完成した小説第一部の中で、既に未刊の第二部におけるアリョーシャの姿を予告しているようなのです。


 アリョーシャの新しい出発は、葬儀の時に夢うつつの中で聞いた福音書のカナの婚礼の朗読によって、背中を押された面がありました。カナの婚礼は、新約聖書ヨハネによる福音書の中でもミステリアスなエピソードです。この時ナザレのイエスは貧しい親族の婚宴に出席していましたが、母マリアからぶどう酒が足りないと告げられます。イエスはマリアが言外に奇跡を求めていたことに一瞬ためらうのですが、すぐに厨房に入り、水がめの水を上質のぶどう酒に変える奇跡を行いました。それによってイエスは地上の婚姻を祝福されたのです。


 ドストエフスキーは、恐らく当時のロシアが西欧的なものを導入することの限界を見抜いていました。かといって彼は伝統的なロシア社会が変容していくことに断固として抵抗しようとする人物でもなかったように思います。時代の自然な流れとして、これを受容する側に立とうとしたのではないでしょうか。そしてドストエフスキーが願っていたのは、アリョーシャやコーリャといった人物に代表されるような、キリストを信じる若者たちが、ロシア社会の変革の原動力となることであったのかもしれません。『カラマーゾフの兄弟』における「カナの婚礼」の引用には、そのような社会変革をも希求する意図が込められているように思われます。