今週 ‘Everything Everywhere All at Once’ を観ました。今年のアカデミー賞の7部門を受賞した作品です。この映画は、アジア人で初めて主演女優賞を受賞したミシェル・ヨー扮するエヴリンという中国出身の女性が主人公です。彼女は中国系アメリカ人の男性ウェイモンドと結婚してカリフォルニア州に移住し、夫婦でコイン・ランドリーを経営している女性です。高齢の父親の世話をしながら、レズビアンで反抗的な一人娘との関係に悩みながら、しかも煩雑な税務処理や利用者たちのクレームに煩わされながら、彼女の夫婦関係も破綻寸前なのですが、たまたま税務書類の監査を受けにIRS (Internal Revenue Service=国税局)の建物に入った時に、エレベーター内で不思議な出来事が起きます。普段は軟弱者のウェイモンドが豹変してエヴリンにこう言うのでした。「あなたは他の複数の宇宙の複数のエヴリンと繋がっており、これから指示に従って巨大な悪ジョブ・トゥパキーと戦って欲しい。」彼女は指示に従って戦う覚悟を決めるのですが、なんとIRSの監査官を殴ってしまうという騒動を巻き起こします。そこから先は、他の宇宙のエヴリンが地球のエヴリンに乗り移り、彼女の周囲にも別の宇宙の悪の手先が乗り移って彼女を攻撃するようになり、宇宙の巨悪ジョブ・トゥパキーは、エヴリンの娘ジョイに乗り移ってしまう。非常に複雑で目まぐるしい映像が次々に繰り出されるのですが、最後はハリウッド映画らしい終わりを迎えます。
これは現代的な世界観・宇宙論を反映したSF・ファンタジー映画なのですが、脚本家や製作者たちが意識しているテーマは、恐らく同時代的でシンプルなものなのでしょう。複数の宇宙が存在するとされる宇宙論が支配的な今、この地球という世界に生きる人間にとって幸せとは何か。映画はそのようなテーマを取り扱っているようです。また不毛な戦争や対立を止めようという訴えも感じられました。そしてこの映画は今回紹介するダンテの『神曲』の天国篇に語られているメッセージと共通する内容をも含んでいると思います。
3月のこのコーナーではダンテの『神曲』地獄篇・煉獄篇を紹介しました。煉獄篇の最後は、浄化の火をくぐり抜けたダンテが、早世した初恋の女性ヴェアトリーチェの待つ地上の楽園にたどり着くという場面で終幕を迎えていました。ヴェルギリウスは煉獄篇第十八歌で、ダンテに「信仰による愛」こそが、死後の世界の旅における到達すべきゴールであると語っていたのですが、煉獄篇は何か性愛の喜びを表現するような終わり方をしていました。
それに続く天国篇は『神曲』の三篇の中で最も難解であるとされています。第二歌の冒頭で、詩人は「君たちの岸を指して帰るがいい、沖合に出るな。君たちはおそらく私を見失い、途方に暮れるであろう」と予告します。つまり天国篇の内容について行くことのできる人は限られていると予め釘を刺しているわけです。確かに、地獄篇には誰が神の裁きを受けて地獄に降るのか、そして人の罪はどのような試練を通して浄められ、「信仰による愛」の高みに至ることができるのか、地獄篇・煉獄篇の筋書きは読者に分かりやすかったのは事実です。
では天国篇の難解さとはどういうことなのでしょうか。恐らくそれは、天国篇が、これまでの地獄篇・煉獄篇にダンテが準備しておいた仕掛けが、この天国篇において次々と意味をもち、注意深い読者でなければ、ダンテが三篇を通じて組み上げた複雑な文学的技巧の妙味を鑑賞することができないということであるような気がします。残念ながら、私は今回初めてダンテ『神曲』天国篇を読んだだけですから、これを十分に味わうことができたとは言えません。
以下に書くことは、素人の誤謬を含むかもしれませんが、初めて読んだ者の感想です。天国篇とは、神との邂逅に至る天界の旅であって、言わば西欧中世人が夢想した宇宙旅行です。プトレマイオス以来の西欧古代・中世人の世界観・宇宙観に従って、天上の世界は十層からなっており、神はそのような天の最上層の至高天におられる。ダンテはそのように考えていました。
