アルベール・カミュ『ペスト』宮崎嶺雄訳、新潮文庫、1969年


 しばらく前に公開された映画に「コンテイジョン」という映画がありました。中国本土の養豚場でこうもりから豚に感染したウィルスが、香港の料理店を通じて人に感染し、パンデミックが起きるというストーリーでした。この映画は、Covid 19によって引き起こされたパンデミックを予告するような場面が幾つか描かれています。例えばアメリカでは既存の医療機関で感染者の隔離・収容が追い付かず、急遽アリーナが隔離施設に利用されるという場面もありました。映画では、感染開始から100日余りで研究機関がワクチンの開発に成功し、大規模な接種によってパンデミックは収束に向かうということになっていましたが、今回の新型コロナ・ウィルスは、発症の確認から1年余りたっても依然として収束の見通しは立っていません。映画はかなり楽観的に描かれていたように思います。悲観的な見方をすれば、今回のパンデミックによって、あるいは私たちは今後長期間にわたって、この危険なウィルスの脅威と戦いながら生活しなければならない時代に突入してしまったのかもしれません。そうならないでほしいと願いますが。


 昨年から、町の本屋さんの特集コーナーには感染症に関連する書籍が並んでいます。アルベール・カミュの『ペスト』も今、多くの方に読まれている一冊ではないでしょうか。この小説は1947年に出版されるとフランスでたちまち大反響を呼んだそうです。物語はアルジェリアのオラン市を襲ったペストの感染拡大と収束を、リウーという医師を主人公に描くドラマです。反響を呼んだ理由は、物語の随所に、第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下、あるいは傀儡政権の支配下でのレジスタンス運動の体験に通じる描写が散りばめられていたからのようです。カミュは、ペストによる感染症のドラマを描こうとしたというよりは、感染症によって引き起こされる事態を描くことによって、ナチス支配下のフランスの実相がどのようなものであったのかを、小説という手法で明らかにしようとしたのではないでしょうか。


 しかしフィクションとはいえ、カミュは事態を克明に描いています。小説の舞台であるオラン市では、最初4月にネズミの死骸が多く発見され、やがて腺ペストの症状を示す病人が次々と現れます。オラン市は閉鎖されて移動の自由は制限されますが、裕福で手段を持っている人は、オラン市から脱出することができました。夏になると状況は深刻になりますが、公的な機関は疾病対策に無力であり、むしろ良心的な市民が自発的な組織を形成して、ペストとの戦いの前線に立つようになります。主人公のリウーもその一人でした。人々の努力にもかかわらず、ペストは容赦なくいのちを奪いました。感染者は隔離されるため、臨終に際して家族は立ち会うことができず、棺に納められた遺体を引き取らなければなりませんでした(256頁)。重苦しい空気の中で、人々は「ペストが終わったらこうしよう、ペストが終わったらああしよう」と、収束後のことばかり話し合っています(289頁)。ペストの流行にもかかわらず、オラン市は、市立オペラ劇場で巡業の一座が「オルフェイオスとエウリディケ」の上演を毎週一回行うことを許していたのですが、リウーの友人のタルーが観劇に訪れた日には、第三幕の途中、役者が舞台で(恐らく体調不良のために)くず折れるというハプニングがあり、その場でオーケストラも止まり、観客は慌ただしく劇場から退出しなければなりませんでした(293頁)。コロナ禍にいる私たちの経験と似たような出来事が、この小説の中には描かれていて、カミュという作家の力量を感じさせられます。


 その一方で、この小説は、キリスト教の神学や信仰に対する批判が、物語の一つの軸になっています。主要な登場人物の一人にパヌルー神父という聖職者がいます。ペストの流行が始まった頃のある日曜日、彼はミサの説教で、ペストは人間の罪に対する神のさばきであると語り、聴衆に悔悛を迫るのでした。このミサの説教の内容について、リウーと友人のタルーが話し合う場面があります。タルーはこう言います。「パヌルーは書斎の人間です。人の死ぬところを十分見たことがないんです。だから、真理の名において語ったりするんですよ。しかし、どんなつまらない田舎の牧師でも、ちゃんと教区の人々に接触して、臨終の人間の息の音を聞いたことのあるものなら、私と同じように考えますよ。その悲惨のすぐれたゆえんを証明しようとしたりする前に、まずその手当をするでしょう」(184頁)タルーは、病気の理由を問うことに意味などなく、病気を前にして必要なことは治療の努力だけだと語るのです。


 物語の後半で、予審判事の息子がペストに罹患します。治療に当たったリウーでさえ闘病の姿を静視できないほど、少年は酷い苦痛を経験し、その後でいのちを落とします。そこにパヌルー神父が登場するのです。リウーはこの時、神父に向かって「まったく、あの子だけは、少なくとも罪のない者でした。あなたもそれはご存じのはずです」と強い口調で語ります。さらに「子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯(がん)じません」と言って、このような世界を創造したとされる、キリスト教の神に対する不信を口にします。(322-23頁)


 リウーのキリスト教信仰に対する批判を聞いた後で、10月頃にパヌルー神父はもう一度、日曜のミサで説教をします。神父はもはや人々に悔悛を訴えることはしませんでしたが、説教の中でかつてマルセイユをペストが襲った時のエピソードを紹介します。この時、メルシ派の修道院にいた81名の修道士のうち、77名がペストで死亡し、生き残った4名の内、3名は逃亡したが、1名だけは踏みとどまったのでした。パヌルー神父は、皆この1名の信仰に倣うべきだと話します(335頁)。ところがこの説教の後、ほどなくして神父自身にも病気の兆候が表れます。小説では神父がペストに罹患したのかどうかについては明言されませんが、その後もはや神父は二度と登場しません。ペストの流行は数か月間猖獗を極めた後で、翌年の1月頃に、潮が引くように収束していきます。それは人間には制御不能の自然界の猛威だったのであり、その終わり方も不可解なままでした。そしてペストが収束する頃になって、善良な二人、友人のタルーとリウーの妻が相次いでペストで死亡します。ペストは全く無慈悲な病気であることが印象付けられる形で物語は閉じられるのです。


 確かに、なぜこの世界には感染症のように無差別に人の命を奪う病が存在するのか、どうして神はそのような病気のある世界を創造されたのかという疑問に対して、キリスト教神学は、必ずしもその理由を明確に答えることができる訳ではないと思います。ローマの信徒への手紙8:22で使徒パウロは「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを私たちは知っています」と書いていますが、パウロがここで語っている「被造物の呻き」という表現には、広い意味で病気なども含まれることでしょう。また主イエス・キリストによる福音宣教の働きは、多くの場合、病いの癒しを伴うものでしたから、キリスト者の信じる神様が、このような悪の存在を全て是認しておられる訳ではないと思います。それでも、感染症のような悪が存在するということは、カミュのような無神論的な思想を裏付ける事実の一つであると考える人は少なくないことでしょう。


 確かにカミュは、この小説を通して、ペストの脅威に対するキリスト教信仰の無力さを示そうとしているのだと思います。しかし信仰上・思想上の立場は異なるのですが、キリスト者も、カミュがこの小説で訴えていることに同意します。小説の終わりの方で、ペストが退潮する直前に、主人公のリウーに友人のタルーが長いセリフを語る場面があります。タルーは最後にこう言います。


「そういうわけで、僕は、災害を限定するように、あらゆる場合に、犠牲者の側に立つことに決めたのだ。彼らの中にいれば、僕はともかく探し求めることができるわけだ―どうすれば…心の平和に到達できるかということをね」…リウーは少し身を起こし、そして心の平和に到達するためにとるべき道について、タルーには何かはっきりした考えがあるか、と尋ねた。「あるね。共感ということだ」(378-79頁)


このタルーの言葉の中に、カミュのメッセージが込められているのではないでしょうか。ナチス占領下のフランスのような状況に置かれたとき、また自分の住む町を感染症が襲って来た時に、カミュは、不条理な犠牲を強いられる人々の側に立ち、苦しみを共に担い、ともに涙する存在であり続けることを通して、人は心の平和を得ることができると語っているのでしょう。


 今回のパンデミックを受けて、英国国教会の神学者であるN. T. ライトという方が小冊子を出版されました。日本語にも訳されています(『神とパンデミック: コロナウィルスとその影響についての考察』鎌野直人訳、あめんどう、2020年)。この本の中で、N. T. ライトは、ヨハネによる福音書11章のラザロの死とよみがえりの箇所に言及します。イエス・キリストの親しい友人であったラザロが病気で死亡し、墓に埋葬されて数日が経過したあと、イエスがラザロをよみがえらせるという記事です。イエスは、死後数日たっていたラザロの墓の前で涙を流しました。病による早すぎる死を前にして、人にできることは、悲しむ家族とともに涙を流すことです(41-43頁)。そしてN. T. ライトは、パンデミックの中にある教会やキリスト者に訴えます。今必要なことは「傷んでいるその現場で祈る」こと(65頁)、また感染症との戦いのために「共に働く」ことである(68頁以下)。このようにN. T. ライトが訴えていることは、『ペスト』の登場人物であり、恐らく著者の思いを代弁しているタルーが、小説の中で語っていることとほぼ同じではないでしょうか。