最初の最下層の月光天で、ダンテはすでに「人性と神性が合体したさまが見えるあの本質を仰ぎ見たいという望みが身内に熱く湧きあがった」(第二歌)と語ります。「人性と神性が合体したさま」とは、ロゴスの受肉によって人性と神性の二性を有するイエス・キリストというお方のことを考えているのでしょう。ダンテは天上の世界で、地上ではただ信仰によって受け入れている三位一体の神にまみえることを願い、そのような願望を表明していたようです。そのようなダンテに、ヴェアトリーチェが、天上の世界の解説をします。不動の神は最高位の至高天におられ、その下に恒星天がある(ヴェアトリーチェは言及しないが、至高天の下には原動天もあります)。さらにその下位には七つの天球(月光天、水星天、金星天、太陽天、火星天、木星天、土星天)があって、この七つの天球には、世界の諸器官を構成する異なる種類の人々が死後に配置されているとされます。そして至高天以外の九つの天球は、層をなして地球の周りを天球ごと回転していると信じられていたのでした。最下層の月光天には、修道の誓願を立てながら、それを果たすことができなかった信仰者の女性たちが集められている場所とされていました。
二番目の水星天には「後世に名や誉れを遺そうとして、生前に進んで活躍し善行を働いた人々の魂で飾られている」とされ、例えば『ローマ法大全』の編纂者として知られる東ローマ皇帝のユスティニアヌス帝がここにいることになっています(第六歌)。ただそのような人々は天界の下層に属するとされています。なぜなら彼らは現世での名誉を志向していたからでした。
三番目の金星天は、ちょうど金星が女神ヴィーナスと同一視されるように、地上で性愛に情熱をかけた人々の配置される場所となっています。生前三人の男性と関係を持ったが晩年に改心して善行を積んだクニッツァという女性、若くして浮名を流したが後にトゥールーズ司教となったマルセイユ人フォルケなどがここにいます。彼らは一度煉獄を通ってここに辿り着いたことになるのでしょう。
四番目の太陽天の第十歌は、三位一体についての言及から始まります。ここでは中世ローマ・カトリック教会最高の神学者でドミニコ会士のトマス・アクィナスが語り手となっています。続く第十一歌では、アッシジのフランシスコとドミニコの生涯も紹介されます。この二人が始めた托鉢修道会(フランシスコ会とドミニコ会)が中世スコラ学者を輩出した二大修道会であったからでしょう。この太陽天は神学や哲学や古代・中世の自由七科を教えた学者たちのための天とされています。この太陽天では、天上の世界の秩序とは対照的な、地上の無秩序が強調されています。天国篇でも、ダンテは、彼の生きた14世紀イタリア政治・社会の現実に対する批判と、彼の考える理想的なイタリア都市国家の姿を描こうとしているのでしょう。
五番目の火星天には、フィレンツェの守護聖人である聖ヨハネ(イエス・キリストの十二使徒の一人)が、フィレンツェの現状について嘆く場面があります。その中で、フィレンツェ市の実権を握り、ダンテを市から永久に追放した人々が田舎者として言及され、彼らのような新参者のためにフィレンツェの政治が腐敗したことを、聖ヨハネは嘆くのです。つまり天国の聖人の口によって、ダンテは、政敵に対して報復を試みているということのようです。ダンテの心は、架空の天国への旅の間も、憎しみや敵意といった否定的な感情を引きずってしまっているように思われます。
六番目の木星天には、信仰深い王たちがおりました。旧約聖書のダビデ王やヒゼキヤ王、後期ローマ帝国の皇帝でキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝がここに居るのは当然ですが、同じ場所には例えば異教徒のトラヤヌス帝もいます。彼は一度地獄に落とされながら聖グレゴリウスの祈りによって生き返り、キリスト者となったと信じられていたようです。ヴェルギリウスの「アエネイス」に登場するトロイ人リベウスという人物も木星天におりました。ダンテは良い政治を行う理想的な王に対する強い憧れを持っていたのかもしれません。
七番目の土星天には、生涯にわたり観想的生活を送った人々、聖職者や修道士たちが配置されています。第二十一歌には、十一世紀のラヴェンナ出身の聖職者ピエトロ・ダミアーニによって、ダンテの時代の聖職者たちの腐敗が批判されます。土星天に辿り着いたところで、ダンテは、はるか下方にある地球を眺めてこう述懐するのでした。「私は振り向いて七つの天球のはるか彼方にこの地球を見たのだが、その見るも小さな、あわれなさまには思わず口もとがほころんだ。地球など取るに足らぬという見解は取るに足るものと私には思える。地上のこと以外を思う人こそ、真に廉直な人と呼び得るのではなかろうか。」(第二十二歌)ダンテはイマジネーションの中で、月光天から土星天の七層からなる天球を昇り続け、土星天の高みから地球を見下ろしてみた訳です。このダンテのセリフは、何かEverything Everywhere All at Onceの取り扱うテーマに似通っている面があるように感じます。
天上の世界では、これまでの七つの天球の上に、八番目の恒星天から十番目の至高天があり、これらはもう一段上位の世界とされています。恒星天には信仰を司どる使徒ペテロ、希望を司どる使徒ヤコブ、そして愛を司どる使徒ヨハネがおりました。三人の使徒はダンテに信仰と希望と愛に関わる口頭試験を行い、ダンテは試験に合格します。使徒ペテロがひとしきり、ダンテの時代のローマ教皇の腐敗や堕落を批判するのを聞いてから、ダンテはその上の原動天に昇ることが許されます。
九番目の原動天には、位の高い天使たちがおりました。ここでダンテは、ヴェアトリーチェから天使とはどのような存在であるのか教えられます(第二十九歌)。そこから愈々ダンテはヴェアトリーチェと共に最上位の至高天に入るのでした。
十番目の至高天には、神聖ローマ皇帝アルリーゴ(ハインリッヒ)七世が座ることになっている皇帝座が置かれていました。この支配者にダンテは心酔していただけではなく、このアルリーゴによって彼はフィレンツェに帰還する微かな望みを抱いていたようでした。残念ながら1313年にアルリーゴが亡くなったことによって、その希望は潰え去ったのだそうです。至高天には、さらにイエスの母マリア、アダムの妻エヴァ、ヤコブの妻ラケルらの側に、ヴェアトリーチェのための特別な場所が割り当てられていました(第三十一歌)。そして至高天ではヴェアトリーチェに代わって、クレルヴォーのベルナルドゥスが導き手・語り手となります。ベルナルドゥスの導きによって、ダンテは聖母マリアを始め、諸聖人たちにまみえます。最後にベルナルドゥスの祈りによって、ダンテの目は清められ、三位一体の神の神秘と神性と人性を兼ね備えるイエス・キリストとを、遂にその目で見ることができるようになるのでした(第三十三歌)。
この天国篇も、やはりダンテの地上的な生に対する強い執着心が随所に見え隠れしているように感じました。天上の世界の描写を通じて、ダンテは、特に彼を陥れた政敵を批判しようとする動機が働いていたのだと思います。故郷への帰還を最後まで願っていたゆえに、彼は自分の政治的な後ろ盾であった人物を至高天に配置したくなったのでしょう。とはいえダンテのように、不遇の身で客死することになった人物が、自分の人生の意味を探求しつつ、地獄・煉獄・天界の旅を思い巡らし、それらの世界を思い巡らす中で慰めを得たということには共感します。ダンテのイマジネーションは、Everything Everywhere All at Onceのエヴリンが、並行して存在する無数の宇宙の無数のエヴリンの存在を想像することによって、社会の底辺でコイン・ランドリー経営に骨身を削る労苦に慰めを得ることができた。それと少し似ているかもしれません。
しかしながら、無神論的な世界観・宇宙論に立つEverything Everywhere All at Onceとダンテの『神曲』には大きな違いがあります。ダンテは、地上の生活への未練を完全には捨てきれないままで天国篇を書いたことは否定できませんが、彼はこの作品によって、三位一体の神を見ることこそ、人間にとって最高の喜びであると表現しようとしたのでした。このメッセージには全てのキリスト者が共感を覚えるのではないでしょうか。仮に不遇の身で生涯を終えることがあったとしても、悲観する必要はないということだと思います。なぜなら地上では旅人であり寄留者であったとしても、私たちには神とイエス・キリストのおられる天の故郷が約束されているからです。
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